閑話:繋がった日常
蓮が和菓子職人の体験会の張り紙を見つけたのは、一週間前のことだった。商店街の掲示板に目を向けたとき、ふと見つけたのだ。通りかかった商店街の掲示板に、少し年季の入った紙が貼られていた。
「和菓子職人の世界を体験してみませんか? 職人・菊池健一による限定一日体験会。予約必須」
張り紙に描かれた和菓子の写真を、どこか温かみのある筆文字と共に蓮の視線が捉えた。その場でスマホを取り出し、すぐに予約ページを確認する。満席の文字を覚悟していたが、まだ空きがあることに心が弾んだ。
「これ、行ってみない?」
後ろから陽翔が覗き込んできた。
「お、いいじゃん!和菓子って自分で作れんの?絶対うまいやつでしょ!」
陽翔の声に押されるように、蓮は予約ボタンをタップした。予約完了の通知が届いた瞬間、二人はハイタッチを交わした。まるで小学生のように無邪気な笑顔を浮かべながら。
――そして、待ちに待った今日。二人は和菓子体験会の会場に足を踏み入れた。
商店街の奥にひっそりと佇む和菓子店。古びた木製の看板には「菊池和菓子店」と達筆で書かれている。軒先には鮮やかな赤い暖簾が揺れ、その奥からは甘い香りと仄かな湯気が漂っている。
暖簾を手で押し上げながら二人は店に入る。
「お、意外と人いるな」
陽翔が周囲を見渡しながら呟いた。蓮も軽く頷く。狭い店内には、すでに数人の参加者が揃っていた。小さな子供連れの母親、年配のご夫婦、そして一人で参加している青年もいる。
「こんにちはー。予約してた蓮です」
蓮が店内に声をかけると、奥から現れたのは年配の男性だった。白い割烹着を着て、眉間に深い皺を寄せた和菓子職人――菊池健一。
「おう、お前らも今日の参加者か。よろしくな」
声は低く渋いが、どこか柔らかさも感じられる。菊池は二人をじっと見つめ、一瞬だけ口角を上げた。
二人が最後の参加者だったのか荷物を置き、集まるように指示が出る。
本日はお集まりいただきありがとうございます。今日は「唐衣」というもっちりとした菓子と「牡丹」という練りきりの菓子を作っていこうと思います。という風な説明を菊池が言う。
「では、まずは手を洗い、各々の作業スペースにおいてある手順書を読んでください」
職人の指示に従い、二人は手を洗い場へ向かう。古びた洗面台には真鍮の蛇口があり、ひんやりとした水が心地よい。
「なんか緊張するな」
「だな。でもあの職人さん、ちょっとカッコよくね?」
陽翔の言葉に、蓮は小さく笑った。水滴が滴り落ちる音が、妙に静かな空間に響いている。
手を拭き終え、作業台に戻ると、菊池は既に和菓子の材料を並べていた。こしあん、白あん、求肥、着色料。材料たちは整然と並び、まるで一つの舞台装置のようだ。
「これが今日作る和菓子の材料だ。この道具を使い、このように形作っていく。これを使って、自分だけの形を作ってみてください」
菊池の声が静かに響く。蓮と陽翔はそれぞれの手に餡を取り、小さな球体を作り始めた。
「おっと、その力加減じゃ潰れるぞ」
菊池が蓮の手元を見て声をかける。蓮は慌てて力を緩める。
「和菓子はな、繊細なもんだ。力強さはいらねえ。むしろ優しく包み込むように」
見本を見せてくれる菊池の手元を見つめる二人。彼の手は決して若くはないが、その動きはまるで舞のように滑らかだった。生地を指で転がし、軽く抑え、形を整える。手元の生地が、彼の指先で少しずつ形を成していく。
蓮と陽翔もそれを真似て、慎重に和菓子を成形していく。二人の表情は真剣そのもので、いつの間にか周囲の音さえも消えたように感じられる。
「お前ら、和菓子作りは初めてか?」
「はい。でも、なんか楽しいっすね」
陽翔が笑顔で答えると、菊池は短く頷いた。
「そりゃいい。楽しいって思うのが一番だ」
彼の言葉には、何か含むものがあった。蓮はふと、菊池の顔を見つめる。どこか寂しそうにも見える眼差し。
「職人さん、普段はどんな和菓子作ってるんですか?」
蓮の問いに、菊池は少しだけ目を細めた。
「俺の店は、もうほとんど客が来ねえが季節に合わせ色々作ってるよ。代々引き継がれてきた味を守りたくて今も作り続けてんだ。最近の流行りに合わせたらまだ人気だったかもしれねえ。でも、伝統の味ってのは簡単には変えられねえからな」
彼の言葉に、蓮と陽翔はしばらく無言になった。湯気が立ち昇り、甘い香りが空気中を漂う。
それでも、目の前の和菓子作りに集中する。小豆餡を丁寧に包み込み、形を整え、色をつけ輝きを吹き込む。その繊細な作業は、まるで時間がゆっくりと流れているかのようだった。
菊池に時々教えてもらいながらも黙々と手を動かしていた二人。その手に包まれている餡子は和菓子といえる見た目になってきていた。
「そろそろ出来上がりだな」
菊池が言うと、二人は同時に顔を上げた。出来上がった和菓子は、どこか不格好ながらも温かみのある形をしている。
「へえ、結構うまくできたじゃねえか」
菊池が笑みを浮かべた。その顔はほんの少しだけ、安堵のようにも見えた。
「俺でもできたぜ、蓮!」
「いいじゃん!俺の方も上手にできたよ、ほら」
二人で見せ合って楽しんでいる。その周りで他の参加者の楽しそうな声も聞こえてくる。
「では、皆様二つ目の唐衣の方を作っていきたいと思います。こちらはグラデーションを作る過程を体験してほしいのでアツアツの柔らかい生地を今から配っていきます。」
そう説明をして、白色と薄く紫がかった生地を配り始めた。
「熱っ!和菓子作ってる人これ毎日とかすげぇな」
「本当にすごいよね」
そう話しながらも綺麗なグラデーションを作っていく。
生地を伸ばし綺麗な四角に切って餡を包む。
包むときに少しの個性を残しながら二つ目の和菓子も完成させる。
「完成!うまそっ」
陽翔がそう言っている所に「作業スペース片づけたら、お茶出したる。自分で作ったのはいつもより美味しく感じんぞ!」と嬉しそうに菊池がやってきた。
その言葉を聞き、作業台を片付け、二人は自分たちの作った和菓子を丁寧にお皿に乗せた。菊池が店の奥から持ってきた急須からは、立ち昇る湯気が白く揺れている。
「はい、お疲れさん。自分の作品と一緒にゆっくり味わってくれ。」
菊池が二人の前に湯のみを置いた。湯のみの縁には、かすかに梅の花が描かれている。お茶の色は深い緑で、その香りが鼻をくすぐる。
「いただきまーす!」
陽翔が勢いよく一口かじると、口の中に広がる甘さとほのかな塩気。その一瞬の表情の変化に、菊池は満足そうに目を細めた。
「うわ、うめぇ!俺が作ったとは思えない!」
「ほんとだ。あんこ、こんなに滑らかになるんだな。」
蓮も一口食べ、思わず微笑んだ。その顔を見て、菊池も小さく頷く。
「和菓子ってのは、見た目も味も大事だが、一番は作った時の気持ちだ。丁寧に作れば、その分味にも現れるんだよ。」
その言葉に、陽翔は「あー、なんか深いな」と言いながら、また和菓子を頬張る。
「ねえ、職人さん。昔からずっと和菓子作ってたんですか?」
蓮が聞くと、菊池は少し目を伏せ、湯のみを手に取った。
「まあな。親父の代から引き継いでるんだ。でも、最近は客も少なくなってな……。こういう体験会でも開いて一人でも多くの人に覚えていてほしいと思ったんだ」
その言葉に、一瞬空気が重くなる。陽翔も蓮も、お茶をすすりながら言葉を探した。
「でも、俺たち今日ここに来れてよかったっすよ。普段だったら絶対体験しないことだし。」
陽翔の言葉に、菊池はふっと表情を緩めた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。……お前ら、また暇な時にでも来な。今日は特別に作った和菓子、持ち帰り用に包んでやる。」
「まじっすか!?やった!」
陽翔が子供のように喜ぶのを見て、蓮も小さく笑った。
菊池は再び奥に戻り、包み紙を用意し始める。その後ろ姿を見つめながら、蓮はふと、今までの和菓子の味がどこか懐かしい気持ちを呼び起こすように思えた。
――今日の体験会は終わりを迎えるが、菊池の作る和菓子の温もりは二人の胸の中にしっかりと刻まれていた。