Prologue
2020年6月14日(日)
潮の匂いが、胸の奥まで染みこんでいく。
フェリーを降りて港に立つと、海はまるで生き物のように呼吸していた。
太陽の光は細い糸のように海面を縫い、浅瀬はガラスみたいに透き通って、遠くへ行くほど深い青へと溶けていく。
波が堤をやさしく撫で、白いフェリーの影がゆっくりと揺れるたびに、光の粒が水面に跳ねた。
耳を澄ませば、風の音とカモメの声。その向こうに、どこまでも続く静けさがある。
その静けさは寂しさではなく、心を洗い流してくれるような、優しい静寂だった。
俺が見つめたその海は、ただ“綺麗”なだけじゃない。
『生きている』ということを、静かに教えてくれるような、穏やかな青だった。
俺の名前は、瀬名瑠偉。高校一年生。
生まれはこの国の首都・新都という都会。この静かな孤島、雅島とは正反対の場所だ。
いろんなことがあって、この島に引っ越してきた。
理由は……まあ、そのうち話すとして。
昔から俺は人と関わるのが得意じゃなかった。
気づけばいつも一人で、静かな場所にいる方が落ち着いた。
けれど、静けさの中に沈んでいくと、自分の中の記憶に沈んでしまうこともある。
それでも俺は『少しでも変わりたい』と思った。
だからこの島での暮らしに、少しだけ望みをかけてみる。
俺は自分を守るために『孤独』を選んだ。
孤独に育てられたから、今の俺がいる。
『孤独』を選んだその日から、心に鍵をかけて生きてきた。
肩に掛けたネイビーのリュックが、やけに重く感じる。
スマホの地図アプリを開き、矢印に沿って歩き出した。
港を離れると、道は細くなり、古い家並みと新しい民家が入り混じる。
どの門前にも、決まってあの守り神の石像。
どこからか、早めの夕食支度の匂いが海風に乗って流れてきた。
目的地の前に着くと、玄関先に五十代くらいの男性が立っていた。
「君が瀬名さんの息子さんだね?」
穏やかな声に、俺は小さく頷く。
「お父さんから話は聞いてるよ。家賃も光熱費も全部お父さんが払ってくれる。必要な家電も揃えてあるから、好きに使ってくれればいい」
「……ありがとうございます」
「なにか困ったことがあれば、すぐ連絡しておいで」
簡単な挨拶を交わし、部屋に入る。
木の匂いが残る床。広すぎない間取り。静かすぎる空気が落ち着くようで、どこか息苦しい。
じっとしていたら余計に考え込みそうで、俺は外に出て、島を歩くことにした。
父親は、新都ではそこそこ名の知れた議員で、毎日忙しくしている。
一緒に過ごす時間はほとんどなく、お金は与えられても、温もりのある記憶は少ない。
父さんのことは、正直好きじゃない。
きっと父さんも、俺を好きじゃない。邪魔者だと思っている。
母さんは、俺が五歳の頃に事故で亡くなった。
病弱な俺の手を引きながら、いつも優しく笑ってくれた人。
母さんがいなくなってから、父さんは俺に冷たくなった。
父さんにとっても、母さんは特別だったのだろう。
坂道を下ると、川のせせらぎが聞こえてくる。
陽を反射してきらきらと揺れる水面ー雅島の名所、清灯川。
地元では光雅と呼ばれているらしい。
透き通った水がゆるやかに流れ、夏の夜には蛍が舞うという。
清灯川では、夏になると『蛍火の夜』通称『蛍祭り』と呼ばれる祭りが開かれる。
無数の蛍が川面を舞い、夜空では花火が咲く。
光と光が重なり合い、風に揺れながら流れていくその景色は、まるで夜そのものが呼吸しているように。
島の人たちは、蛍と花火が混ざり合う一瞬を『夏の奇跡』と呼び、大切にしているという。
今は昼間だけど、光を宿したような川の輝きに、思わず足を止めた。
そろそろ戻ろうと曲がり角を曲がった、その瞬間だった。
「っ!」
前方から自転車が勢いよく現れ、肩がぶつかる。
手に持っていたスマホが、舗装されていない道に転がった。
俺がよろけたのと同時に、自転車が急ブレーキをかける。
「わり! ちと急いでて!」
短く言ったその少年はこちらを一瞥しただけで、再びペダルを踏み込む。
風とタイヤの音は遠くに走り、その場に残されたのはやけに鼻に残るムスクの香りだけ。
「……なにあれ」
小さく吐き捨てて歩き出す。
このときの俺は、まだ知らなかった。
あの自転車の少年との出会いが、この先の俺の毎日を。
いや、人生そのものを大きく変えていくことになるなんて。




