2 先輩
帰路の途中、河川敷にふと目をやった。その斜面に女性が座っているのが見える。
――あの人だ、久しぶりに見るな。
そう思った真田は、少し迷いつつもその人の元へ向かう。
少しずつ像が鮮明になっていく女性。歩行音で気付いたのか、真田のほうを見ると柔和な笑みを浮かべた。
「久しぶり。元気だった?」
「まぁそれなりに。先輩はどうですか?」
座りつつ、そう体調をうかがった。
「元気だったよー、でもこの暑い中待たされたからちょっと疲れたかな?」
真田の真横にいるのは、通称『先輩』。本名はまだ知らされていない。彼らの出会いは三年前だ。
真田の家がテラスによって襲われ、ちょうどこの河川敷で放心していた時。この女性が声をかけてきたのだ。
「やぁ少年。なーんか暗い顔してるねぇ、なんかあったの?」
何も返さない真田。一瞥はしたが、それ以降は川の流れをぼんやりと眺めるだけ。この時の真田には人と話すだけの気力がなかったのだ。
ここで引き下がるのが普通だが、この女性だけは違った。
「ちょっと、無視はひどくなーい? うんとかすんとか、それくらい言ってもいいじゃん? ね~えぇ、本当に無視するの? 私泣いちゃうよ? こう見えても私すごい繊細なんだよ? ここで無視され続けたらもう……泣いちゃうよー?」
などと、先輩は話し続けた。女の武器である涙も使う素振りを見せたが、真田もやはり話さない。やがて女性は話しかけるのをやめ、隣に座って沈黙した。目線は真田と同じところを向いている。
「……なんで」
耐えきれなくなった真田がそう聞く。その言葉にはなぜ隣に座っているのか、そしてなぜ黙っているのか、そういった意図があった。
「君と同じところを見れば、何かわかるかなって思ってさ。話しかけても教えてくれないし」
その意図をほぼ完璧に汲み取り先輩は返答した。
「……わかったんですか」
「いや全然? やっぱり言葉で教えてくれないとわからないね~」
なんだよ、と思った真田が改めて沈黙。そこでさすがに引き下がると思ったが、女性は違うアクションを取った。
「一人で抱えるのは辛いよ」
これまでにない、真剣且つ優しい声。
真田はおもむろに女性のほうを見た。先輩は声とは裏腹で無邪気に笑っている。
「だから、教えてよ。聞くくらいなら私もできるからさ」
「…………後悔しませんか」
「しないよ」
「……わかりました」
真田は全てを話した。事件のこと、その時の自分の気持ちのこと。そして、大事なことを思い出せないこと。
先輩は本当に話を聞いてくれただけだった。あるのは時々くれた励ましの言葉だけ。だが確かに、先輩が話を聞いてくれたことは、今でも真田の強い心の支えになっている。先輩に打ち明けてなければ、今真田がどうなっているのかはわからない。もしかしたら自責の念に堪えかねて、自ら命を絶っていた可能性すらある。
名前を知らないのは女性が教えてくれないためである。聞こうと思ったこともあったが、自分から言ってくれるのを真田は待っている。『先輩』呼びは、なんとなく年上に見え、制服のようなものをいつも身にまとっているからだ。
「……立ち話もなんですし、ちょっと移動しませんか? いつもと同じ場所で」
「うん、私もそう言おうと思ってた。そうしよー」
二人は日の当たる場所から、平らで涼しい橋の下へ移動する。暫く沈黙していた真田達だったが、真田が田淵のことを話すことで沈黙は破られた。
「そっか、行方不明か」
「はい。街中でテラスが出て、その時からなぜかいなくなったって、先生は言ってました」
「うんうん。君は大丈夫なの?」
「あまり交流はなかったですし、そんなに衝撃はないです。ただやっぱり驚きはしましたね」
「驚くだけか……まぁ、そんなもんだよね~。他人なんて結局どうでもいいんだよ、人間って」
「そう……かもしれません」
「え、わかってくれるの!? やっぱり人間ってそんなもんなんだよね~」
先輩の中から、『闇』が垣間見える。
「いや……何とも言えません。みんながみんなそうとは思えないので」
「そっか。そうだよね~」
先輩だが、気にせず話題を戻して会話を続行させてくる。
「テラス……かぁ。本当、災害みたいなもんだよねぇ」
「そうですかね。なら、仕方ないんですかね」
「どうにかできたらいいんだけどね」
「ですね」
現状テラスに対抗できる手段はほとんど。エネジェクトというテラス専門の機関があったりするが、何をどうしているのかはまだ公にされていない。
その中で唯一わかっているのは、テラスに対抗できる人間が存在するということだ。
だがこれも風の噂程度でしかない。誰かがテラスと戦っているところを見た、そんな話から樹形図のように広がった噂話でしかない。
とはいえ、完全に嘘というわけでもないことを真田は知っている。
「君、狩人は知ってる?」
「……テラス狩ってくれる人たちのことですよね。誰がそうなのかは知りませんけど……」
「そう。すごいよね、あんな強いやつらと戦えるなんてさ」
目を見ずに聞き返す。
何故だか返事がない。ふと顔を見ると、先輩は笑っていた。
「君は大丈夫なの?」
「……えっと?」
「あの時のことだよ。君と初めて会った時の」
「…………」
暫くの間黙り込む。先輩も深く追及することなく黙っている。
もう、隠すような間柄ではない。
「多分俺はまだ過去にいます。未だに色んなものを思い出すんです。行方不明となった母と妹、それから……父の遺体。あの時の光景と感覚が、今でも脳裏に焼き付いてるんです」
「……もう三年か。中学生の君には、やっぱり刺激的な体験だっただろうね」
「中学生でなくても同じような感じになってたと思います」
「それはなんで?」
「……何となくです」
そう言った後、思わず俯いて黙り込んでしまう。
真田は、ずっと考えてはいた。
いつまでも過去を見たまま止まっているわけにはいかない。確かに、家族を失った悲しみは大きい。それでも前に進まなければいけない。
俺がやるべきことは――――そう、真田は考え続けている。
先輩は黙っている。笑みは崩れていない。夕日に照らされて、まるで美術作品でも見ているかのよう。
二人はそのまま夕陽を見ながら、話すことなく静かに時を過ごした。
「……そろそろ帰ります。また今度、話しましょう」
「そっか。じゃあ、またね」
「はい」
真田が帰ろうとすると、先輩が座ったまま裾を引っ張ってきた。
「ごめん、最後に一つだけ」
「なんですか」
そう聞くと、先輩は袖をつかんで言う。
「もうそろそろ、前に進んでもいいんじゃないかな」
真田は目を丸くさせた。
「……帰ります」
無理矢理ではなく、あくまで歩行によって裾にある先輩の腕を引きはがした。振り返るつもりはなかったが、気になって少ししてから後ろを見た。すると、先輩は消えたようにいなくなっていた。
――先輩って、俺といないときどうしてんだろう。
真田はここ以外で先輩と会ったことがなく、先輩は人の話を聞くばかりで、自分の話は一切しなかった。
「……まぁ、聞かれたくないのか」
改めて歩みを進める。
帰宅中、通り道の公園で遊ぶ子供たちの姿が見えた。大体、真田がよく見かける子供たちだ。
子供たちは友達と笑いながら走ったり、遊具で遊んだりしていた。普段見ているのと足して変わらない。日常の風景。
突然田淵に関する今朝の知らせが脳裏によぎってきた。
日常。幾度となく繰り返されてきて、飽きてくるようにも思えるけど、それから一度離れてしまうと大事な物だったとわかってしまう。その中でも最も大きいものを失ってしまった真田はその苦しみを知っている。
現在、テラスによって日常は崩壊しやすい状態にある。どんなに大切なものでも、その瞬間が来ればあっさりと崩れ去る。人の想像を超えた力を持つテラスに為す術はない。狩人となれば話は別だが、一般人にとってはその例外はない。
帰宅して、食事を取ったり風呂に入ったりしている間、真田は考えた。
――自分は何をすべきなのか、と。
「……永李」
そう妹の名前を口にし、真田はシャワーをやめて脱衣所に出た。