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第2話 継がれぬ手

指先が、ふと止まった。濡らした布巾を手に、今しがたまで菓子盆を拭いていたはずだった。その動きが、不意に途切れた。工房の窓から差し込む薄陽が、古びた木の作業台を静かに照らしている。小さな工房の中には、すりきれた道具と、淡い甘さを含んだ空気が満ちていた。干菓子用の木型が、引き出しの中でじっと並んでいる。何十年も使ってきたものばかりだ。どれも、父の手から譲り受けたものだった。さらにその父が、またその前から。まるで、時のしずくを1つずつ受け止めるようにして。


 けれど今、その手を継ぐ者はいない。


 ため息のように、小さく息を吐いた。継がれてきたものが、自分の代で終わるということ。

 ――それは、思っていた以上に静かで、思っていた以上に堪えるものだった。


「……仕方ねぇってのは、わかってるつもりなんだがな」


 もう何度口にしたか分からないその言葉を、また繰り返してみる。だが、その度に心のどこかがざらつく。誰に向けた言い訳なのか、自分でもわからなかった。


 夜の街を、あてもなく歩くのは久しぶりだった。ずっと和菓子を作ってきた。ただひたむきに自分の技術を磨いてきた。暖簾を下ろし、店を閉め、灯りを落とした後。肩に羽織った作務衣の上着が風に揺れ、路地の空気が肌に染みる。


 ふと気づけば、灯りの少ない裏通りに無意識に足を運んでいた。初めて通る道だ。舗装の古い小道に、かすかに聞こえるジャズの音色。


 見慣れない建物が、そこにあった。


 深い紺の壁、黒い木のドア、真鍮の取っ手。  控えめな金色のプレートには、柔らかな明かりの中でこう刻まれていた。


 《The Tale’s End》


 物語の終わり、というには、不思議と始まりの匂いがした。


 吸い寄せられるように扉を開けると、そこには琥珀色の灯りと、木の香りに包まれた静謐な空間があった。レコードの針が奏でる音に包まれながら、男はカウンターの奥に立っていた。


「いらっしゃいませ」


 その声は、低く、柔らかく、よく響いた。まるで、ずっとここに来るのを待っていたかのような口調だった。


 カウンターに腰を下ろすと、男――マスターと呼ぶのが正しいのだろう彼は、軽く会釈して背後の棚に手を伸ばす。


「今宵は、どんなお酒をお望みですか?」


 しばらく黙っていたが、ふと、ぽつりと口にした。


「……強いのを、頼む」


「かしこまりました」


 静かな所作でマスターは氷を取り、リキュールを注ぎ、ゆっくりとステアする。


「こちらは、ブラック・ルシアンです」


 黒色の液体が綺麗に映えている琥珀色のグラスが、目の前に置かれる。


「ブラック・ルシアン……カクテル言葉は、世間では“強敵”などと言われています。でも、言葉というものは、人の数だけ解釈があると私は思っているのです。シンプルな材料と落ち着いた動きで作り上げる所は和菓子と似ているかもしれません」


 マスターは一呼吸おいて、続けた。


「私にとって、この酒は――“抗うこと”の象徴でもあります。終わりが見えても、なお手を止めず、繋いでゆこうとする意志。今宵は、そんな気配を感じました」


 その言葉に、ふっと胸が熱くなる。  酒を口に運ぶと、コーヒーリキュールの深い苦みの向こうに、どこか甘い余韻があった。


 そしてマスターは静かに言った。


「よろしければ、あなたの物語を――ここに、記してみませんか?」


「……俺の話なんか、どこかに残しておく価値があると思うか?俺の想いを語れば、何か変わるのか?」


 その問いは、どこか子どもじみていた。

 長年黙して手を動かし続けた男の、心の奥底に沈んでいた言葉の欠片――それが、ひとときの沈黙を破って浮かび上がった。


 マスターはすぐには答えず、カウンター越しに男を見つめたまま、ふっと柔らかく微笑んだ。


「言葉は、時に灯火になります」


 それは1つの肯定だった。

 静かな声の粒が、氷の溶けかけたグラスにそっと触れるように、男の胸に届く。


「たとえ継がれなくとも、その想いが誰かに寄り添う夜がある。……そう信じて、ここに記していただくことがあります」


 マスターの手が、背後の棚に向かってゆっくりと伸びる。

 そこには、酒瓶の間に並ぶ無数の本――それぞれに名を刻まれ、語りの重みを宿した書物たちが静かに収まっていた。


 その中から一冊。名も題もない、まだ何も綴られていない革表紙の本を、丁寧に取り出す。

 古びた棚の中にありながら、どこか新しい、けれども懐かしいそんな気配を纏っていた。


 マスターはそれを両手で包み込むように持ち、男の前にそっと差し出した。

「もし、よろしければ――あなたの物語を、この本に残してみませんか」


 男は、しばらくの間、その本を見つめていた。

 どこか戸惑いながらも、視線の奥には確かな熱がある。

 ためらいながらも、その手が本へと伸びていく。


 掌に乗った革表紙は、思いのほか軽く、だが、しっかりとそこに“ある”という確かな存在感があった。

 まるで長年使い慣らした木べらや、繰り返し煮詰めてきた餡鍋のように、手に吸い付く感触。

 男は、掌の中の本を改めて見つめた。

 革の表紙にはまだ何の刻印もなく、静かに、ただそこにある。

 だがその沈黙の奥には、確かに“受け止めよう”とする温もりがあった。まるで長年寄り添ってきた道具のように――ただ黙って、そこに在る。


 差し出されたペンを手に取ると、驚くほどしっくりと馴染んだ。

 見た目こそ洋の香りを纏ったそれは、重すぎず、軽すぎず、まるで己の手から生まれたように収まる。

 指を添え、ゆっくりとペン先を白紙の上に向ける。


 ――インクを染み込ませる音は、なかった。


 だが次の瞬間、紙面の上に静かに浮かび上がったのは、まるで筆で書いたかのような力強い筆跡だった。

 濃淡を伴い、流れるような線がひとつ、またひとつと綴られていく。

 ペンを動かすたび、まるで墨を含んだ毛筆が紙に触れているかのように、文字の端がふわりと広がり、やがてしっとりと落ち着いてゆく。

 ペン先から流れ出た言葉は、筆で描いたような力強さと滲む温もりを帯び、頁に静かに息づいていた。

 和紙のように柔らかなその紙面には、男の長年しまい込んできた言葉が、やがて詩のように並び、物語となって漂っていた。

 

 黒にほんのり藍を滲ませたその筆跡は、わずかに光を帯びていた。

 ページ全体が仄かに明るくなったかと思えば、その光は文字だけに宿って、呼吸するように淡く脈動を繰り返す。


 男は気づけば、言葉を「書いている」というより「浮かび上がらせている」ような心地に包まれていた。

 思考よりも先に、心の奥に沈んでいた言葉たちが、自然と指先に集まり、静かに紙面へと降りていく。


 それはまるで、長年口にしなかった想いを、言葉という形で“供える”かのようだった。


 一文書くたび、紙面の奥から微かに湯気のようなものが立ち昇る。

 それは香ばしい餡を炊き上げた直後に漂う、わずかな甘さを連れた空気にも似ていた。

 男はその匂いに、一瞬だけ目を細めた。


 そして最後の一文を記し終えたとき、ページ全体がふわりと淡く光り、本そのものがわずかに――ほんのひとときだけ、掌の中であたたかくなった。

 驚くほどささやかで、しかし確かにそこに存在したぬくもり。

 まるで、誰かが静かに「ありがとう」と背を押してくれたような一瞬。


 光はすぐに消え、筆跡は落ち着いた墨色となって定着した。


 男はそっと目を閉じた。

 そしてページを閉じ、ゆっくりとマスターへと本を差し出す。


「……ありがとうございました」


 マスターは静かに頷き、両手で本を受け取った。

 背後の棚へ歩み寄り、本をそっと一冊分の隙間へ滑り込ませる。

 すると、無地だった背表紙に、まるで金箔が浮かび上がるようにして名前が刻まれた。

 力強く、それでいてどこか柔らかい、筆文字のような名だった。


「あなたの物語は、きっと灯のひとつになるでしょう」


 マスターが言葉を添えた、その直後。

 ――カチリ

 店の奥、琥珀色のランプの下で、振り子時計がひとつ音を鳴らした。

 時を刻むことのないその時計は、今も変わらず淡々と、静かに振り子を揺らし続けている。

 夜は、まだ終わらない。ただ、少し先へ進んだだけだ。


 男は立ち上がった。

 外の世界の寒さを思い出しながら、ゆっくりとコートに袖を通す。

 マスターはカウンターの内側から一歩だけ前に出て、頭を下げた。


「また、いつでもどうぞ」


 男は小さく息を吐き、頷いた。

 そして、黒い木の扉を押し開ける。

 街灯の淡い明かりと夜の空気が流れ込んだ。


 その背が静かに扉の向こうに消えていったとき、カウンターのレコードが、ふと針を飛ばし、次の一曲へと移った。



 翌朝、男はいつもと同じ時間に、暖簾を掲げた。

 銅のやかんから立ち昇る湯気が、差し込む光の中でゆらゆらと揺れる。

 蒸し器の蓋を開けた瞬間、ふわりとした甘い香りが店中に広がった。

 けれど、男の手元には、いつもと少し違うものが置かれていた。


 今日は、近くの公民館で和菓子の体験会が開かれる。

「誰も継がぬなら、広げればいい」と、ふと前夜に思いついたことだった。

 小さな折箱に、作りやすくて見栄えのする練り切りを数種類並べる。

 桜、若葉、夜空。形も色も、季節も超えた和菓子たち。


 会場に着くと、集まっていたのは十人余りの小学生たち。

 大きな瞳を輝かせて、男の手元をじっと見つめる。


「これ、なにで色つけてるの?」

「どうしてこんなにきれいに形が作れるの?」

 そんな問いに、男はぽつりぽつりと答えていく。


「食紅で色をつけるんだ。自然由来のものの方が和の色になる。」

「……水の量と手の熱加減で、ずいぶん変わるんだ。一人前になるまでに十年掛かった。」

「和菓子は、見た目と中身の両方を楽しんでもらうものだ」

 言葉は多くなかったが、確かに届いていた。

 

 小さな手が、白餡をそっと包み込む。うまく形にならなくても、楽しげな声が飛び交う。

 一人の子が、小さな手で作った桃色の菓子をそっと口に運び、目を見開いた。

「……おいしい!」


 その声を聞いた瞬間、男の心の奥にあった「申し訳なさ」が、少しだけ溶けていく音がした。

 継がれぬ手でも、渡せるものはある。

 そう思えたのは、昨夜、確かに物語を記したからだ。


 男は、少しだけ笑った。

 その笑顔は、誰にも見せたことのない、素朴な職人の笑みだった。

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