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第5話 届かぬことを知りながら

昼休みを知らせるチャイムが、少し遅れて鳴った。

 タイピングの手を止めると、水瀬紗月は一度だけ深く息を吐いた。モニターの中には法務対応の依頼メールがまだ三件。隣の席では、新人の契約書チェックが詰まっている。お昼の外出を諦め、席を立って給湯室へ向かう。


 紙コップに注がれるインスタントのカフェオレ。蓋をしながら視線を落とすと、スマホの画面に通知が一つ浮かんでいた。


《佐伯さん 今月いっぱいで異動》


 社内チャットの人事連絡。

 心臓が、少しだけ強く鳴った。


(ああ……やっぱり、本当だったんだ)


 ぼんやりと覚悟していたことだった。

 総務部の佐伯悠真が、他支社へ異動する。地方勤務。少なくとも、ここで気軽に顔を合わせることはもうない。


 同じプロジェクトで一緒になったのは、ちょうど一年前の春。

 法務と総務、普段はあまり交わらない部署。けれど、社内ガイドラインの整備という面倒な仕事を機に、彼と頻繁に会話をするようになった。


「水瀬さん、細かい条文見るの得意そうですね」

「佐伯さんの説明の仕方、わかりやすくて助かってます」


 そんなやりとりが、どれだけささやかなものだったとしても——彼のまっすぐな目や、少し抜けた笑い声に、心がふっとほどけるような瞬間が何度もあった。


 恋だなんて、決めつけるのはまだ怖かった。

 でも、気づけば彼の話題を探すようになっていたし、朝のエレベーターで偶然一緒になると、それだけで一日が違って見えた。


 彼のスマートではないけれど真摯な姿勢。誰にでも分け隔てなく接するところ。仕事のミスをかばうように笑っていた、あの優しさ。

 少しずつ、けれど確かに、自分の中に蓄積されていったものがある。


 そして今日、それが「もう届かないかもしれないもの」になった。


 彼に好意を伝えたことはない。

 それどころか、食事に誘ったことも、個人的な連絡先すら聞いていない。

 ただ、少しだけ距離が近い同僚——それが、今の二人の関係のすべてだった。


(伝えたら、何かが変わったのかな)

(変わってしまったら、怖かったんだ)


 紙コップの温もりが、指先からすり抜けていく。

 後悔とは言い切れない感情が、心の奥にそっと沈んでいた。


 午後のミーティングの準備をしながら、紗月はふと、自分の顔がほんの少し浮かないことに気づいた。

 周囲には、何も見せていないつもりだった。けれど、自分だけは知っている。


 「届かぬことを知りながら」、それでも、心のどこかが、何かを願っていたのだと。

 

 その日一日、集中力はどこか遠くに置き忘れたままだった。


 業務には支障が出ないように心がけていた。ミスはしていない。けれど、社内チャットの文字は頭に入ってこず、会議で交わされるやり取りも、どこか遠くの音のように聞こえた。隣の席の新人が声をかけてきた時にも、一瞬だけ返答が遅れた。


「……あ、ごめん。なんでもない。大丈夫」


 そう言って、笑顔を返す。

 それは、自分でもよく知っている“切り替えの顔”だった。


 ほんの少しの間だけでいい。

 誰にも気づかれずに、心の中に沈んだこの気持ちを、どこかにそっと流してしまいたい。


 デスクの引き出しには、昨年の冬に配られた社内報がしまわれたままだ。開くと、表紙の左下に彼の笑顔がある。「業務改善表彰」――そのインタビュー記事が載った号だった。彼は、取材中にも「いやあ、全然ですよ」と頭を掻いていたっけ。言葉の端々に照れが滲んでいて、それがまた、ずるいくらいに人の心をやわらかくした。


 ひとつ、思い出すことがある。


 去年の秋口、帰り道が偶然一緒になった日。

 オフィスビルの前、少しだけ風が冷たくなった夜だった。


「この時間の空って、いいですよね。明るくないし、でも真っ暗でもない」

「うん……ちょうどいい感じ、ですね」


 それだけの会話だった。ほんの数分。

 でも、その“ちょうどいい”という言葉が、妙に心に残った。


 彼にとって自分は、きっと“ちょうどいい同僚”だったのかもしれない。

 気を遣わず話せて、適度に距離がある。恋に発展するには遠く、かといって無関心ではいられない、曖昧で、均衡した位置。


 それが壊れてしまうのが怖かった。

 想いを伝えることは、勇気を出すことでもあるけれど、今ある関係を失うことでもある。

 それが惜しくて、言葉にすることを避け続けていた。


 でも。


(それで、よかったのかな)


 彼の異動を知った今、その問いはもう過去形になる。

 明確な後悔ではない。けれど、確かに「終わらないまま終わっていく」ことの残酷さを感じている。


 夕方、定時が過ぎても残業をしていた。

 パソコンの画面がやけに白く感じられ、ふと見上げた時計は午後七時を指していた。周囲の席はすでに人が減っている。


 帰ろう。そう思って立ち上がる。

 でも、自宅の明かりが、今夜はどうしても遠く感じられた。


(今日は……どこか、誰も自分を知らない場所に行きたい)


 そんな気持ちに導かれるように、彼女はオフィスビルを出て、夜の街へと足を向けた。

 まだ肌寒さの残る春の夜風が、髪をそっと撫でていく。ヒールの音がアスファルトに小さく響き、灯りのまばらな道を歩く。


 彼女は無意識のまま、会社のある大通りから一本、裏道へと抜けていた。

 静かな通りだった。照明の数も少なく、雑居ビルの隙間から細い月の光が差し込んでいる。足音が控えめに響く。歩き慣れた帰路ではないはずなのに、不思議と迷った感覚はなかった。


(この辺り、こんな雰囲気だったかな……?)


 小さな問いが浮かぶ。しかし、答えが出る前に――ふと、目に留まるものがあった。

 それは、黒塗りの木の扉だった。

 古めかしい質感の扉は周囲の現代的な建物とは明らかに異質で、その存在だけが、時間の流れからぽつりと切り離されているように見えた。まるで、そこだけが昔の物語の一頁のように、そっと置かれている。


 扉の上、アイアンフレームの看板が風にわずかに揺れていた。

 金属のプレートには、優美な筆記体でこう記されている。

 

「The Tale’s End」

 小さく灯る琥珀色のランプが、その文字を温かく照らしていた。

 その名前に、水瀬はふと眉をひそめた。

「終わりって、なんの?」

 心の中でそう呟いたが、すぐにそれは消えた。

 不思議な感覚が胸を締め付け、思わず一歩近づく。


 扉の前まで来て、ガラス越しに中を覗いてみると、そこにはやわらかな光が広がっていた。規則的に揺れるレコードの音、艶のある木のカウンター、そして並べられた酒瓶たち。

 時間の概念がどこかに置き去りにされたような、不思議な静けさが漂っていた。


「……バー、なのよね。この気持ちを整頓するにはお酒がちょうどいいかしら?」


 呟いた声は、夜に吸い込まれて消えた。


 気づけば、指先が扉に触れていた。

 ほんのわずかな躊躇のあと。

 紗月は、静かにその扉を押した。

 

 扉を押し開けると、ひんやりとした空気が紗月を包み込んだ。

 中に足を踏み入れると、瞬間的にどこか異世界に迷い込んだような感覚に襲われる。

 照明は柔らかく、琥珀色に灯ったランプが、静かに店内を照らしている。

 棚には整然と並べられた酒瓶が、年輪を感じさせる木のカウンターと共に、温かな光に包まれていた。

 不思議と、どこか懐かしさを感じる空間だ。

 外の喧騒や時間の流れが、ここでは一切感じられない。

 ただ静寂と、時が止まったような感覚だけが漂っている。


 視線を上げると、店の奥にいるのは、長身で落ち着いた雰囲気の男性。


「……すみません、入ってもいいですか?」

 紗月は軽く声をかけた。

 その声は、自分でも驚くほど静かで、どこか遠くの自分が話しているような気がした。


 マスターはゆっくりと振り向き、そして穏やかな表情で頷く。

「どうぞ、こちらへ」

 彼の声は、まるで柔らかく溶けていくような響きだった。

 言葉が余計な力を持たず、ここに居て良いと感じさせてくる。

 

 紗月がカウンター席に座ると、マスターが無言で手元に視線を落とし、素早く動き出す。目の前で、手際よくグラスが準備され、次々に材料が注がれていく。まるで何も言わずとも、彼女の気持ちを察しているかのような動きだった。


 グラスに注がれたそれは、均一に白く、光を柔らかく反射していた。優しく包み込んでくれるような色に彼女の心の中で、何かが少しだけほどけていくような感覚が広がった。

  グラスを差し出すマスターは、黙ってそのまま紗月を見つめたあと、ゆっくりと口を開く。


「このカクテルは、ホワイト・レディ。見た目もシンプルで、味もスッキリとしている。けれど、アルコール度数が高い一杯です」


 マスターは静かに、しかし確信を持って続けた。

「使われているのは、ジン、ホワイトキュラソー、そしてレモンジュースです。急ぎすぎず、けれども作り立てから風味が変わらぬうちに味わってください」


 彼の言葉は、カクテルの味わいそのもののように、ゆっくりと紗月の心に浸透していった。まるでその一杯が、彼女の心の中でまだ気づいていなかった何かを呼び覚ますかのようだった。


「心をほぐすには、ちょうど良いバランスを持っていると思います。たとえ今、悩みを抱えていようとそれを一番納得の形にしてくれるそんなお酒です」

 マスターのその言葉は、まるでカクテルそのものが持っている優しさと同じように、紗月の胸の奥に深く響いた。


 紗月は、目の前に置かれたカクテルを静かに見つめ、ゆっくりとグラスを手に取る。その冷たいグラスの感触が、少しだけ手のひらに温もりをくれるように感じられた。


 一口飲んだ瞬間、レモンの酸味がふわりと広がり、トリプルセックの甘さが後から追いかけてきた。ジンの辛さがそれをしっかりと引き締め、口の中でちょうど良いバランスを作り上げていく。


「どうぞ、今日は少しだけ心を開いてみてください」


 その言葉を胸に、紗月はカクテルを飲みながら、少しだけ目を閉じた。ほんの少しの時間、心を解きほぐすように。彼女の中で、何かがほんの少しだけ変わり始めたような気がした。


 ゆっくりとしたジャズが、心地よい。

 グラスの中でわずかに揺れた液面に、自分の顔が映っていることに気づいて、紗月は少しだけ目を伏せた。


 言葉を発するには、まだほんの少しだけ勇気が足りない気がして、グラスに視線を落としたまま、もう一口、そっと飲む。


 マスターは、それ以上何も言わなかった。ただ、背後の棚に並ぶ酒瓶と本のあいだを静かに整えていた。

 その沈黙は、けして重たくも気まずくもなく、まるで「言葉が出るまで待っているよ」と伝えるかのようだった。


 ——不思議な空間だな、と紗月は思う。


「……誰かに話すほどのことじゃないんですけどね」

 不意に、ぽつりと声が漏れた。自分でも、口が勝手に動いたような気がした。


 マスターは手を止め、しかし視線を向けず、ただ軽く頷いた気配だけを返す。


「職場に……ずっと気になってる人がいるんです。いえ、“いた”のほうが正しいのかな」


 グラスの縁に指を添えながら、紗月は小さく笑った。

「まさか自分が、こんな話をするなんて思ってなかったですけど……ここだと、なんか、話してもいい気がして」


「それはよかった」

 低く穏やかな声が返る。


「相手は、総務部の人で。たまにしか会わないんですけど、会うと……なんて言うか、ちょっとした会話だけで一日が軽くなるような、そんな人でした」


 言葉を紡ぎながら、自分でも少し驚いていた。まるで頭の中で整理できていなかった気持ちが、グラスの中の琥珀色の液体に溶け出すように、すらすらと言葉になる。


「何も伝えられないまま、その人が異動するって聞いて。それで、どうしようって思って……結局、今日、送別会で少しだけ話したけど、結局何も言えなかった」


 グラスを置くと、氷がひとつ、かすかに音を立てた。


「知ってるんです。どうせ、届かないんだろうなって。でも、心のどこかで、ちゃんと自分の気持ちを“終わらせたい”と思ってる。何か、区切りがほしい……そんな気がして、ここに来たのかもしれません」


 そう言って顔を上げた紗月の目に、カウンター越しのマスターの穏やかな視線が映った。

 再び紗月はグラスを持ち上げる。その味は、先ほどよりも少しだけ、優しく感じられた。


「——なんででしょうね」


 ぽつりと紗月がつぶやいた。


「誰にも言わないで、ずっと心の中にしまっておくほうが、楽だったはずなんです。でも……」


 言いながら、自分の指先がグラスの縁をなぞっていることに気づく。


「伝えないまま終わらせたら、自分の気持ちまで嘘になってしまいそうで。だったら、せめて誰かに話して、ちゃんと自分のなかに残したかった。そう思ったんです」


 その「誰か」が、こんな見知らぬ店のマスターになるなんて、少し前の自分では想像もしなかった。

 けれど今、この場所にいる自分は、心からそれを「よかった」と思っている。


 マスターは何も言わず、棚から一冊の本を取り出した。

 それは他の本とは違い、背表紙にまだ何も刻まれていない、どこか温もりのある革装丁の本だった。


「よければ、ここにあなたの“物語”を残しませんか」


 紗月が本を受け取ったのをしっかりと確認したマスターは、万年筆とも羽根ペンともつかない、不思議な筆記具を渡してきた。紗月がそれを持った途端、指先にすっと馴染んでいく。


「この本に記すのは、誰かに読まれるためじゃない。あなたが、あなた自身の気持ちに触れるための記録です」

 マスターの言葉に導かれるように、紗月はそっとページに手を置いた。


 すると——


 指先から、やわらかな光が伝い、まるで万年筆のインクが紙をなぞるように、文字が浮かび上がっていった。


《届かぬことを、知りながらも——》


 筆致は繊細で、けれど確かな力を持っていた。

 彼女の声なき想いが、一文字一文字として頁に現れていく。


 語られた言葉が、心の奥底にあった本音と共に、一冊の本として静かに形になっていく。


 すべてを書き終えたとき、本はふわりとあたたかくなり、ふっと光が収まった。

 背表紙には、彼女の名前——「水瀬紗月」の文字が、金の箔押しで刻まれていた。


 マスターはその本を丁寧に受け取り、背後の棚の空いていた一角にそっと戻した。

 あたかも、はじめからそこに収まる運命だったかのように、ぴたりとおさまった。


「……ありがとうございました」


 紗月は深く息を吐き、小さく笑った。

 さっきまで肩にかかっていた重さが、少しだけ軽くなった気がした。


 マスターは微笑をたたえ、グラスをそっと片づける。


 カウンターの端の時計は、振り子をゆっくりと揺らしている。

 カチリと一度だけ音が鳴った。

 時刻を示すことのないその時計は、彼女の物語が「今」、確かに前に進んだことだけを知らせるように、静かに時を刻んでいた。

 

 店のドアを来た時とは違い躊躇いなく開ける。

 外に出ると、夜の街はしんと静まり返っていた。

 昼間の喧騒が嘘のように、舗道には人影もまばらで、ビルの窓に映る灯りだけが街の鼓動を伝えている。

 立ち止まって空を見上げると、夜空の端に、小さな星が瞬いていた。

 心の奥で、なにかが静かにほどけていく。


 思いを伝えることが、すべてじゃない。

 伝えられないまま終わる恋だって、きっと、それはそれでひとつの物語になる。


 あの店で語ったのは、恋の結末じゃない。

 恋をした自分のことだった。

 誰かを好きになって、心が揺れて、それでも日々を過ごしていた自分のこと。


 明日、最後に声をかけてみよう。

 何も言えなくても、せめて笑って『お疲れさまでした』って、ちゃんと伝えよう。

 それが、今の私にできる、精一杯の一歩だ。


 ゆっくりと歩き出す足取りが、少しだけ軽くなった気がした。

 街灯の下、風が髪を揺らし、背中をそっと押してくれる。

 行き交う人々の中に紛れながら、紗月は歩き出した。


 たとえ、この気持ちが届かなくても。

 それでも、自分の中でこの想いを、大切にできたことを――

 きっと、いつか誇りに思える日が来る。

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