夜明けを告げる鐘が鳴る前に ~十年越しの片想いを封じた侯爵令嬢と、最後の舞踏~
大きな窓から差し込む柔らかな春の日差しが、磨き上げられた大理石の床と、館内の豪奢な装飾を照らし出している。侯爵家の令嬢、セレスティーナ・ラヴェンソールは、自室の鏡の前で最後の身支度を整えながら、心の奥底に封じ込めていた悲しみをそっと吐き出すように息をついた。
「今夜が……最後」
小さくつぶやかれたその言葉は、春の穏やかな陽射しとは裏腹に、暗く切ない響きを帯びていた。
今日は、社交界の華とも称される一大行事――舞踏会の夜である。貴族たちが一堂に会し、煌びやかな衣装をまとって踊りに興じ、互いの家の結びつきを深める大切な社交の場。その華やかさゆえに、若き貴族や令嬢たちの恋や縁談が生まれる場としても知られている。
そして、セレスティーナにとってもこの舞踏会は運命を分かつ夜だった。
幼馴染であるライオネル・アルディーン――伯爵家の嫡男で、彼女が十年来想い続けてきた男性がいる。なだらかな金色の髪に、穏やかで魅力に満ちた笑顔。幼い頃から快活で、誰に対しても優しく手を差し伸べる。セレスティーナが知る限り、この十年で彼の人柄はほんの少しの曇りも見せずに輝き続けていた。それゆえ、周囲からの人望も厚く、とりわけ社交界の令嬢たちはこぞってライオネルに想いを寄せている。
しかし最近、ある噂がセレスティーナの耳に届いた。ライオネルは、この夜の舞踏会で公爵家の令嬢――プリシラ・ベルフォードに求婚するというのだ。プリシラは誰の目にも美しく、学問にも長け、気品を湛えた社交界の花形である。家柄も申し分ない。ライオネルの一家とプリシラの家が繋がれば、どちらの家にとっても大きな利益があるのは間違いない。そして、何よりライオネルはプリシラのことをかねてから尊敬している様子だった。
――その噂が真実だという事実を、セレスティーナの父、侯爵が密かに教えてくれたとき、彼女の心は酷く揺れ動いた。けれど、セレスティーナは耐えるしかないと決めた。ライオネルが誰と結婚しようとも、彼が幸せであることが彼女にとっては何より大切だからだ。自分の思いはもう伝えられない――そう悟るのに十年という時間は充分すぎるほどだった。
それでも、心は疼く。どうしようもなく、苦しくて切なくなる。まだ間に合うかもしれない。そう思う自分もいる。けれど、今さら想いを告げたところで何になるというのだろう。結局、彼の婚約をかき乱すだけだ。今、世間を駆けめぐっている「ライオネルがプリシラへ求婚する」という噂は、もうすぐ「事実」となる。彼の幸せを邪魔することなど、セレスティーナにはできない。
彼女は自らの胸の奥でわき上がる想いを、ぐっと押し殺す。すべきことははっきりしている。ライオネルが安心して新しい人生へ踏み出せるように、邪魔になりそうな存在――つまりは、自分自身――の感情をきっぱりと消し去ること。そして彼が少しでも自分を振り返ることがないよう、むしろ嫌われるように振る舞ってみせること。舞踏会の喧噪の中で「侯爵令嬢セレスティーナはつんけんしている」という印象を決定づけてしまえば、ライオネルも自分への未練や罪悪感など抱くことなく、プリシラとの結婚へと向かえるはず。
ああ、でも。
――もう、二度と彼と顔を合わせる機会が失われるかもしれない。その可能性に、セレスティーナの胸はほんのわずかに締めつけられる。たとえ友人としてでも、幼馴染としてでも、「ライオネルの特別な存在」でいたかった。ただ、それが自分の儚い夢であったと、今日あらためて思い知らされるのだ。
けれど、今夜、最後に一度だけでいい。きっと「本当に最後になる」であろう時間を、二人で少しだけ共有したい。その願いのために、セレスティーナはある無謀な計画を胸に秘めている。
「今夜、わたくしはあなたを踊りに誘うわ、ライオネル。それがわたくしにとっての……最後の思い出」
そう決めると、セレスティーナは自分の瞳からあふれそうになる涙を必死に押し戻し、真珠があしらわれたヘアピンを髪に飾りつけた。鏡の中に映る自分を見据え、ぐっと唇を引き結んで、いつもの聡明で毅然とした侯爵令嬢の表情を作る。
これが、十年続いた想いの、終わりの始まり。
涙など見せられない。最後くらい、誇り高く在りたい。そう、何度も心に言い聞かせて。
舞踏会の会場となる宮殿は夜になり、無数のシャンデリアの明かりが星のように煌めき始める。大理石の大広間には色とりどりのドレスに身を包んだ令嬢たちと、そのパートナーとしてエスコートする貴公子たちの姿があった。歓声や笑い声、音楽が響き渡り、あちこちで談笑の輪が弾けている。
セレスティーナが会場に足を踏み入れるやいなや、人々は振り返る。彼女の抜きんでた美貌と格式ある家柄を考えれば、それは当然の反応ではあったが、彼女の放つ空気が今夜は一段と鋭いことに気づく者も少なくなかった。いつもは礼儀正しく、物腰柔らかいと評判の彼女が、まるで触れられない氷の彫像のように冷え冷えとした雰囲気をまとっているからだ。
「セレスティーナ様、今宵は大変お美しい……」
「恐れながら、一曲踊っていただけないでしょうか……?」
彼女に声をかけてくる青年たちも、どこかためらいがちである。その鋭い視線に射抜かれると、彼らは自然に身がすくんでしまうのだろう。
「――申し訳ありませんが、今宵はどなたとも踊る気がありませんの。ご遠慮いただけますか」
セレスティーナはわざと優雅にドレスの裾を翻し、丁寧ではあるが冷淡な態度を通した。ささやかながら「傲慢な侯爵令嬢」という印象を広める一助となるよう、あえて視線を逸らしてみせる。
その振る舞いを見た者たちは、「セレスティーナ様はご機嫌斜めかしら」「あの冷たい目は一体何があったのだろう」とひそひそ声で囁き合う。噂が噂を呼び、彼女はあっという間に「今宵は氷の女王」のような扱いをされはじめた。これでいい――そう心の中でつぶやきながら、セレスティーナは一瞬だけ胸を痛める。こんな態度をとる自分をライオネルが見たら、きっと眉をひそめるだろう。だが、彼の笑顔がプリシラへ向けられるのなら、それがきっと正しい未来なのだと信じるしかなかった。
やがて、華やかな音楽が一曲変わり、ダンスの区切りが訪れた頃、会場にいる人々の視線が一方向へ集まっていった。そこには、深い紺色のタキシードを纏い、金色の髪をきちんと整えたライオネルと、その腕に優雅に添えられたプリシラの姿があった。
彼らが通り過ぎる先々で、周囲の人々は微笑ましく二人を見送る。貴公子と貴婦人の理想的な組み合わせに見えるのだろう。実際、並んだ姿は絵画のように美しく、華やかだ。彼と彼女が踊りの輪の中心に進むと、音楽が新たに始まり、その旋律に合わせて二人は優雅にステップを踏み始める。
「――やはり、似合いすぎているわ」
その様子を、会場の隅からそっと見つめながら、セレスティーナはかすかに苦笑する。ライオネルはいつだって周囲を明るく照らす太陽のような存在だったし、プリシラはその光を余すことなく受け止め、さらに輝かせる月のような気品がある。一糸乱れぬステップで踊る二人を見れば、誰もが「王子と王女」と称えるだろう。
自然と、セレスティーナの胸は締めつけられる。そんな痛みを振り切るように、彼女はグラスに注がれた冷えたワインをひと口飲み込んだ。苦みの走る赤が喉を滑り落ち、ほんの少し熱を帯びて身体を巡っていく。それでも、この心の疼きは消えない。
彼とプリシラが踊る姿を、どんな気持ちで眺めればいいのだろう。彼が幸福ならば、それだけでいい――そう言い聞かせてきたはずなのに、胸の奥から湧き上がる嫉妬や切なさは、簡単には抑えられないものだ。長年にわたり、ライオネルを想ってきた。その積み重なった想いが、一夜にして霧散するはずもない。
「セレスティーナ様、どなたかと踊らないのですか?」と、たまたま近くにいた知人の男爵夫人が声をかけてきた。彼女はセレスティーナが一曲も踊らず隅に立ち尽くしていることを不思議に思ったようだ。
「今宵は……その気分ではございませんの」
セレスティーナは淡々と答え、断る。男爵夫人は「まあ」と目を丸くしたが、彼女のいつもと違う冷ややかな様子に気圧されたのか、それ以上は何も言わずに立ち去った。そうやって一人きりになればなるほど、悲しみに押し流されそうになる自分がいる。偽りの「冷酷な令嬢」を装っていても、結局、心は弱さに蝕まれるばかりだ。
ちょうどそのとき、遠目にダンスを終えたライオネルとプリシラの姿が視界に入った。ライオネルは自分の腕を預けていたプリシラの手を離し、軽く言葉を交わしているようだった。プリシラは微笑み、その瞳に確かな感情のきらめきを宿しているようにも見える。もしかしたら、これからはもう、婚約の話が二人の間で進むのかもしれない。ライオネルの噂が本当だとすれば、いずれこの場で正式に公表される可能性もあるだろう。
――ならば。セレスティーナは心を奮い立たせた。こんなにもざわめく心を抑え込むのは、今宵で最後だ。せめて最後くらい、ライオネルとの時間を自らの手で刻みたい。それがたとえ、ただの無謀で愚かな行いだとしても。
セレスティーナはグラスを持つ手をぎゅっと握りしめた後、踵を返し、ライオネルがいる方へ一歩踏み出す。すると、ちょうどそこへライオネルが会話を終えたのか、ふとこちらに目を向けたのだ。視線が合う。その瞬間、セレスティーナの心は一気に高鳴る。十年という長さは決して軽くはない。彼の瞳と自分の瞳が交わるだけで、胸に押さえきれないほどの感情が溢れ出しそうになる。彼女は自分を落ち着かせるように、そっと息を整えた。
ライオネルは申し訳なさそうに微笑み、セレスティーナに近づいてくる。彼の動きに合わせて、周囲の人々も少しずつ目線を注ぎ始めた。これまでにも何度となく二人が並び立つ場面はあったが、今夜のセレスティーナの冷たい空気を感じ取っている者たちは、妙な興味と緊張感を持って二人を見守っているようだった。
「セレスティーナ……今夜は何かあったのかい? いつもよりずいぶん冷たく感じるから、心配で……」
ライオネルの声には、嘘偽りのない温かさと優しさが混じっていた。ああ、だからこそ――。セレスティーナの胸は痛みを伴って震える。こんなにもまっすぐに彼は自分を気遣ってくれる。それは十年間、ずっと変わらない彼の良さであり、同時に彼女を苦しめる要因でもあった。どれほど嫌われ役を買って出ようとしても、ライオネルはそう簡単に心を閉ざすような人ではないのだ。
「……わたくしがどうしていようが、あなたには関係ありませんでしょう」
冷たい声音を装うセレスティーナは、自分でありながら自分でないような気がした。だが、ライオネルに感づかれてはいけない。今さら「嫉妬している」だとか「好きだ」だなんて打ち明けたところで、何もかもが壊れてしまうだけなのだから。
ライオネルの眉がわずかにひそめられる。その仕草だけで、セレスティーナの心は切り裂かれるような痛みを覚えた。ほんの些細な変化でも、彼女には突き刺さる。
「セレスティーナ……君は僕の大切な幼馴染だ。心配するのは当然じゃないか。もし、何かあったのなら……」
「――お気遣いは無用です。あなたには、より大事になさるべき方がいらっしゃるのでしょう? わたくしなど放っておいて、どうぞその方にお戻りになったらいかがですか」
周囲の視線が鋭くなるのを感じる。どうやら二人の会話を興味本位で聞こうとする者が、少なからずいるらしい。セレスティーナはあえて棘のある言葉を放つ。ライオネルの表情が歪むのを見て、さらに胸が軋んだ。この人を悲しませたいわけではない。むしろ、誰よりも幸福でいて欲しい。だけれど、自分の想いを察されてはいけない。だからこそ、彼を遠ざけておかないといけない。
しかしライオネルは、一歩も引かずに彼女を見つめ返してきた。その瞳に宿る真摯な光を見ると、セレスティーナの心はぐらりと揺れる。いつもは穏やかな彼が、少しだけ意を決したような表情をしているからだ。
「……プリシラとのことを言ってるのかい? まさかセレスティーナがそんなふうに思っているとは……。違うんだ、誤解だ。僕は……」
「どう言い繕っても結局は同じですわ。あなたは今宵、プリシラ・ベルフォードに求婚するのでしょう? なら、わたくしのことなど顧みなくてよろしい。あなたの明るい未来には、わたくしは必要ありませんわ」
自分でもひどい言葉だとわかっている。それでも、意地になるように言葉を重ねずにはいられなかった。どうにかしてライオネルを突き放したいがゆえに、悪役に徹するしかないのだ。ライオネルは一瞬、目を伏せて何かを思案しているように見えたが、やがて深い吐息とともに口を開いた。
「セレスティーナ……僕は……」
何か言いかけるライオネルの声を遮るように、セレスティーナはそっと片手を上げる。そして、周りの視線を受け止めながら、できるだけ凛然とした態度で言葉を紡いだ。
「今宵、わたくしは一曲だけ……あなたと踊りたいのです」
その言葉に、ライオネルも、周りの人々も、少なからず驚いたようだ。先ほどまで誰の誘いをも断り、つんけんと冷たい態度をとっていたセレスティーナが、よりにもよってライオネルを指名する形になったのだから。
「セレスティーナ……でも、さっきまで君は……」
「一曲で構いません。このわたくしの、最後のわがままだと思ってくださいませ」
セレスティーナは掴んでいたグラスを置き、ライオネルに向かって右手を差し出す。ライオネルの表情には困惑と戸惑いが混ざり合っていたが、やがて、真摯な瞳で彼女の手をそっと取った。
新たな曲が奏でられる。抑えたテンポから始まる、艶やかでありながら哀愁を帯びたワルツ。セレスティーナはライオネルの手に導かれ、ゆっくりとダンスのステップを刻み始めた。まるで幼い頃、初めて二人で踊る練習をした日のことが蘇るようだ。小さな足取りでぎこちなくステップを踏んだあの日から、何度隣に並んできただろう――その思い出の数々が、胸の奥で流星のように煌めいては消えていく。
ライオネルの手は温かい。その感触に胸が痛む。来る日も来る日も、セレスティーナは彼の優しさに救われ続けてきたのに、とうとう自分はこの手を永遠に離さなければならない。そう思うと、こみあげる涙をこらえるのがどれほど苦しいことか。頬に伝わりそうになる涙を必死で抑え、そっけない表情を装いながらステップを続けた。
「セレスティーナ、さっきは……本当に誤解なんだ。僕はプリシラに求婚なんて……」
ライオネルが必死の面持ちで何かを伝えようとしているのがわかる。けれど、セレスティーナは何も聞きたくなかった。たとえそれが誤解だとしても、彼がどれほど自分を想ってくれていると口にしたとしても――そんな期待を抱いてしまえば、今夜の別れを決意した自分があまりにも惨めになるだけだから。だから、セレスティーナはライオネルの言葉を遮るように、少し強い調子で言う。
「わたくしと踊るのが嫌なら、途中で手を放していただいて結構ですわ」
「……放すわけないだろう。僕にとって君は……」
「――最後まで踊ってくださるのなら、それで十分です」
セレスティーナは目を閉じ、わざと逸らすようにして俯く。ライオネルは苦悶の表情を浮かべているようだったが、最終的にはセレスティーナの意を汲んでくれたのか、それ以上は何も言わず、音楽のリズムに合わせてステップを踏むようになった。
そのまま旋律に身を委ねながら、セレスティーナは思う。もし、自分がほんの少し勇気を出して、彼への想いを告げていたら――あるいは違う未来があったのだろうか、と。それは無意味な問いかけだ。何もかもを今さら悔やんでも、もう戻れない。けれど、もし叶うならば生まれ変わってもこの人を好きになるだろう、とさえ思う。そして来世こそはこの胸の痛みではなく、幸せな気持ちだけを噛みしめられる関係になりたい、とそんな儚い夢を抱いてしまう。
曲の後半、テンポがわずかに速まる。二人の衣装がふわりと舞い、周囲からどよめきの声が上がる。優雅な中に確かな切なさが漂う踊り。二人の沈黙が、見つめる者たちに妙な緊張感を与えているようだった。しかし当のセレスティーナは、視線を合わせることなく淡々と踊り続ける。心の中に渦巻く激情とは裏腹に、彼女の外面は冷たく張り詰めた氷のように見えているのかもしれない。
そして、音楽が終局へと近づいていく。最後の小節が静かに流れ、あと数拍で舞曲は幕を閉じる。セレスティーナは鼓動の高鳴りを抑え込むように、ライオネルの腕を頼りながら身体を回転させた。大きなフィナーレのための回転が収まり、二人が顔を近づけるように止まる。その瞬間――音楽が止んだ。
沈黙。周囲の息をのむ気配が伝わる。ダンスの最後のポーズをとったまま、セレスティーナはほんの少しだけ目を伏せ、ライオネルにだけ聞こえるくらいの小さな声でささやく。
「……おめでとう」
それは、セレスティーナが絞り出せる精一杯の祝福だった。胸には渦巻く想いがあっても、彼の幸せを願う自分に嘘はつけない。だからこそ、ここで言葉にしなければならないと感じたのだ。「これでわたくしの役目は終わりです」というように、最後の最後で惜しみなく祝福の言葉を放つしかない。
けれど、その瞬間、ついにセレスティーナの頬を涙がつたって落ちる。自分でも気づかぬうちに、ずっと押し殺してきた感情が決壊してしまったようだった。わずかに震える肩を見たライオネルは、はっと目を見開く。そして、踊りのフィナーレのままの体勢で、セレスティーナをそっと抱き寄せた。
「セレスティーナ……君は、どうして泣くんだ?」
ライオネルの声は辛そうだった。抱き寄せる腕の強さに戸惑いながらも、セレスティーナは何も言えない。やがて自分で気づく。ああ、泣いてはいけないと思っていたのに、もう抑えられないのだと。
周囲の視線が増すのを感じた。人々は驚いているに違いない。あの「冷徹で気高い侯爵令嬢」と噂されていたセレスティーナが、今、舞踏会の中心で人目もはばからず涙をこぼしているのだから。しかも、ライオネルがその涙を拭うどころか、彼女を抱きしめている。いったい何が起きているのかと、皆が息をのんで凝視しているはずだ。
しかし、セレスティーナは視線などどうでもよかった。この瞬間、ライオネルの胸に顔をうずめ、わずかに震えながら泣く自分の姿を認めてしまう。駄目だ、みっともない――そう頭でわかっていても、涙は止まらない。一度溢れ出した想いは、もう簡単には抑え込めないのだ。
「……セレスティーナ、僕は……」
ライオネルが何かを言いかける。その瞳はたとえようもなく真剣で、セレスティーナを抱く腕からは、まるで自分を手放すまいという強い意志すら感じられた。しかし、セレスティーナは首を横に振る。彼の優しさにすがってしまえば、自分の決意が揺らいでしまう。だから、ここで終わりにしなければならない。
彼女は震える唇に微笑みを作り、涙を拭うこともせず、そっとライオネルの腕の中から身を離した。そして、今度ははっきりした声で言葉を告げる。
「ありがとう……でももう、いいの。わたくしたち、これでおしまいにしましょう」
「おしまい、って……何を言っているんだ、セレスティーナ」
「あなたには、わたくしなどよりふさわしい方がいるわ。……だから、わたくしは行かなくてはならないの。さようなら、ライオネル」
その言葉に、ライオネルは目を見開く。周囲の空気が張り詰め、次の瞬間には一斉にさざめくかのような気配が起こる。セレスティーナは周囲の反応など気にも留めず、ドレスの裾を掴んで後ろへと下がった。ライオネルが手を伸ばそうとするが、それよりも早く彼女は背を向けて会場の出口へと歩み去る。
こぼれ落ちる涙が後から後からあふれてきて、セレスティーナは前さえよく見えなかった。もうこれ以上、ライオネルの優しさに触れるわけにはいかない。自分の醜い嫉妬や、抑えられない愛しさをさらけ出す前に、さよならを告げるしかなかったのだ。せめて最後の思い出だけは、最高に美しいダンスで締めくくりたかった――そう思いながらも、終わってみれば自分はみっともなく涙をこぼし、彼の胸にすがりそうになってしまった。
けれど、もう十分だ。今夜をもって、彼への想いを自分の中で終わらせる。その覚悟を胸に抱きしめ、セレスティーナは舞踏会の会場を後にする。廊下に出た途端、さらに涙が溢れ、息もできないほど苦しくなる。声を上げて泣くことなど、侯爵令嬢として在り得ない振る舞いだとわかっているのに、嗚咽がこみあげて止まらない。
――好きだった。好きで、好きで、どうしようもなかった。十年間、心の中はライオネルで埋め尽くされていた。もし自分があのダンスホールに戻ってしまえば、最後の一線を保ち続けることなどできない。涙を流してしまった今、もう自分は高貴で涼しげな侯爵令嬢の姿を装えないのだ。
だからこそ、逃げるように去るしかなかった。彼に祝福を贈り、最後の踊りでお別れを告げる――最初に決めたとおり、それが精一杯の結末だと。
誰もいない廊下の隅で、セレスティーナは崩れ落ちるようにして泣いた。音もなく流れる涙は、何千、何万と降り注ぐ雨のように絶えることを知らない。一方の舞踏会の会場からは、まだ華やかな音楽と人々の話し声が遠く聞こえてくる。幸福が花開くその場所から、自分は永遠に閉め出されたのだと思うと、涙はさらに止まらなくなった。
――だけど、そう、これでいい。ライオネルはプリシラと結ばれる。それが彼の幸せ。心の内で、何度もそう言い聞かせるしかない。それが、十年にわたる片思いの終着点なのだから。
こうして、幕が下りる。誇りと引き換えに、涙だけが残る夜。セレスティーナの胸には、ダンスの余韻と共に、十年分の切ない愛しさが痛みを伴って横たわっていた。そして、その愛しさに完全な終わりが訪れる日は、きっとまだ遠いのだろう。けれど、少なくとも今夜は――彼への「おめでとう」という言葉とともに、セレスティーナの長い片思いは幕を閉じたのだ。
廊下の窓から覗く夜空には、一面の星が輝いている。遠い遠い過去の光が、ようやく地上に届いて、瞬いているのだという。セレスティーナの想いもまた、いつかは光のように宇宙のどこかに消えていくのだろうか。その答えはきっと、誰にもわからない。けれど、今はまだ悲しみしか感じられない自分を、いつか星が照らしてくれることを――ほんの少しだけ願う気持ちを残して。
涙に濡れる瞳で、セレスティーナはそっと夜空を仰ぐ。胸を裂くような切なさの向こうで、ライオネルの笑顔を思い浮かべる。それは、彼女がこの十年、どんなに辛くても生きてこられた支えだった。今となっては呪いのように痛い思い出も、いつかは宝物のように大切に思える日が来るかもしれない――そう自分に言い聞かせて、セレスティーナは静かに瞼を閉じた。
これで、すべてが終わる。
けれどこの夜の風だけが、そこに残された涙の痕をそっと撫で、語らぬ慰めを囁いているかのようだった。
(完)