1 日常が崩れる音
自宅の目前、目の生気のない少年はバッグから鍵を取り出して、その鍵穴に差し込む。
鍵をしまい、手前に引いてドアを開ける。そこから見えるのは、後方から差し込む夕陽に照らされた床とそれが当たらない陰のできた床。そして何の気配もない空間だった。
もう夏だと言うのに、空気は極めて冷たく感じられる。スリッパはおろか、靴の一つすらないその空間にはかつての幸せの残り香すらない。何もかもが消え去り虚無が残っている。
――――あぁ。
いつものこの瞬間。家に帰って、このドアを引いて、玄関の景色を見るその瞬間。真田心は言い表しようのない孤独感と悲壮感に襲われる。
言うなれば、小さな絶望だった。
言葉にすれば、その負の感情と真正面から向き合うことになるから、何も言わない。
真田は、ただ静かに玄関の戸を閉める。そうして、また家で一人の時間を過ごし、やがて眠りに着く。
七月に入り気温が上昇しただろうか。体感温度は非常に高くなっていた。湿度が高いこともそれに拍車をかけていて、単に気温が高いのとは訳が違っている。現に、生徒たちは衣替えと題して大半が半袖を着用している。中には服と身体との間に発生した熱を逃しやすいようにするため、ネクタイをも外す生徒もいるぐらいだ。
「うーっす! 今日も暑いな!」
「夏だからなー。って、お前長袖じゃん! 暑くねぇの!?」
だが、季節といったものに縛られない服装をする人もいる。夏に長袖、冬に短パン等。世代と問わずその傾向がある。
ファッションとは、裸を隠す道具であると同時に、人格を構成する手段の一つでもある。
「まぁちょっと暑いけど、ファッションに我慢はつきものっつうだろ?」
「いや、前から思ってたけどそれ結構ダサい」
「え、そんなはっきり言う!?」
「おぉ、おはよ。登校してきて最初の一言がそれか、相変わらずバッサリいうのなお前」
挨拶という声かけを起点に会話が始まり、新たにやってきた生徒がその会話の中に入り、会話が広がっていく。その会話が本筋から離れようと気にすることはない。欲しているのはは言葉によるコミュニケーションだ。極論中身はなくたっていい。言葉を交わせれば、内容なんか必要ない。
会話というコミュニケーションが展開される。それが幾重にも繰り返された結果、クラスは賑やかさを得ていく。
しかし、中にはそのどれに属さない生徒もいる。二年六組の生徒――――真田心。
窓際の最後尾に席を構える彼は窓の外を眺めている。誰かと話すこともなく、ただ朝の晴れた空を静かに眺めていた。
「おっすー」
首を少し曲げ、目線をその人の顔へと向けた。
「おはよう、孝樹」
「おう、今日もあちぃなぁ」
「そうだね」
二人いる幼馴染の一人、皮島孝樹。登校してきた彼は、クラスにいる友達に挨拶をしながら自分の席に向かい、その真後ろにいる真田に声をかけた。真田も一拍置いて挨拶を返した。
皮島は一瞬だけ驚いた顔をした。
「……何かあったか?」
続けてそう聞いてきたが、真田に思い当たる節はなかった。
「何かあったように見える?」
「いや、なにもないならいい」
それから追求するようなこともせず、皮島は逃げるように他のクラスメイトの元へと駆け寄り、会話を始めた。
皮島は黒に限りなく近い緑の髪が特徴的な人間で、それ以外は標準的である。端正で印象の薄い顔、特別高い訳では無いがそれなりに高い身長。平均よりやや上といった容姿を持っている。
残された真田は、相変わらず外に目をやっていた。
「心くん、おはよう!」
少しして、教室に入ってきた生徒が真田に挨拶してきた。同じく幼馴染の堕地白羽だ。彼のもう一人の幼馴染である。
名前の通り雪のように真っ白な髪と、灰色の瞳が特徴的だ。小さい顔は小動物的な可愛さを内包しており、身長はクラスでもワースト五本の指に入るほど低い。
「おはよう、白羽」
「うん! 昨日は良く眠れた?」
隣の席に座ると、声を弾ませて聞いてくる堕地。体をフリフリと無垢に揺らす姿は、誰が見ても癒されるだろう。
「……まぁ、それなりに。白羽は?」
「私はめちゃくちゃ良く眠れたよ! 昨日はいつもより長く走ったから、多分そのおかげかな!」
「そうか、良かった」
「うん! それとさ――――」
それから、白羽が聞いて真田が返し、そして聞き返す、そんな流れが続く。白羽は笑顔で、真田も少々不自然だが笑顔で話していた。
「ちょっと、邪魔なんだけど」
そんなとき、後ろから圧のある声がかかった。堕地は「?」と腑抜けた声を出して、特に驚いた様子がない。真田はそのまま目線を少し上に向けて声の主を見た。
薄赤色の目で見下ろす黒条救華。眼光は鋭く、堕地を見る目も怖い。
「あ、ごめんね。きゅーかちゃんの席、心くんの隣だったよね!」
「そう、早くどいて。あとその呼び方やめて、気持ち悪い」
言葉に乗っかる圧は、むしろ強まっていた。
しかし堕地が笑みを崩すことはなく、黒条に向け両掌を合わせて「ごめんね」と言って謝意を見せた。
黒条も、心なしかそれほど嫌がっているようには見えない。
「じゃあ心くん、またね!」
「あぁ、うん」
真田は小走りで場を去っていった堕地の背中をしばらく見る。
「おはよ! いやー、今日も暑いね!」
「それ、ここんところ毎日言ってるよ白羽!」
「だって本当に暑いんだもん!」
白羽たくさんの友達と和気あいあいと会話していた白羽を見た後、隣に座った黒条を見た。
赤色の髪は顎の先端あたりで切り揃えられていて、オレンジ色の目はやや吊り上がっているが大きい。外気と触れている足や手は程よく色白で、駄肉はほとんどない。総じて、彼女は整った容姿をしている。
真田はそんな彼女の、威圧感のある目をただ眺めていた。
――なんだろう。なんかいつもと違う?
普段とは違う何かを感じ取った真田。そんな彼に鋭い視線が送られる。
「何? ジロジロと」
こちらの目線に気づいた黒条。睨みと語気を強め、真田に言った。
「……いや」
数秒後、真田は目を逸らしつつそう返した。その後はずっと窓の外を眺めていたが、彼女からそれ以上の追及はなかった。
――何故彼女を見たのだろう。いや、思わず見てしまうような何かが彼女の目には合ったのかもしれない。当たりの強い、気の強いクラスメイトでさえ一言で退かせる隣の席の人、黒条。一瞬だけだけど、彼女の目に何か……不安のようなものが見えた気がしたけど。
いや、いいや。
結論を出す寸前、彼はいつものように思考を放棄した。
何かを深く考えることを、真田はとうの昔にやめているのだ。
そうして時間が過ぎていく。誰かの声であふれていたクラスは、担任の先生が壇上に立つことで静かになり、その全員が席に座った。
「早速ですが、皆さんにご報告があります」
口を開け早々、そんなことをいう担任。一瞬だが、誰も座っていない席に目を映していた。
さらに言うといつもより面持ちが真剣であった。いつもはフランクな先生だが、今この時は確かに真剣だ。
その雰囲気の違いから、誰もが先生の次の言葉を待っていた。
そしてとうとう、その報告が口から出る。
「田淵さんが行方不明になりました」
朝のホームルーム、まるで音が消えたかのように静まり返るクラス。担任からそう言い放たれ、誰も何も言えない。ある者は硬直し、ある者は周囲を軽く見て、ある者は無関心とでもいうように呆けている。
「……嘘ですよね、先生」
長らく沈黙が保たれていたクラス。先陣を切ったのは、教室中央あたりに位置する男だった。机の隅を両手でつかみ、どこか弱弱しい声だ。
そしてその瞬間、壊れかけていたものは大破した。
「残念ながら本当です、源くん。昨日、テラスが街中で羽化したのは知っていますよね。その時、理由は定かではありませんが行方が分からなくなりました。現在警察とエネジェクトが捜索中とのことですが、発見の目途は立っていないようです」
「…………うそだ」
消えかかりそうな呟きと共に、崩れるように着席する生徒。そして、他のクラスメイトも同様だった。信じられない、皆一様にそんな顔をしている。
――テラス。近年突如として現れ、人々の脅威となっている謎の生命体。形状は個体によってさまざまで、ある時突然人の体からにょきにょきと生まれてくる。その様子からテラスが出現することは『羽化』と呼ばれていたりもする。
そんなテラスの単語を聞いて、真田は過去の記憶を掘り返した。
「ただいま……?」
中学校の帰り、友達と遊んだ後、夕方と夜の境目くらいの時間帯に帰宅した真田。そう口にしつつ玄関を開けると、いつもは出迎えてくれる母さんの姿がどこにも見当たらなかった。
更にこの日は休暇をもらった父も出迎えてくれるはずだったが、その父もいない。妙な静けさだ……そう思った真田は、同時に一つの違和感を覚えた。
今思えば、この床の選択は間違いだったのかもしれない。いや、どうあがいてもこの選択をしていたのかもしれない。
リビングを開けると、あったのは父の死体と……何か。詳しいことはあまり覚えていない。それほどショッキングだったのだろう。
ただ、足と胴体とが切り離されており、胸には何かにひっかれた跡があり血まみれという光景は今でも真田の記憶領域に残り続けている。
膝から崩れ落ちてからの記憶は暫くの間なかった。次に自分かの意識が戻ったのは警察、それから
エネジェクトという、テラスを専門とした組織の人たちに囲まれてた時だった。
「君、大丈夫……なわけないか」
いくつか質問を投げかけられた真田だったが、そう気を遣われた時の言葉は鮮明に覚えている。
大丈夫じゃない。その言葉は、今も彼の心を縛り付けているのかもしれない。
母と妹の永李が失踪。そして父が死亡。検察の結果、即死。その日のうちに真田は大切なものをすべて奪われてしまった。
そして、後日テラスによる仕業であるとエネジェクトから知らされた。その結果、今の彼が存在している。
田淵の一報が知らされてからの一日は、ただ静かだった。積極的に話そうという人はおらず、授業を受けるだけといった感じだ。ただ黒条だけは違った。何故だかいつもよりあたりが強くなっているようで、廊下で邪魔になっている生徒に対して「邪魔なんだけど」と言ったり、睨みは普段より一層強くなったりしている。真田はそれが少し気になって時々視線を送っていたが、黒条が此方を見返すことはない。
「じゃあ心くん、またね」
「あぁ、また」
「……また明日な」
「あぁ、また明日」
やがて学校が終わって、部活に向かう孝樹と帰宅する白羽へそう言葉を返した。二人の声に活発さはなかった。そして真田は帰路を辿る。何も考えることなくただ無心で。
オレンジ色の夕日が何回も顔を差す。そのたびに真田は顔をしかめていた。