第3話 氷が解けるまでに
春の終わりと夏の入り口が交差する、宵の時間帯だった。
日が沈んで間もない街は、まだ昼の熱をわずかに残していて、ビルの谷間を抜けてくる風は、心地よさと鬱陶しさを同時に運んでくる。
それはまるで、久しぶりに会う誰かの、言葉にできない距離感のようだった。
蓮は、歩いていた。
目的があったわけではない。ただ、部屋にいても落ち着かなかった。
スマートフォンの通知を消して、上着のポケットに無造作に突っ込んでから、手ぶらでアパートを出たのが一時間前。
気づけば見知らぬ道を選んでいて、気づけばこの路地にいた。
灯りがひとつ、道の脇に浮かんでいた。
小さな真鍮のランプ。黒い木の扉と、深い藍色の壁。目立たない金のプレートが、わずかに光を弾いていた。
見たことがない。けれど、なぜか懐かしい気配をまとっていた。
扉に手をかけたのは、ほとんど反射だった。
小さく軋む音がして、琥珀色の光が迎え入れるように広がった。
中は静かだった。ジャズの音だけが低く流れている。
カウンターだけの小さな空間。奥の棚には、瓶と──本が並んでいた。
名前が刻まれたそれらに、目を細める。誰かの物語が、酒の隣で眠っているように思えた。
マスターと目が合う。深く沈んだ瞳に、一瞬だけ吸い込まれそうになる。
けれど、彼は何も言わなかった。ただ静かに、軽く顎を引いて、蓮に座るよう促す。
蓮は頷き、カウンターの2番目の席に腰を下ろした。
心の中にあるざわめきが、少しだけ和らいだような気がした。
何かを聞かれることも、メニューを手渡されることもなかった。
マスターはただ静かに、奥のグラスを取り、ボトルを手に取る。氷を取り出すトングの音が、沈黙に触れる。
――なぜ、こんなにも落ち着いていられるんだろう。
蓮は、自分の掌を見つめた。細かな汗が滲んでいた。
まるで、これから会う人間の名前を、ずっと心の中で握りしめていたみたいに。
ガラスと金属がぶつかる澄んだ音。シェイカーがわずかに揺れ、また静まる。
それだけの音が、蓮の呼吸の間を埋めていく。
そして――
扉の鈴が、鳴った。
振り返らなくてもわかった。あの歩調。あの、間の取り方。
蓮はゆっくりと視線を上げた。
時間の止まったような店の中に、ひとりの男が入ってくる。
陽翔だった。
変わらない顔。少し伸びた前髪。季節に合わない長袖のシャツ。
けれど、蓮にはそれが――ずっと会わない間に、自分の中で何度も思い出し、擦り切れるほど再生した「陽翔」と、ほんの少しだけ違って見えた。
それが、どこなのかはわからない。ただ、変わってほしくなかった、という想いだけが喉に刺さる。
陽翔は蓮に気づいたのか、それとも最初から分かっていたのか。目を合わせず、静かに店の中へと進んできた。
カウンターの、蓮の二つ隣。四番目の席に腰を下ろす。
距離があった。ほんの少しの、でも埋まらない距離だった。
蓮は横目で彼を見たが、陽翔は何も言わない。ただ、視線はまっすぐ前を見ていた。
それは、まるで目を逸らしているようでいて、何かを押し殺しているようにも見えた。
沈黙が降りる。
マスターは何も言わず、ただ静かにグラスを取り出し、再び道具に手をかけた。
乾いた氷の音が、ふたたび店内に鳴る。
細く長いグラスの中に注がれた液体は、淡い金色をしていた。
そこに、音を立ててシャンパンが注がれる。細やかな泡が弾けて、微かな風のような音を立てる。
「……」
陽翔の前に、グラスが置かれる。
彼はすぐには手を伸ばさなかった。ただ、その表面を見つめていた。
グラスの中の泡が、絶え間なく上へと昇っていく。その音だけが、沈黙を割らずに満たしていた。
蓮はグラスを見た。
自分の目の前にも、同じような泡が浮かんでいた。
香りは軽やかで、すこし鼻をくすぐる柑橘のような甘さが混じっている。
名前を知らないカクテル。けれど、不思議と馴染んでいた。
喉を潤すより先に、息を吐く。少しだけ、肩が落ちた。
そして、横目で陽翔をうかがう。
手を伸ばした陽翔が、グラスの縁に指を添える。
グラスがわずかに揺れ、泡がふわりと立ち上がる。
その指先は、以前よりも少し骨ばっていた気がする。
「……」
また、沈黙。
でも、もうさっきまでのような緊張感ではなかった。
何かが始まる気配が、確かにあった。氷が、少しだけ溶け始めるような、そんな空気。
蓮は、呼吸を整えた。
言葉を探す前に、まず自分の中にあるざらつきを確認しているようだった。
あの日のこと。あのやりとり。くだらない言い争い。
誰が悪いとか、どちらが先に引くべきだったとか。そんなことは、本当はどうでもよかったのかもしれない。
ただ、ずっと言えなかった。ずっと、会えなかった。
「……久しぶり」
その言葉が出たとき、泡がまた、ひとつはじけた音がした。
言ってしまったあと、蓮はすぐには陽翔の反応を見なかった。
言葉が落ちたあとの空気が、自分の中にじわじわと染みこんでくるようで、それを受け止める時間が必要だった。
陽翔の気配が、少しだけ揺れた気がした。
長いまつ毛の下にある視線が、蓮の方へと動いた。けれど、それは正面から向けられるものではなく、まだどこか様子をうかがうような、そんな視線だった。
「……ああ」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
陽翔の声は、思っていたよりも変わっていなかった。
少し低くて、どこか乾いた音。けれど、それが返って安心を運んできた。
久しぶりに聞いたのに、まるでつい昨日も話したような気さえした。
「なんで……ここ、知ってたんだ」
蓮はグラスを軽く傾けながら、言葉を探すように呟いた。
その声も、問いかけというよりは、自分の胸の中でこだましていた疑問をぽろりと零したようなものだった。
陽翔は、少しだけ笑った。皮肉でもなく、照れでもなく、ただ「そういうのもあるか」とでも言うような、小さな息の漏れる笑み。
「知らなかったよ。ただ……歩いてたら、なんとなく引っかかってさ」
「なんとなく、か」
「そう。俺も、自分でもよくわかんない」
また、泡が弾ける音がした。
二人の前にあるカクテルは、まだその金色のままで静かにそこにあった。
蓮はその音を耳に感じながら、思った。
こうやって、言葉が出てくるのなら、たぶん自分たちはまだ――終わっていなかったのかもしれない、と。
「ほんと、くだらなかったな」
ぽつり、と陽翔が言った。
グラスの縁に指を沿わせながら、どこを見るでもなく視線を落としている。
蓮は、黙って聞いていた。
それは、陽翔が責めているわけじゃないことが、言葉のトーンでわかったからだ。
「こっちも……悪かった」
続けるように、蓮も口を開いた。
言いたかったことのひとつを、やっと飲み下せたような、そんな感覚。
二人の間にあった冷たい何かが、音もなく緩んでいく。
泡の弾ける音が、それを肯定してくれているようだった。
「……でさ」
陽翔が言いかけて、そこで一度言葉を止めた。
蓮が横目で見ると、陽翔の顔はグラスの影に隠れていた。
「また、どっか行かね? 夏のうちに」
不意に差し出されたその言葉に、蓮の胸の奥が、少しだけ熱を帯びた。
ふいに戻ってきた陽翔との距離。それは過去に戻る提案ではなく、これからまた先を並んで歩くための一歩だった。
「……いいよ」
ふたりはまた、グラスに目を落とす。
炭酸の細かな泡が、まるで会話の続きをせかすように弾けていた。
どこか懐かしいこの音が、今の沈黙をちょうどよく包んでくれているようだった。
「……あのさ」
蓮が小さく呟いたその声は、奇跡のように陽翔の耳にも届いたらしい。すぐに返事はなかったが、椅子の脚が木の床を擦る音がして、陽翔が隣に座った。
ゆっくりと向けられた視線に、蓮は微かに笑う。
「お前、背ぇ伸びたな」
「お前が縮んだんだろ」
それだけで、互いの顔に笑みがこぼれる。気が抜けたような、でもどこかずっと待ち望んでいた瞬間。
マスターがカウンターの奥から一冊の本を差し出す。その表紙にはまだ何も記されていない。不思議と俺ら二人の本だなと感じた。
マスターが二人に一本のペンを差し出す。
蓮が先にペンを取った。マスターの差し出したそれは、万年筆とも羽根ペンともつかない、不思議な筆記具だった。けれど、それを持った途端、指先にすっと馴染んでいく。
一行目を書き出されていく。インクは濃紺で、まるで夜空のような深みがあった。
――あの日、くだらない意地だけでぶつかって、話さなくなった。
書いた瞬間、ページの端がわずかに光を帯びる。
「うわ、何これ……すげぇ」
陽翔の驚きの声が、思わず漏れる。まるで少年のような目でページを覗き込んだその時、ペンがふわりと陽翔の前に滑るように移動した。まるで、“君の番だ”と言わんばかりに。
躊躇うように陽翔がそれを手に取ると、ペン先がごく自然にインクをまとい始める。ただ、蓮と違い陽翔のインクは、深い藍色に鮮やかな紅色を溶かしたような色だった。
――でも、本当はずっと、話したかった。ごめんな。
次の瞬間、蓮がページを見て思わず声を上げた。
「え、何コレ……色違うじゃん!てか、字も微妙に違うのに……どうなってんの?」
二人の文字は確かに別々なのに、不思議な調和がそこにあった。蓮の夜空のような文字に、陽翔の朝焼けのような筆跡が、まるで川の支流が合流するように溶け込んでいく。
「ちょ、待って、えっ凄くね? これ……」
陽翔も身を乗り出して、何度もページをめくりながら確認している。書いているのは自分たちなのに、読み返すたびに新しい驚きがある。思い出が、言葉にして初めて“物語”に変わっていく。
「何か、かっこよくない……? 俺らのこと、ちゃんと、こうして並んでんの」
「うん……正直、泣きそうなんだけど」
二人は顔を見合わせて、同時に笑った。
笑い声が重なって、ふっと店の空気が軽くなったように感じた。まるでこの場所が、ふたりの変化を喜んでいるかのようだった。
グラスの泡はまだ、静かに弾け続けている。
まるで、この瞬間を祝福するように。
そこから少し時間が経ち、二人の手が止まる。
自分達が書いた物語を最後に読む。ページをめくるごとに、ふたりの文字が、少しずつ混ざり合っていく。
筆跡の違いは残っているのに、なぜか読んでいて引っかかりがない。それぞれが語ったはずなのに、まるで最初から、ふたりでひとつの物語を書こうと決まっていたかのように――自然に、やわらかく、しなやかに重なっていく。
やがて、背表紙にふわりと光が差した。
蓮がそっと手を伸ばす。触れると、そこには文字が浮かんでいた。
「蓮&陽翔」
苗字は書いてなかった。目に入る範囲にはない、名前だけの背表紙。
けれど、それがむしろしっくりきた。
親しさと照れくささと、どこか無防備な信頼。
「なあ、これ……名前だけって、俺らだけじゃね?」
陽翔がぽつりと言った。
蓮は笑って、グラスの中で弾ける泡の音に耳を傾けた。
「いいじゃん、名前だけで通じるって、最強っぽくね?」
陽翔は「確かにな」と笑い、どちらからともなく、同時に本を閉じた。
蓮がそっと本を胸元に抱えると、それはふいにほんのりと温もりを帯びた。
まるで、言葉が体温を持っていたかのように。
陽翔と顔を見合わせると、どちらともなくふっと笑みが漏れる。
カウンターの奥で、マスターがゆるやかに頷いた。
背筋をすっと伸ばしたマスターの前に、蓮はそっと本を差し出した。
その手元で、本がわずかに光を返す。
まるで今、ページに刻まれた物語が息を整えているようだった。
マスターは受け取った本の背をそっと撫でたあと、ふと目を細めるようにして言った。
「……“フレンチ75”という名は、第一次大戦の野砲から来ています。口当たりは柔らかいのに、あとから静かに効いてくる。その意外性と、華やかなのに芯が強いところが、ずっと昔から変わらない。」
グラスに残った小さな泡を見やりながら、マスターは続けた。
「仲直りや、踏み出す勇気の一杯として選ばれることも多いですね。……音が消えたあとの静けさを、確かめるような一杯。」
その声は、まるで本に書かれた言葉の余白を読むようだった。
二人は言葉を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。
マスターは微笑を浮かべると、その本を酒瓶と本が並ぶ棚へと収める。
“蓮&陽翔”と記された背表紙が、棚の光にそっと溶け込んだ。
カウンターの奥で、時計の振り子がひとつ鳴る。
時刻のないその音が、二人に静かに「行っておいで」と背を押した。
蓮は振り返り、陽翔と並んで入口へと歩き出す。
琥珀色の照明に背を押されるように。
扉の前で、陽翔がふいに振り返った。
「なあ」
「ん?」
「次ここ来るとき、また一緒がいいな」
蓮は一瞬言葉に詰まり、照れ隠しのように鼻を鳴らした。
「当たり前だろ、相棒」
扉を開けた瞬間、夏の夜の気配が、二人を迎えた。
静かな夜道に、カラン、と氷の音が遠く響いた。