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わくわくウィンターアタック  作者: 中川 篤
第二夜 無頼の町
9/22

9話 黄金町古書店街



 医師の名前は多田(ただ)(ゆき)(ひさ)先生と言った。僕は自己紹介のとき「タダです。よろしくお願いします」と言われただけで名前の漢字までは記憶していない。だから「(ただ)」かもしれない。

 でも多分、多田。元々僕が通っていた病院は衣笠(きぬがさ)病院(びょういん)で、その事だけは確かだ。

 僕は多田先生がJRの桜木町駅(さくらぎちょうえき)付近(ふきん)にクリニックを開業するというので、それに合わせて僕もそちらへ移ったのだ。


 桜木町駅への道のりを僕たちは歩いていた。冬の朝の黄金町は、寒々していて人気がない。


 名刺の問題。それは割と簡単に解決した。名刺は池田さんに頼むと、すんなりと見せてもらうことが出来たからだ。ようやく僕の事情が二人にもわかってきて、それから桜木町駅へ行くのに、黄金町から商店街沿いのコースをたどることにした。伊勢ブラってやつだ。


 「え、いつもここで降りてんの?」

 「そうだけど」

 「変わってんなア……西村(にしむら)(けん)()の町だぜ。ほら、古本屋がけっこう並んでるだろ?」

 「西村賢太ってだれよ?」

 「平成の小説家でさ……結構ひどいこと書く人」

 「ふーーん、どんな?」

 「勘弁してくれよ……命にはちょっと言えない」

 「じゃあ徹は、人に言えないようなことが書かれてる小説を読んでる訳ね? あっそう。そういうこと。軽蔑(けいべつ)したー、徹ケーベツするわー」

 徹はむすっとして「じゃあ言うけど、絶対怒るなよ。言っとくけど、放送禁止用語の部類だからな」

 「うん! 怒んないから! 教えて!」

 「ク……」

 「あァ?」

 「……クソ女」

 「ハアァ⁉」

 「に……駄目だッ! この先は言えない!」


 命はしかし察したらしい。大声でヒステリックに叫び、それはしばらくの間続いた。

 それが落ち着いたころ、徹の声に僕と命が商店街の左右を振り向くと、朝早くから開業したばかりの古本屋が二、三件、ぽつぽつと間隔(かんかく)を置いて軒を並べている。西村賢太御用達と聞かされていた命は明らかに機嫌が悪い。

 古本屋はラックを前に立て、古びた本を売っていた。なんだか味のあるというか、癖の強い本ばかりだ。


 冬の朝らしく商店街には乾いたつめたい風が吹く。僕ら三人はダウンジャケットで着ぶくれながら、ポケットに手を突っ込んで、人通りのない、朝の閑散(かんさん)とした街並みを歩いた。


 置かれた本のページはどこか寒そうにして見えた。試しに買う気のない本を手にとってみると、ひんやりとした感触がする。著者名は島田。100円均一だったので命が買ってくれた。もっと本を読めということらしい。むつかしそうだ。


 黄金町の付近を過ぎると、少しずつ商店街は繁華になってゆき、韓国系の小料理屋や繁華街らしい雑貨店が並ぶようになった。けど、どれも今はシャッターが閉まっていた。

通りの柱にはポスターが張られていた。

 「大道芸 12/22から」

 今日は十三日だ。この商店街で猿回しをやるらしかった。徹の説明によるとこの先には、落語会館があるという。正月になったら連れて言ってくれると徹は僕と命に約束したけど、命はあまり、落語には興味がないらしい。


 「正月だからめでたい方がいいだろ」

 「落語って何やんの?」

 「去年はマギーさんいたな」

 「マギーさん? あっ、見たい!」


 桜木町は閑散としていた。川村屋で立ち食いそばを食い、息を吐くと温かい。そばを食べてから、クリニックへ歩いた。


 そこまではそれほどの距離じゃなかった。

 僕も、クリニックへの道は知っている。段々と思いだしてきた。家の場所も、もしかしたらわかるかもしれないし、二人の力を借りなくても、もしかしたら自力で帰宅できるかもしれない。でも、僕は二人の力を借りたかった。甘えたかった。今の状況の、この関係が、僕にはとても心地よかった。だからわからないままでいたかった。

 少し気を抜くと、いつも弱い心に流されそうになる。そして内心ではいつも毒を吐いている。

 けれど、今日はすこしだけ良い感じだ。


 が、結論から言って、タダ先生は、いま外に出むいていた。三浦市にある大型の精神病院に、なにか用事があって向かったらしい。監査とかなんとか。

 その日はまだ時間があった。電車に乗り、京急線のどん詰まりまで、それから僕らは飛んだ。電話で外来の予約を入れると、今日の四時に会うことが出来る運びになった。


 予兆(よちょう)は雷のように、電流のように、そして導火線のように、僕の右肩でくすぶっている。

 いいことは続かない。




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