第4話 静かな夜の証明
朝の空気はすでに熱を含んでいて、駅の改札を抜けた時には、背中に汗がにじんでいた。
スーツの上着を腕に掛けながら歩く。脳はすでに今日のスケジュールをフル回転で組み立てていた。
八神 瞬——二十代後半にして、部内最年少の課長職。上司の信頼も厚く、部下からも一目置かれている。
社内では“切れ者”“頼れる人”“間違いない人”と呼ばれて久しい。
ただの営業職にとどまらず、提案・管理・育成すべてを高水準でこなす“万能型”。
そうして積み上げてきたのは、実績と、称賛と、期待と——そして、時々息苦しくなるほどの「優等生」のイメージだった。
「八神さん、これだけお願いしていいですか?」
「すみません、急ぎなんですが、どうしても確認を……」
「八神さんなら、なんとかできますよね?」
なぜか、頼られるほどに、首のあたりが締まる気がしていた。
(……ああ、またか)
声に出さない返事を飲み込んで、笑ってうなずく。
「任せてください」と言えば、みんなが安心する。それはもう、反射のように身についてしまっていた。
会議室では無駄のない資料展開。
指摘の鋭さと、ユーモアのある補足で、役員からは満足げな頷きを引き出す。
昼休みも電話対応のまま。コンビニのパンをデスクでかじる時間すら惜しい。
(あと一本。あとひとつ終われば、今日は定時近くに……)
そんな希望も、午後一番のトラブル報告で潰えた。
深く息を吸って、やるべきことをやる。
別に、怒っていない。誰かを責めたいわけじゃない。
ただ、誰も気づかないだけだ。——この“できる人”という仮面の内側を。
午後十時。部署の灯りは彼ひとりになっていた。
社外との調整メールを打ち終えて、最後にひとつ、深い椅子の背にもたれる。
静かなオフィスに、自分の呼吸だけが聴こえる。
スマホを見る。誰からのメッセージも着信もない。
週末の予定も、特にない。友人との飲みも、恋人もいない。
(こんな夜、何してたっけな)
ふと、ジャケットに手を伸ばして立ち上がる。
家に帰る気がしなかった。
飲みたいというより、ただ、どこかでひと息つきたかった。
ネオン街の喧騒は遠巻きに避けた。
賑やかすぎる店も、無意味に気を遣う空間も、今日は欲しくなかった。
少し遠回りをするように、知らない路地に足を踏み入れる。
看板の明かりは少なく、まばらな飲食店と、静かな雑居ビルが並ぶ通り。
けれど、その奥にふと目を引く光があった。
琥珀色の灯り。木製の看板。時計のない扉。
小さな看板には、こう刻まれていた。
——「The Tale’s End」
なぜか、足が止まった。
理由はない。ただ、そこに辿り着いた。
扉を押すと、微かに鈴の音が鳴った。
音の余韻が店内に溶けていく。
中は、外の喧騒とは別の世界だった。
薄暗い照明。温かな琥珀色のランプが、木目のカウンターと棚に柔らかく反射している。
棚の奥には、洋酒のボトルと……本?
不思議なほど整然と並べられた本の背表紙。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥に立つのは、髪を後ろに撫でつけたバーテンダー。
黒いベストに、淡いグレーのシャツ。声も、身のこなしも、どこか時間の流れとは違う場所にいるような落ち着きを帯びている。
八神は静かに頭を下げ、カウンターの端に腰を下ろした。
革張りのスツールが、思ったよりも心地よく身体を受け止める。
「お疲れのようですね」
「……ええ。少し、寄り道がしたくて」
マスターはそれ以上何も訊かず、カウンターに水を置いた。氷がひとつ、音を立てて沈む。
「お酒を。何か……おすすめはありますか?」
八神がそう訊ねると、マスターはふと目を細めた。
棚の奥を一瞥し、やがて静かに答える。
「では、《ゴッドファーザー》を。ウイスキーとアマレットのカクテルです」
「……“ゴッドファーザー”」
どこかで聞いたことのある響き。映画のタイトルがまず頭をよぎるが、カクテルとして飲むのは初めてだった。
「このカクテルの言葉、ご存じですか?」
マスターの問いに、八神は首を横に振る。
「“偉大”。そう呼ばれることがあります」
その一言に、背筋がわずかに硬くなった。
偉大。まるで、自分に突きつけられたような言葉。——それは、他人が自分にかぶせてきた仮面のようでもあり、かつて自分が欲した肩書きでもあった。
「……いいですね。いただきます」
マスターは黙って、琥珀の液体をグラスに注ぐ。
香りは濃く、少しだけ甘く、そしてどこか懐かしさを誘うものだった。
八神はその一口を、ゆっくりと味わう。
「今日、何かあったわけじゃないんです。ただ……少し疲れてしまっただけで」
八神は静かに語りだす。その話にマスターは頷くだけだった。言葉を挟まないその態度に、八神は少しだけ、話しやすさを感じていた。
「全部、ちゃんとやってるつもりなんです。誰に何を聞かれても、答えられるように。頼まれたことは、期待以上に応えられるように。それで、ずっとやってきました。」
琥珀色の液体が、グラスの中で微かに揺れる。
「“八神さんならできますよね?”って、あの言葉、もう聞き飽きるくらい耳に馴染んでて。最初は、信頼されてるんだって、嬉しかったはずなのに……今はもう、自分が何者なのか、わからなくなる時があるんです」
マスターは、その言葉に反応するように、静かに一呼吸置いた。
「仮面を外す場所がない、というのは……苦しいものです」
その言葉に、八神の表情がふと揺れる。
「……仮面、ですか」
「ええ。偉大だとか、頼れるとか……そう言われるほど、本当の自分が遠ざかるように感じることもある。そういうお客様、実は少なくありません」
八神は視線を落とし、グラスの中を見つめた。
「俺、どこかでずっと、そういう“人であるべき”って理想に寄りかかってきたんでしょうね。“八神瞬”という役を、上手く演じていたかったのかもしれない。自分で、自分を信じられるように」
「その役のために、ずっと走り続けてきたのですね」
八神は静かに頷いた。
「でも、……そろそろ降りたいと思ってるのかもしれません。せめて、今夜くらいは」
グラスを置いた八神は、しばらく黙ったまま視線を落としていた。
マスターは無理に続きを促さず、ただカウンター越しに穏やかに立っている。
「……学生の頃から、評価されるのが好きだったんです。褒められたり、頼られたり、期待されたり。なんか、すごく安心できて……“これが俺の価値だ”って思えてた」
グラスの縁をなぞる指が、かすかに震えていた。
「でも社会に出て、少しずつ、その“価値”の重みが変わってきた。数値になって、評価になって、指標になって……。気づいたら、それに追われてる感覚があって」
マスターは静かにうなずいた。
「信頼や評価は、人を前へ進ませる力にもなりますが、ときに、心を縛る枷にもなりますね」
八神は小さく笑った。
「枷、ですか。……確かにそうかもしれません。俺は、優等生の枷を、自分で自分にかけてきた」
しばしの沈黙があった。
やがて八神は、マスターの顔をゆっくりと見た。
「この店……不思議ですね。初めてなのに、ちゃんと聞いてくれる人がいると、言葉が自然と出てくる」
「言葉というものは、相手がいるからこそ、輪郭を持ち始めるのかもしれません」
八神は、どこか少し安心したような顔をして、ふっと息を吐いた。
マスターはゆっくりと、カウンターの端から一冊の本を取り出した。
背表紙にタイトルはない。ページはまだ真新しかった。
「こちらをどうぞ」
渡された万年筆とも羽根ペンともつかない、不思議な筆記具を受け取りながら、八神は少しだけ笑った。
八神はペンを構える。
ペン先が紙に触れた瞬間、さらりと文字が流れ出した。
誰に見せるでもない、誰かの期待に応えるためでもない、ただ、自分の言葉。
静かで、落ち着いた気配を纏っている、一行一行が、白いページを満たしていく。
ペンが紙の上を滑るたび、黒色のインクが静かに吸い込まれていく。
その文字は、ボールペンで書いたようにわずかに太さが揺れながら、しかし迷いのない線を描いていた。
「——“できる人”って言葉には、裏側がある」
「それは、“できて当然の人”になるってことだ」
「ミスも戸惑いも、誰かに話す弱さも、全部“らしくない”って片づけられてしまう」
「……でも俺だって、本当は、ただの人間なんだ」
誰に向けるでもない言葉を、彼は淡々と綴っていった。
その背中からは、張りつめたものが少しずつほどけていく気配があった。
「それでも俺は、前に進む」
「完璧じゃなくても、ちょっとずつ、息をしながら、生きていく」
「この夜が、そんなことを思い出させてくれた」
最後の一行を書き終えた瞬間、本がかすかに温もりを帯びる。
八神はそれに気づいて、ふと手を止めた。
本の中央がほのかに光り、そのままゆっくりと閉じられていく。
静かに背表紙を撫でると、すうっと淡い光の筋が走り——
背表紙には、「八神 瞬」の名が、静かに浮かび上がっていた。
その文字は金の糸で織られたように美しく、そして、どこか誇らしげだった。
八神はマスターに本を差し出す。
マスターは軽く頷き、「お預かりいたします」と静かに言葉を添える。
店の奥にある棚へと運ばれていった。
他の誰かの物語と肩を並べ、けれど確かに唯一無二の一冊として、本はそっと奥の棚に加えられる。
並んだ他の本と同じように、それは“物語の一冊”として静かに佇んでいた。
カウンターに静寂が戻ったその時、いままで耳に入っていなかったジャズの心地よい音が聞こえた。八神はその音に導かれるように、そっと立ち上がる。
特に酔っているわけではない。だが、胸のどこかに少しだけ温かな余韻が残っていた。
グラスには、氷のかけらがまだゆっくりと溶け続けている。
琥珀の液体はもう空で、わずかにアマレットの香りが残っていた。
「……ごちそうさまでした」
そう言って深く頭を下げると、マスターはただ静かに微笑んで応えた。
八神が扉に手をかけると、背後からまた振り子がひとつ、音を落とす。
カラン、と小さく鳴るベル。
外気は夜の静けさをまとって、熱を少しだけ冷ましていた。
人通りの少ない路地に出ると、八神はゆっくりと息を吐いた。
仕事帰りに感じていた、あの首を絞めるような重さは、どこかへと消えていた。
スマホを取り出す。誰からの通知もない。
それでも今は、不思議とそのことが寂しくなかった。
(……明日も、ちゃんとやるよ)
心の中でぽつりと呟いて、彼は歩き出す。
足取りは軽い。
それは、誰かに証明してもらわなくてもいい、自分だけの「夜」を持てたからかもしれない。
通りを抜け、駅の明かりが見えてくる頃、八神はふと立ち止まる。
昼間の喧騒が頭をかすめた。
「八神さんなら、なんとかできますよね?」——あの言葉も、声のトーンも、すでに鮮明には思い出せなかった。
あの時感じた首の締まるような圧は、今の自分にはただの“音”でしかない。
(全部を、期待通りにこなさなくてもいいのかもしれない)
そんな思いが、胸のどこかに芽を出していた。
それは逃げでも、投げ出しでもない。
ただ、“できる人”の仮面の内側にいた自分が、ようやく自分に対して頷けた気がした。
スマホを取り出し、予定表を開く。
明日のスケジュールはびっしりだ。でもその中に、一つだけ空白を見つけて、そっと指先で囲んだ。
——次の自分のための、余白。
再び歩き出す足は、何かに急かされることなく、リズムを持っていた。
明日も、また任されるのだろう。頼られるのだろう。
でもそのたびに、あの夜の一杯を、静かに思い出す気がした。
誰にも気づかれないような小さな余裕。
それは、“偉大”という言葉の重さに縛られずに、なお堂々と立つための、彼なりの「証明」だった。
翌朝、いつも通りに出勤する。何も変わらない日常。
「おはようございます」と笑って言えば、いつも通りのやりとりが返ってくる。
変わったのは、彼の目に映る景色だった。
部下の書類に目を通す時、ふと「これは君が考えたのか」と訊ねた。
褒めるでもなく、ただの問いかけだったが、相手の表情が少しだけ明るくなるのが見えた。
会議の後、後輩が「ちょっとだけ時間いいですか」と声をかけてきた。
その足取りが、以前よりも自然だった。どこか頼りきりでなく、信頼に近い距離感を帯びていた。
——すべてを背負わずとも、人は頼られる。
そんな当たり前の事実を、ようやく実感として受け入れられた気がする。
「八神さん、すみません、これ……」
「ん、俺じゃなくてもいいなら、まず君がやってみて」
そう返す声に棘はなかった。ただ、余白のような優しさが混じっていた。
自分を少し手放すことで、ようやく本当の意味で“偉大”に近づけるのかもしれない——
そんな気配が、今日の彼にはあった。