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第1話 物語のはじまりに灯るもの

 今日は、きっと、人生でいちばん嬉しい日だった。

 初めて自分の本が、本屋の棚に並んだ。

 泣くつもりなんてなかったのに、表紙を見た瞬間、涙がこぼれた。

 やっと、ここまで来ることが出来たんだと思った。あの憧れの場所に並べた気がした。

 今日はまだ幸せをかみしめていたい、家に帰ったら終わってしまうかもしれない、そんな気持ちから足が自然と家ではない方向へと向く。どこへ行こう?今日はまだ、彷徨っていたい。

 ――そんな気持ちになったのは、はじめてだった。

 

 どのくらい歩いていたのかも分からない。ふと気づいた時にはすれ違う人もいなくなっていた。

 歩いていたはずの商店街は、後ろを振り向いても既に見えなくなっている。住宅街の方にいつの間にか来ていたようだ。

 街灯は光が弱く、オレンジの光が足元をかすかに照らしているだけ。


 その光の中に、見慣れない店がぽつんと立っていた。

 建物の周囲は、まるでそこだけ時間が止まったかのようだった。

 深い紺の壁に、黒い木のドア。古びた真鍮の取っ手が光っている。

 ドアの上には、小さなランプと金色のプレート。

 

 《The Tale’s End》

 ――まるで、物語の一番最後に現れる書き文字のようだった。


 ガラス窓からは、やわらかな琥珀色の光が洩れている。

 街のどこにも属さないような、時間の隙間にぽっかりと開いた空間。

 その前に立つだけで、心のどこかがふっと緩む。


 知らないはずの懐かしさ。そんなものが、確かにそこにはあった。

 

 惹きこまれるように私は、ドアを押した。

 扉を開けた瞬間、空気が変わる。ふわりと漂ってくるのは、木の香りにわずかに混じるお酒と、古い本の紙のにおいだった。まるで"物語の中"に足を踏み入れたような静謐(せいひつ)でぬくもりのある空間がそこにあった。そこはまるで時間の流れが止まっているかのようだった。

 薄暗い琥珀色の照明が天井からゆるやかに部屋全体を照らしている。

 耳を澄ませば、小さなレコードの針が奏でるジャズの旋律がゆったりと流れている。

 

 扉を入って右手側のバックバーには色とりどりの酒瓶が並んでいるが、おおよそ普通のBARに置いていないようなものがある――本棚だ。

 それはバックバーの一部を陣取っており、お酒が並んでいる列とは別の棚に丁寧に並べられている。そこに並んでいる本はしっかりとした背表紙がついており、背表紙には見慣れない字体で人の名前が刻まれていた。

 店内にはカウンター席のみで、六脚の椅子が等間隔に置かれ、そのどれもが語りと酒を交わすためだけに存在している。


 正面の奥には、大きな振り子時計があった。

 しかし不思議なことに、そこに時間の表示はない。

 ただ、ゆっくりと揺れる振り子が、淡々と時を刻んでいるように見えるだけ。

 なのに、そのリズムが、どこか心地いい。

 


 「いらっしゃいませ」

 低く、落ち着いた声だった。


 顔を上げると、カウンターの奥に立っていたのは、黒髪をきっちりとオールバックにまとめた男だった。

 カマーベストにネクタイ、深い色合いのスラックス。どこかクラシックでありながら、今の時代にはない空気をまとっている。


 けれど、その瞳だけは、不思議なほどにやさしかった。

 まるで、すべてを受け止めてくれるような、穏やかなまなざし。


「おひとりですか?」

 そう尋ねる声には、あたたかさが宿っていた。けれどどこかで、心の奥に触れるような距離の取り方を感じさせる。


 私は、こくりと頷いた。


「では、お好きな席へどうぞ」

 静かに、しかしどこか懐かしさを帯びた口調で、そう促された。


 男の後ろには、本と酒が並ぶ棚。

 その前に立つ彼の姿は、まるで知識の灯火を守る者のように見えた。

 不思議と彼がこの店のマスターであるということが分かった。


 私が席に着くのを見ると、マスターは静かにグラスを手に取り、何かの準備を始めた。氷がグラスに落ちる音が、静かな空間に響く。次に、彼はウイスキーを注ぎ、少量の砂糖とビターズを加える。手早く混ぜた後、オレンジの皮を一枚そっと取り出し、グラスの縁にひとひねりして香りを放つ。その一連の動きは、まるで舞踏のように無駄がなく、完璧な調和を感じさせる。


「こちらがオールド・ファッションドです。」

 マスターは静かにグラスを差し出しながら続ける。

「オールド・ファッションドは、言葉を引き出す力を持っています。このカクテルのカクテル言葉は"わが道を行く"です。どうぞ、味わってください。」

 

 その酒は、見た目はシンプルだが、どこか温かみを感じさせ、目の前の客に穏やかな安心感を与える。無言のまま、客はグラスを手に取り、最初の一口を味わう。瞬間、彼女の顔に少しの驚きが浮かぶ。味わいは予想以上に深く、複雑だ。それでいて、どこか素朴で、親しみやすい。口の中に広がるのは、時折の苦み、まろやかなウイスキー、そしてほんのりとしたオレンジの香りだった。


 グラスを置く音が静かに響く。

 胸の奥に、少しだけ火が灯るような感覚――ああ、まだ終わってないんだ、と思った。


 

 「ここには、人の数だけ物語があります」

 背後の本棚に目をやりながら、マスターが静かに続ける。

 「今宵、あなたの物語を、少しだけ聞かせていただけますか?」

 


 私は戸惑い、グラスの中で揺れる琥珀色をじっと見つめた。

 その色は、どこか夕暮れの光に似ていた。日が落ちるほんの少し前、街のすべてが金色に染まる、あの一瞬のような――終わりと始まりのあいだにある、儚い色。

 その沈黙すらも許されるような空気の中で、自然と口が開いていた。


 「……今日、はじめて、自分の本が、本屋に並んだんです」


 声に出すと、胸の奥で眠っていた熱がふっと浮かび上がるようだった。

 ほんの少し、手が震えた。だがマスターは驚くこともせず、ただ静かに耳を傾けている。カウンター越しのその佇まいは、まるで暖炉のようだと思った。そこにいるだけで、どこか心が温まる。


 「嬉しかったはずなのに……どうしてだか、まだ帰りたくないんです。この気持ちが、夜と一緒に終わってしまいそうで――」


 私の視線が自然と、彼の背後にある本棚へと向かう。

 並んでいる本を目で追う。しっかりとした本一冊一冊に、人の名前が刻まれている。誰かの、人生の断片。誰かの、大切な記録。


 「……あんなふうに、私の言葉も、誰かの時間の中に残るんでしょうか」

 問いというにはあまりにもかすかな呟きだったが、マスターは微かに頷いた。


 「言葉は、灯火になります」

 彼の声は、静かに、けれど確かに、胸の奥に届く。

 「誰かが夜を越えるとき、きっと寄り添ってくれるでしょう」


 私はもう一度、グラスを傾けた。

 味わいはさっきと変わらないはずなのに、どこか少し違って感じられた。

 香りが、より鮮やかに鼻をくすぐる。苦みの向こうに、温かな甘さが広がっていく。


 「よろしければ」

 マスターはそう言って、背後の棚から一冊の本を取り出した。

 他の本よりも少し新しいように見え、革の表紙に包まれている。まだ何も書かれていないその背には、名も題もなかった。


 「あなたの物語を、ここに記してみませんか?」


 差し出された本の重みは不思議と軽く、けれどしっかりと掌に収まった。

 その手触りは、ずっと昔から自分のそばにあったかのような懐かしさを含んでいる。

 受け取った本は中も白紙だった。


 「これをお使いください。」

 マスターが差し出してきたのは不思議な形のペンだった。

 

 私はペンを受け取り、いつもの感覚で書こうとした。

 だが指先に感じたのは、インクの重さでも、紙のざらつきでもなかった。

 ただ、あたたかな何かが、掌の中を通っていくような感触。


 私はペンを手にしたまま、言葉を心に探す。けれど、その瞬間、不思議なことが起きた。


 ペン先から、淡い光がふわりと零れた。


 まるで朝霧の中に差し込む陽光のように、その光は薄く、儚く、やさしく揺れていた。

 ペン先をページの上に近づけると、まるで吸い寄せられるように、光の糸がほどけていった。

 淡い金の光。それはペンの先から零れるインクのように流れ出し、白紙のページの上を滑りながら、文字を形づくっていく。


 それは私の心の奥に眠っていた記憶や感情が、そっと掬い上げられているようだった。言葉にならなかった思いが、静かに、けれど確かに、このページに刻まれていく。


 文字は不思議な筆致で現れ、淡く光っては、真っ白な紙の上に、星座のように並んでいく。ただそこに在ることだけを肯定するように、穏やかに淡く瞬いていた。


 一行ずつ、生まれるたびに、心が軽くなる。

 書いているのではない。私は、ただ“放している”のだ。

 胸の奥にあった言葉を、そっと手放すだけで、それはこの本の中に息を吹き込まれていく。

 

 物語が終わると同時に、文字たちはほんのりとあたたかい色合いに変わった。指先に伝わる温もりは、ちょうど焚き火のそばにいるときのような、やさしい熱。けれどそのぬくもりは一瞬で、触れたかと思えば、風に溶けるように消えてしまった。


 私は静かに本を閉じる。するとまるで、それに呼応するように、その背表紙に淡く名前が浮かび上がった。金の文字で書かれたその名は、紛れもなく、私のものだった。


 「……ありがとうございます」


 その声は自分のものなのに、どこか遠くから聞こえてくるようだった。


 マスターは小さく微笑みながら、本を両手で受け取った。掌の上に置かれたその本を、まるで宝物のように丁寧に扱いながら、後ろの棚へと歩いていく。そして、新たな一本の隙間に、本をすっと滑り込ませた。


 棚の中で、その本は他の物語たちと肩を並べ、まるで最初からそこにあったかのように、静かに収まった。


 「また、いつでもどうぞ」

 

 振り返ったマスターは、静かにそう言った。その声は、まるで別れではなく、再会の約束のようだった。


 その瞬間――カチリ、と音がした。


 振り返ると、店の奥の振り子時計が、小さく鳴ったのだった。

 まるで、その言葉の余韻を区切るかのように。


 私はふと見上げる。そこに時刻の表示はない。ただ、金属の振り子が左右に淡々と揺れていた。

 時間を示さず、ただ"そこにある"だけの静けさが、不思議と心を落ち着かせてくれる。


 私は、もう一度だけカウンターと、あの棚を振り返る。


 扉を開けると、夜の冷たい空気が頬をなでた。けれど、心の奥には、まだあのほんのりとしたぬくもりが残っていた。


 私はそっと歩き出す。もう一度、世界へと戻っていく。物語をひとつ残して、少しだけ軽くなった足取りで。

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