第一話 転生
帝国歴1747年。
西方、エレッソ戦線。
――などと、後世の歴史書ではたった一行で済まされる場所。
昼も夜も区別なく、礼儀正しく空を切り裂く鉄の球。それらは等しく、若者の未来や希望や内臓を平等に叩き潰していく。塹壕の中では、精神を病む若者たちが量産されていた。昨日まで冗談を言い合っていた友人は、翌日には識別不能な肉片に格下げされる。
友情? 信頼? そんなものは砲撃一発で粉砕される程度の価値しか持たないらしい。
血を血で洗うという表現すら生温い。錆びた鉄と腐った臓物が混ざった匂いが常に鼻腔を犯し、そこに立っているだけで胃の中のものすべてを世界に返却したくなる。銃声と悲鳴が混じり合い、誰も望んでいないのに延々と演奏され続ける最悪の協奏曲。一般人なら写真や挿絵でしか見たことのない“戦争”が、ここではフルカラー、五感フル装備で提供されていた。
比喩ではない。誇張でもない。ここは文字通り地獄である。ただし、悪魔はおらず、いるのは人間だけだ。
爆撃によって地面には無数の窪みが穿たれ、そこには雨水の代わりに血と脂が溜まっていた。自然は沈黙し、ただ死骸だけが風景の一部として機能している。そんな地獄の片隅に、一人の少年がいた。
少し前まで、彼はただの学生だった。試験の点数や将来の夢に悩む、ごく平凡な存在。だが今はどうだ。なぜか小銃を担がされ、泥にまみれ、「祖国のため」という便利な言葉の下で命の前借りをさせられている。
戦地では命の価値は紙よりも軽い。いや、紙の方がまだ燃料になる分、役に立つかもしれない。こんな場所で一瞬でも油断すれば、即座に鉛玉という現実に頭を貫かれる。
それでも――
その少年は、動けなかった。
少し前まで存在していた左腕がない昨日まで“身体の一部”だったものは、今頃どこかのクレーターで無言の主張をしているのだろう。
残った彼の腕の中には、一人の兵士が抱きかかえられていた。息は浅く、声は掠れ、誰が見ても用済みなのは明らかだった。
戦争においては、実にありふれた光景だ。誰も驚かない。誰も立ち止まらない。死なないだけで幸運と呼ばれる、そんな倫理観が正気として通用する最悪の戦場。
帝国歴1747年、12月21日。
その日、戦場で――
“私”は死んだ。
私の人生を総括するならば、それは悲劇として消費されるほど過酷でもなければ、成功譚として記録されるほど華々しくもない、極めて凡庸で、再現性の高い経過を辿った一個体の事例に過ぎなかったと言うほかない。
恒常的な不満や決定的な欠乏が存在していたわけではなく、かといって充足感に満ちていたかと問われれば、そこまで自己欺瞞に長けていたわけでもない。退屈ではあったが、致命的ではなく、満足していたかどうかを問われれば「そう思うことで折り合いをつけていた」と表現するのが最も正確だろう。
知的能力については、人並み以上であったことは否定しない。少なくとも初等教育の段階においては、理解速度、処理能力、記憶の持続性といった要素で周囲より優位に立っており、それが周囲からの過剰な期待と、本人の根拠のない自己評価を同時に育てる温床となった。
運動能力も同様で、突出した才能は持ち合わせていなかったが、致命的な欠陥もなく、結果として「平均以上」という曖昧で便利な評価に収束していった。それらの要素が複合的に作用した結果、私は中高一貫の私立進学校へと進むことになるが、その時点ではまだ、自身を競争における勝者側の人間であると錯覚していた。
努力すれば報われる。努力している自分は、報われる側にいる。その前提が疑われることはなかった。
だが現実は、極めて冷静かつ無慈悲だった。そこに待っていたのは、理想化された学園生活でも、自己肯定感を補強する成功体験でもなく、単に「自分は賢い人間ではない」という事実を、比較という名の暴力によって何度も反復提示される日常だった。
一般的な教育環境において上位に位置する程度の知性など、この空間では評価の俎上にすら上らない。かつては称賛の対象だった能力が、環境の変化によって一切の価値を失うという現象を、私は中等教育に進学したその瞬間から理解させられた。
それは挫折と呼ぶにはあまりにも静かで、しかし確実に自己認識を侵食していく過程だった。私は天才ではない。ただの「よくできると思われていた凡人」なのだと。
とはいえ、その事実を即座に受容し、脱落を選択できるほど潔癖でもなかった私は、過剰な期待と現実の乖離に軋みながらも、必死に競争から振り落とされまいと足掻き続けた。その結果として辿り着いたのが、上位でも下位でもない、中庸という名の安全地帯である。
第一志望を有名国立大学に設定する程度には学力を維持していたが、それもまた、この進学校においては特異性を伴わない「平均的な選択肢」に過ぎなかった。周囲には旧帝国大学を当然のように目指す者が存在し、さらにその上位互換として、海外の高等教育機関を射程圏内に収める者すらいた。
自分が特別ではないと理解した人間は、やがて競争そのものから距離を取るようになる。私の場合、それは人間関係の最適化という形で表出した。
捻くれているという自己認識はあったが、学校という閉鎖的かつ再帰的な社会構造において孤立がもたらす不利益は、十分に理解していた。ゆえに私は、趣味を隠蔽し、思想を希釈し、目立たぬ文化部に所属し、友人関係を広く浅く管理することで、摩擦係数の低い存在であろうと努めた。
支配階層に属する必要はない。しかし被支配層に転落する理由もない。その消極的合理性こそが、私の行動原理だった。
当然ながら、どれほど最適化された環境にもノイズは混入する。自己流の完璧主義を振りかざし、文脈を読まず、正しさを免罪符として集団の流れを阻害する個体は、例外なく存在した。
彼らを観察していると、他者への依存なしには成立し得ない存在でありながら、なぜか集団内では過剰に自己主張を行うという矛盾した振る舞いが目につき、理性を備えた人間よりも、条件反射で行動する動物の方がまだ予測可能なのではないかとすら感じさせられた。
無論、私自身が完成された人格であるなどとは思っていない。真に優秀な人間、真に善良な人間から見れば、私は背景に溶け込むノイズの一部であり、識別記号を与えるとすれば「男子高校生D」程度が妥当だろう。
それでもなお、自身を基準点として設定し、そこから相対的に他者を見下すことでしか自尊心を維持できないあたり、人間という存在の脆弱性を痛感せざるを得ない。
そんな自己分析に耽りながらの下校途中、私は単語帳を広げ、来週から始まる期末考査について思考を巡らせていた。この程度の試験すら突破できない人間が、より大きな社会構造の中で何かを成し遂げられるはずがない――
その強迫観念が、私を前へと押し出していた。
そして今にして思えば、その思考こそが、決定的な不注意を生んだのだろう。
信号を確認しなかった。周囲を認識していなかった。横から赤信号を無視して進入してきた普通自動車に対し、回避行動を取るだけの余地は残されていなかった。
詳細な描写は不要だ。ただ、無機質なアスファルトの上に、赤色が異様なまでに鮮明に広がっていた光景だけが、記憶として残存している。
それは悲劇でも啓示でもなく、私という存在が次の段階へと移行するための、極めて事務的な契機に過ぎなかった。
「ようこそ、勇者様。お待ちしておりました」
「……は?」
反射的に喉から零れた間抜けな声は、状況を鑑みれば妥当な反応だったと言える。つい先ほどまで、私は確かに現代日本の路上に存在していた。その直後、全身を殴打するような衝撃と激痛。意識の急転直下。そして、目を覚ました先がここだ。
論理的に考えれば答えは一つ。交通事故。死亡。以上。にもかかわらず、私の身体は健在で、欠損も裂傷も見当たらない。服に付着した血痕と砂利だけが、死因を雄弁に物語っている。車と正面衝突し、地面と情熱的な接吻を交わして無事な方がどうかしている。
なるほど、これがいわゆる走馬灯というやつか。死の間際、人は脳内で都合のいい幻覚を見る――ネットの海で拾った、信憑性ゼロの俗説だ。今さら検証不能な与太話だが、現状を説明する仮説としては悪くない。
問題は、目の前のこれだ。
室内。宗教施設めいた構造。日本ではまず見かけない様式。そして、初対面にもかかわらず、私を当然のように“勇者”と呼ぶ女。
勇者。近年量産されている異世界転移・転生小説における便利な駒。平凡な人間が、召喚と同時に過剰な能力を付与され、世界を薙ぎ倒す。実に合理的で、実に安っぽい。
「あの……失礼ですが、あなたは誰で、ここはどこですか?」
「あぁ、申し遅れました。私は女神カトリーヌ。転生者のサポートを担当しております。ここは、そうですね……神の間、ということで」
なるほど。
役職名:女神。業務内容:転生者サポート。舞台装置:神の間。世界観構築が雑すぎる。企画書なら即却下だ。
そもそも神が実在するなら、まず私の死について説明責任を果たすべきだろう。理不尽極まりない事故死を放置しておいて、世界を救えとは随分なブラック企業体質だ。
「夢だと思われるのは心外ですね。あなたには、これから世界を救ってもらうのですから」
――心を読んだ?いや、違う。ここではそれが仕様なのだろう。プライバシー権?知らない子ですね。
「申し上げましたでしょう?私は女神です。思考の把握など、造作もありません」
ますます碌でもない。
「それで、その世界救済とやらを、ただの男子高校生に?」
「前世の話です。こちらの世界では、勇者には特別な力が与えられます」
そう言って彼女は、水晶玉を取り出した。神秘的というより、占い師の備品にしか見えない。だが、内部に星雲を閉じ込めたかのような光は、確かに異常だった。
「手を。あなたの“素質”を測定します」
素質。能力が付与されるなら、測定する意味は薄い。まるで“ハズレ”が存在するかのような言い回しだ。
女神は笑顔を崩さない。こちらの思考が筒抜けである以上、従う以外の選択肢はない。
水晶に触れた瞬間、全身に不快感が走った。内臓を直接撫で回されるような感覚。水晶は瑠璃色に発光する。電源も装置も見当たらない。常識が通用しないという事実だけは、嫌というほど理解できた。
そして――女神が、露骨に顔を歪めた。
「……何か?」
「いえ。問題ありません。転生の儀に移りましょう」
一瞬の違和感。だが、彼女はすぐに完璧な笑顔に戻った。作り物のように、綺麗に。
連れてこられたのは、何もない広間。床一面に刻まれた未知の文字が、嫌悪感を誘う。
陣の中心に立った瞬間、文字が光を放つ。頭痛。眩暈。そして、女神の詠唱。
――テンプレートだ。実にテンプレート。
「あぁ、最後に一つだけ教えて差し上げましょう」
視界が白く滲む中、女神の声だけが鮮明に届く。
「私たちは複数の世界を管理しています。地球もその一つ。通常、干渉はしません。しかし、時折“その世界だけでは解決不能な問題”が発生する」
その時、彼女の顔は完全に歪んでいた。冷たく、無機質で、感情が欠落している。
「その際、勇者を召喚します。ですが……」
吐き捨てるように、彼女は言った。
「稀に、お前のような“不良品”が混ざる」
……不良品?
「能力なし。価値なし。処理対象です。人口過多の世界で、余計な負債を増やさないでください」
怒りが湧いた。当然だ。死んだのは私だ。一方的に殺され、使えないから廃棄?理屈が通ると思っているのか。
「静かにしなさい、不良品。安心してください。あなたに相応しい世界は用意しています。記憶もそのまま。もっとも――」
女神は嗤った。
「何の能力もないあなたが、生き残れるとは思いませんが」
待て――。
言葉になる前に、光がすべてを呑み込んだ。こうして私は、合理性の名の下に、どこかへ投棄された。
意識が覚醒する。
浮遊感が消失し、代わりに重力を伴った現実感が身体を支配した。努めて瞼を開くと、視界に映ったのは見覚えのない天井である。即座に結論を導く。自宅ではない。病院とも断定できない。
現状確認を試みる。周囲を見渡そうとするが、首が動かない。麻痺ではない。筋肉そのものが機能していない、あるいは極端に未発達である。頭部は不釣り合いに重く、保持が困難だ。
四肢は動く。
しかしその動作は不正確かつ制御不能であり、立位保持はおろか、体位変換すら不可能と判断せざるを得ない。
結論。
自立行動能力は皆無。
あの女神め。
意図的か、あるいは怠慢か。いずれにせよ、こちらに不利な初期条件を与えたことは疑いようがない。
まずは情報収集が最優先である。
周囲に第三者の存在を確認すべく発声を試みる。
「あぅぅわあ〜」
……想定外。
発声内容と意図が一致しない。
音声は不明瞭、抑揚は制御不能、意味を成していない。自らの口腔より発せられたと認識するまで、僅かな時間を要した。
否定したい仮説が浮上する。
だが、論理的検証の結果、棄却する材料は存在しない。
――乳児。
脳は成人の思考能力を保持している。
しかし肉体は完全にそれに追随していない。
現実が感情を考慮することはない。
思考を巡らせていると、音声反応を察知したらしい人物が視界に入る。
宗教的装束を纏った壮年の男性。神父と推定される。
男は躊躇なくこちらを抱き上げる。
「おぉ、目が覚めたか。哀れな子羊や。今日からあなたも神の子供です。名前は……アーサー、というのですね。良い名前だ。我らが女神に感謝を。」
軽い。
物理的にも、言葉の意味においても。
この扱いから判断するに、彼が異常な膂力を持つ可能性は低い。つまり、こちらの身体が極端に小さいという結論に至る。
転生。
しかも生後直後からの再スタート。
最悪の初期条件だ。
行動不能、発言不能、意思伝達不能。
生存は完全に他者依存。
戦略的価値は皆無、存在価値すら保護対象でしかない。
あの女神め。せめて自立可能な年齢を選ぶという配慮はなかったのか。
結局、現時点で許可されている行動は一つのみ。
身体反射に従い、泣き声を上げること。
――帝国歴1730年。
帝国に新たな命が誕生する。
名はアーサー。
前世の記憶を保持した、極めて例外的な存在である。




