第四話 変化
帝国歴 1733年。 八月五日。
八月の森は、教会の裏手に広がる静謐な聖域だった。
昼の祈りと午後の講義のあいだに挟まれた、わずかな自由時間――本来は庭で黙想するために与えられた時間だが、私は人目を避け、森の奥へと足を踏み入れていた。
魔導を教わったことは、一度もない。
それを禁じられているわけでもなかったが、少なくとも「体系立てて教える」者はいなかった。
だから私は、教会の書庫に並ぶ古びた一般書、英雄譚、寓話集、そして魔導に直接関係しない解剖学や神学の注釈書から、断片的な概念を拾い上げ、それらを無理やり結合させることで、独自に“答え”を導き出した。
魔導とは、奇跡ではない。
少なくとも私にとってはそうだった。
それは意志を媒体とし、肉体内部へと浸透させる一種の流動的概念――私はそれを、筋繊維へと巡らせている。
呼吸を整える。
肺に吸い込んだ空気を、ただの酸素としてではなく、身体の内側へ沈めるように意識する。
次いで、背骨の奥、脊髄の周囲に“熱”のような感覚を生じさせ、それを四肢へと分配する。
ぎこちない。
未熟で、雑で、効率も悪い。
それでも――。
足裏が地面を蹴った瞬間、世界の密度が変わる。
視界が一段階引き伸ばされ、森の緑が平板な情報として認識される。
身体が軽い。否、軽いのではない。
重力を受け止める筋繊維そのものが、通常よりも高い負荷に耐えられる状態へ移行している。
私は木の幹へ跳び、さらに隣の枝へと移る。
枝葉が軋む音が遅れて聞こえる。
着地の衝撃は、足首で止まり、膝へ、腰へと伝わる前に吸収される。
――これが、正解なのかは分からない。
外の世界の基準を、私は知らない。
戦場も、訓練場も、他者の魔導も、見たことがない。
だから自分がどれほど逸脱しているのかも、理解していなかった。
森の奥には、私が自分で設置した人型の木偶が立っている。
倒木を削り、粗末に人の形へ整えただけの代物だ。
胸部に当たる部分へ視線を定める。
踏み込み。
腰を捻り、魔導を瞬間的に筋繊維へ集中させる。
蹴撃。
乾いた破裂音と共に、木偶が内部から砕け散った。
表面ではなく、芯から粉砕され、木片が四方へ飛散する。
私は着地し、静かに息を吐いた。
筋肉が微かに震えている。
魔導の巡りが不均一である証拠だ。
無理をすれば、いずれ筋断裂か、内部損傷を起こすだろう。
それでも、やめる気はなかった。
誰に命じられたわけでもない。
誰かに期待されたわけでもない。
ただ私は、書物に記された英雄たちが、なぜ“選ばれた”のかを知りたかっただけだ。
――もし、才能とは生まれつきのものではないのなら。
――もし、後から形作られるものだとしたら。
私は、もう一体の木偶へ歩み寄る。
昼の鐘が、遠くで鳴り始めていた。
自由時間は、終わりに近い。
だが私の中で、何かが始まりつつあることだけは、はっきりと感じていた。
教会へ戻ると、空気の密度が微かに変質していることに気づいた。
石造りの回廊に満ちるはずの静謐は、どこか硬く、よそよそしい。昼の祈祷を終えたばかりの時間帯であるにもかかわらず、子どもたちの声は不自然なほど抑え込まれていた。まるで、建物そのものが呼吸を潜めているかのようだった。
私は無意識のうちに歩調を落とし、床に刻まれた無数の傷――この教会が積み重ねてきた年月の痕跡――を一つひとつ踏みしめながら、礼拝堂へと向かった。
そこで、私はそれを見た。
黒。
それは単なる色彩ではなく、意図的に選び抜かれた沈黙の象徴だった。光を拒絶するかのような軍服。余計な装飾は一切なく、線は鋭く、無駄がない。布地の張り、縫製の精度、金属部品の抑制された輝き――それらすべてが、「戦場」を前提として設計された存在であることを雄弁に物語っていた。
その人物は、礼拝堂の中央に立っていた。
祈りの場に、本来あるべきでない種類の人間。
牧師様が、その傍らに控えるように立っている。いつもは穏やかな表情を湛えているはずのその顔に、今日は妙な緊張が走っていた。恐怖とも、諦観ともつかない、曖昧な感情の混合物。
私が入ってきたのを確認すると、軍服の男はゆっくりとこちらへ視線を向けた。
――測られている。
理由はわからない。だが、その視線には、個人を見る温度がなかった。そこにあったのは、道具を検分する際の冷静さ、あるいは資源を査定する者の目だった。
「君が――」
男は私を呼び止め、短く言葉を切った。声は低く、感情の起伏を意図的に排した調子で、しかし不思議なほど通りが良い。
「先日の検査結果が出た」
検査。
その言葉に、胸の奥がわずかにざわつく。
教会で行われていた簡易的な魔導適性の確認。あれは単なる健康診断の延長だと、そう説明されていたはずだ。私自身、深く考えもしなかった。
男は続ける。
「結論から言おう。君の魔導資質は、我が国が欲している水準に達している」
牧師様が、わずかに視線を伏せた。
私は何も言えなかった。ただ、男の次の言葉を待つしかない。
「よって、君には国の管理下で学習支援を受けてもらう。魔導理論、運用、戦術的応用――これらを体系的に修める機会を与えよう」
与えよう、という言い回しが、ひどく引っかかった。
それは選択肢を提示する言葉ではない。決定事項を通告するための、形式的な修辞だ。
「心配はいらない」
男は淡々と付け加える。
「教育、衣食住、将来の進路。すべて国が保証する。君の才能を、正しく伸ばすためだ」
才能。
その単語が口にされた瞬間、私は自分の胸の奥で、何かがわずかに軋むのを感じた。
――本当に、そうなのだろうか。
森で、誰にも教わらず、書物とおとぎ話をつなぎ合わせて辿り着いた、あの拙い魔導。筋繊維に魔力を巡らせ、身体構造そのものを一時的に書き換えるという、私なりの「解」。
それが、国を動かすほどの価値を持つなどとは、考えたこともなかった。
「……行きなさい」
牧師様が、かすれた声で言った。
それは命令ではなく、祈りに近い響きだった。
私は、黒い軍服の男を見上げる。
その背後にあるもの――この申し出の真の意味、隠された意図――を、私はまだ知らない。
だが、この瞬間、私の人生が、教会の石壁の内側から、どこか別の場所へと引き剥がされつつあることだけは、はっきりと理解していた。
こうして私は、自覚のないまま、国家の計画の円環へと足を踏み入れたのだった。




