5 記憶の蘇生
「ありがとうございました」
書き終えた学級日誌と進路選択の紙を出した真田はそう言って職員室を後にした。
その後すぐに帰宅しようとしたが、忘れ物に気づいた真田は、反対方向へ足を進めた。筆箱がなければ家で勉強ができない。できなくもないが、中学生の時からずっと使用しているからか、なんとなくその筆箱には愛着があった。
その時、ふと窓の外からさす夕日が気になる。同時に、何故だか黒条の姿が頭に浮かんできた。髪色もだいぶ印象的だったが、真田にとって一番印象的だったのがあの少し色の落ちた赤色の瞳だった。
教室に到着した真田は、前のほうの扉が開いていることに気付く。誰かいるのか、そう思いつつ教室に入る。
――源?
源は教室の真ん中辺りにある机の前で俯いている。とはいえ、わかったところで何も意味はない。せいぜい話しかけるくらいだが、真田と源はそれほど親しい間柄じゃない。挨拶をしたことはあるが、それも数える程度しかない。
それに、いま彼は傷心している。無為に話しかけても逆効果だ。
真田はひとまず無視して自分の席に向かう。筆箱はすぐに見つかった。机の上。それもほぼ教室に入った時から見えていた。真田はそれなりに目がいいのだ。
筆箱をカバンの中に入れ、チャックをしっかりと閉める。あとは帰るだけ。
真田は無意識的に源のほうを見た。
――あ。
源は田淵の席の前にいた。どうやら机の上をなぞっているらしい。
そこにどんな意味があるのか理解できなかったが、共感はできた。大事な人を失くす。その痛みの末に、どんな行動を取るのか、自分がよく知っている。
無意味という意味のある行動を重ねてしまうのだ。
嫌な感覚が真田の全身を駆け巡った。真田はこの感覚を何となく知っている。そして、この後何が起きるのかも、大方予想がつく。
「なんで……」
突然、そんな声が聞こえる。かすかにではあるがすすり泣く音も聞こえる。
いたたまれなくなって、すぐにゆっくりと駆け寄り始めた。
「なんで……なんで……!」
その瞬間、腕が振り上げられ、源へと下ろされて鈍い音が鳴る。
強い危機感を感じ、真田はゆっくりと口を開き始め、源へ声をかけようとする。
「ちょ……ちょっと、まって」
此方には気づいていない。その証拠に、もう一方の腕も振り上げて叩き落している。時間が経つ毎にその頻度は増し、響く音も大きくなっていた。あえて気づいていないふりをしている、とは考えにくい。恐らく、無意識的に他人の声をシャットアウトしている。
真田の足が止まる。その間にも源の拳による槌は止まらない。
横顔が夕日に照らされて見える。ひどい顔だ。
「なんで――――――‼」
「……え」
今まで一番の叫び声をあげた源。しかしそんな源はもう眼中にはない。真田はその背中から生まれてくるテラスに気を取られている。
黒い塊がニュキニュキと。まるで源の心の負の部分を現すかのように、少しずつ形を成していく。
――まずい、まずい。
呼吸が加速し、目が大きく開き、ドクン、心臓が強い一拍を規則的に取る。
この後どんな結末が待っているか自分にはわかる。回避する方法を模索しようにも、上手く思考がまとまらない。目の前の恐怖に思考のリソースを持っていかれてしまっている。
恐怖…………そうだ、俺は……この恐怖を知っている。
思考が止まっていた真田だが、恐怖をきっかけにある記憶を思い出す。
もやがかかっている。でも……もう少しで思い出せる。
真田の体に微かに熱が帯びた。
「……まぁいいか」
その声を聴いて、ハッとする。
振り向いている源の目の前には完全に羽化してしまったテラスがいた。人型で巨大な体躯、人間を容易く黄泉へ送れる巨大な爪。全身から感じる存在感は圧倒的だ。
放心しきった源。真田は焦燥に駆られ咄嗟に全力で身を投げ飛ばす。あれからろくに動いたことのなかった体は、意外にもすんなり動いてくれていた。
――間に合えっ!
祈りと共に、源の体に激突した。
よかった、間に合った自身の頭に当たり大きく突き飛ばされた源を見て、安心した時だった。
「さな――」
鼓膜が感じ取った声。直後、胴体が熱くなり、視界がコマ送りかのように遅くなった。
視界の中で、テラスは腕を振り上げている。あぁ、源は自分を心配してくれているのか。真田は諦観めいた考えをする。
やがて、頂点まで上がったテラスの腕が振り下ろされる。
本当にスロー機能でも使っているかのような映像。
そのテラスの動きに見覚えがあった。
少しずつ自分の元に向かってくるそれに同調して、脳にある何かが目覚める感覚を覚える。少しずつ、されど確かにその感覚は強くなっている。
もう少しで、あの時のことを思い出せる気がする。絶対に思い出さなくちゃいけない、何かを。
だが、それももう手遅れになるだろう。
この傷では、もう動くことすらできない。
極論、死ぬ。
そう思ったその時、おぼろげな視界に誰かが現れる。
「オレンジの……髪……」
黒条救華。彼女は視界の中で、テラスと戦っている。
――彼女が狩人だったのか。
妙な納得感が体を駆け回る。
そして丁度、途切れかけていた意識は完全に途切れる。
真田は世界との接続を一時的に絶った。
意識を落とした真田には、あの時の映像が見えていた。
――あぁ、これは夢か。
夢の中で、真田は家の中に一人でいる。周りには、父の死体が転がっている。胴体を切り刻まれ、見るも無残な姿だった。
徐々にあの時の光景と感情を思い出していく真田。
夢の中で、真田は自分の拳を見る。拳には拳鍔がはめ込まれている。ただ、それは誰かが作ったようなものには見えなかった。
真田は直前の記憶も、少しずつ思い出していく。
あの日以来思い出せなかった記憶が、次々と真田心の中で浮上してきている。
――そうか、俺は……。
そうして、真田はどうしてあの場を切り抜けたかを思い出す。
夢の終わりで、真田は窓の外に人影があるのを見る。
――まさか。
そこで夢は終わり、真田は世界と再接続する。視界が段々鮮明になっていき、そこでまず目に飛び込んできたのは、誰かの後頭部だった。
真田は自分が背負われていることを理解する。
「…………源」
「お、起きたか」
「なに……してる」
まだ朦朧とする頭で言葉をひねり出す。
「お前を安全な場所まで運べって黒条に言われたんだよ」
「黒条……」
「あいつが今戦ってくれてる。ほら、戦ってるような音が聞こえてくるだろ」
音を聞き取ろうと、朦朧としていた頭が働き始める。
「みたい、だ」
鋭い金属音。壁が壊れたかのような爆砕音。それらを聞き取った真田はそう呟くように言った。
「お前、よくこの状態で生きてるな」
「……昔から、治るのが早いんだ」
「にしてもこれは異常だ。こんだけ深い傷つけられたのに、もう血止まってるし傷も塞がってる。普通の人間ならとっくに死んでるだろ」
「そうだな……多分、俺は普通じゃないよ」
「……だからさっきも俺を助けられたってか? 全く、余計なことしやがって。お前が突き飛ばさなきゃ、あのまま死ねたのに」
「田淵はまだ死んでないと思うよ」
「は? え、ちょ、わ……わかった、わかったって」
真田は強引に源の体から降りる。最初はそうさせないと腕の力を強めていた源だったが、一向に真田が下りるのをやめなかったためか、そのまま降ろした。
「大丈夫なのかよ」
自身に向き直った源に対し、真正面から瞳を見据えて答える。
「うん。もう、大丈夫」
「お前、やっぱり普通じゃないよ」
「そうだ、俺は普通じゃない。だって――」
真田は自分の胸に左手を突っ込む。通常であれば、自分の体の中に手を突っ込むことはできない。しかし真田が伸ばした手はどういうわけか体の中に入っていく。源はそんな様子を見て強い驚きを見せる。
「”狩人”だから」
中から出てきた腕には、拳鍔がはめ込まれていた。
家が襲われた時、使った武器。
理屈はわからないが、真田はこうすれば拳鍔が装備できることを知っていたのだ。
「お、おい、どこに!」
振り返って走り去ろうとした真田にそう聞く源。
真田は振り返ることなく止まって、短く答える。
「戦うんだ」
体の奥底から沸々と湧き上がってくる熱を感じながら、真田は戦地へと向かう。