私の時間
思い出話というほどのものでもない話を終えた帰り際、入学祝にと池田さんが缶コーヒーをくれた。彼がいつも飲んでいるブラックだった。やっと16年目に突入した私には、ちょっとその苦さを想像するとまだ飲めそうにないので、そっとカバンにしまっておいた。
私が好んで飲むのはいつも、甘さを控えない紙パックのレモンティー。出かけるときは必ず、カバンの中にストローと一緒に入っている。
道を歩く時は、その耳をヘッドホンで塞ぐ。父の曲を聴くために、或いは世界の音を聞かないように。
人の前では絶対に泣かない。悲しい出来事は、理解した気になって済ませることにしている。
歌を歌う時に意識することは、なるべく遠くに声が届くようにすること。何に向かって、誰に向かってかはわからない。でも、わかったつもりでいる様に魅せる。魅せる。
聞かなくても、泣かなくても、魅せても、気付けば次の日の朝になっている。寝る前にちゃんとわかったフリをしておく。どうせ明日は来ると。そうやってこれまで生きてきた。
もし自分の何かを知っているとすれば、それは私が不器用だという事。周りを見れば、オシャレなカフェも、奇麗な洋服も、幸せが溢れたこの世界でも、私はそんな生き方しかできない。溢れてるものを掴めない。
きっとこんな事考えながら生きてる女子高生も、中に入るんだろうけど、まぁ、いつかそんな子とも出会ってみたいけど。
せめていつか、私がギターと生きる理由でも知れたらいい。
今日もヘッドホンで耳を塞ぐ。聴くためか、聞かないためか。
これが、東郷美夜の日々。
―――――
ヘッドホンを通して流れる父の声は、男らしい太い声で、力強く、とても私には出せない綺麗な音。でも不思議と、憧れではない。別に父の過去を責めるわけではないし、この年になるととかいうとまだガキのくせにと批判を浴びそうだが、男と女が一緒にいただけで、その関係に騒ぐのもどうかと思うし。
憧れてないのに、私の音楽プレイヤーにはハートポストの曲しか入っていない。あれ以来配信サイトでは、ハートポストは削除されているのでスマホではダウンロードできないので、父が持っていたCDから古い音楽プレイヤーに入れて聴いている。
別に流行りの曲だって耳に入れば聴いている。嫌いでもない。
きっとハートポストには、その秘めたる何かがあるのだろう。とも思っていない。
やっぱり私には、自分に対する何故が多い。
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか目的地に辿り着いていた。夕飯までには帰らないといけないので、少ししか時間が無いけど一応報告しておこうか。
白い大きな箱を前に、音楽を止めてヘッドホンを肩に掛ける。自動ドアを通って、優しい顔をした受付のお姉さんに声をかけた。
「ギリギリの時間にすみません、面会お願いできますか?」
受付のお姉さんは時計に目をやり、
「はい、大丈夫ですよ。ただ、」
と口を噤んだ。何年も通っていれば顔パスのようなもので、私が誰で、誰に会いに来ているのかを察してくれている。
「大丈夫です、わかってます」
私はそう答えて、差し出された名簿に名前を書いてから一礼した。
慣れた歩みで目的の部屋、305号室へ向かうためにエレベーターのボタンを押す。気を使ってくれているのかな、別に何も期待していないのに。彼について。
一ヶ月に一回ぐらいは、意味の無い面会をしている。
私は、特にノックもせずに305号室の部屋に入った。
そこは少し窮屈な一人部屋で、窓の外にはちょうど夕日が見えたりする。今日も彼は、変わらずに、伸びきった髪越しに夕日を眺めていた。
「久しぶり、ちゃんとご飯食べてる?、、、お父さん」
そこには、一世を風靡した伝説のロックバンドのギターボーカルで、自らの不祥事でその幕を閉じた、私の父がいる。
私の質問に応答は無い。聞こえていても、父は何も返さない。一方通行のやり取りは、もう8年近く続いている。
ハートポストの解散から数年して、父は壊れてしまったのだ。
意識はあれど父の心は錆びついて、誰の何に応答することもなく、一時期は食事も取ろうともせず、ある日私が小学校から帰ると父は首つり自殺に失敗して、病院に運ばれて以降この状態だ。
私を娘と認識しているのか、自分が元ロッカーだったという事を覚えているのか、今の彼はその全てが零になったかのように、ただ生きている。
「明日からね、高校生なんだ。中学には無かった軽音部もあるみたいなんだけどさ、正直興味湧かなくて」
私は、特に椅子に腰かけることもなく、ただ話す。
「今日も練習してきたんだけどさ、やっぱ難しいね、ハートポストの曲」
父は何も話さず、窓の外の夕日を眺めている。
「まぁでも、このギターはもうしばらく借りておくよ。あ、そうだ。午前中に髪切ってもらったんだけどどうかな?やっぱ長いとさ、ギターのストラップ引っかかるんだよね」
父は、此方すら見ない。私の、独り言。
「、、、そろそろ行くね。入学の報告だけだったから」
私は、そう言ってドアに手をかけた。
「お父さんはさ、どうしてギターを弾いていたの?」
少し待ってみたが、相変わらず返答は無いので、私はそのまま病室を出た。
ほら、今日も何も変わっていない。
父が何を考えているのかはわからない。主治医の先生によると、何か大きなショックを受けたのか、今の父はそこに居ないも同然になっているようだ。空っぽの父。
それでも時間は過ぎていき、生きる義務だけが彼をただ生かし、私は両親との生活を送れずにいる。
―――――
父のいる病院を後にして、途中コンビニに寄ってレモンティーだけ買い足してから帰路に就く。
少し歩くと、白色の壁に、ピンクの屋根が目立つ平屋建ての家に辿り着く。今の、私の居場所。
と、車のライトが私を照らしたので、私は駐車スペースから少し離れた。
黒の軽自動車の窓が開き、中から女性が顔を出す。
「今帰り?」
彼女は西野碧さん。
「はい、碧さんもお疲れ様です」
此処、『みどりのおうち』の唯一の職員で、私のような身寄りのない子供を保護してくれている。
「あー、明日から1学期ねー。昼間寂しくなるわ」
車から降りてきて、碧さんはおどけて魅せた。
「静かでいいんじゃないですか?」
「それがそうでもないのよねー、慣れって怖いわ」
手をヒラヒラさせながら、意味深に話して碧さんは玄関を開けた。
「ただいまー」
私と碧さんが同時に言うと、奥の方から足音が響いて近づいてきた。
「おかえりー!ご飯もうすぐできるよー」
北沢莉奈。私の一つ下で、元気印の女の子。
「今日は美夜ちゃんの入学祝だよ!ハンバーグ!」
南夢歌。今年から年長さんの、『みどりのおうち』の天使。
「夢歌が食べたかっただけでしょー。てかさ、普通お祝い明日じゃないの?」
靴を脱ぎながら碧さんの鋭いツッコミをいれる。
「じゃあ明日もハンバーグ?」
「年頃の女の子は、そんな毎日お肉ばっかり食べないよ」
私も夢歌の頭にポンと手を置き、自分の部屋に向かう。と、ジッとこちらを見てくる莉奈と目が合った。
「何?」
「美夜ちゃんさ、、、髪切っちゃったの!?」
「ほんとだー!」
「あー、これ?ストラップかけるのに邪魔だから」
首元までに整えた髪に手を添えて、本当は長かった頃の自分の方が似合っている気がしたことや、別に髪の長いギタリストがいる事も少し頭を過った。
「勿体ない!私達、美夜ちゃんの美人っぷりに憧れて伸ばしてたのに!」
「のに!」
二人してムッとしてくるのを見て、可愛い妹みたいなもんだといつも思う。
「はいはい、ありがと。じゃあアンタ達も切ればいいんじゃない?」
それだけ言って部屋に入り、壁にギターを立てかけてカバンからレモンティーを取り出した。廊下の方では、髪を切るだのなんだのと二人が騒いでいる。
「ほーら、ご飯の時間だよー」
「はーい!じゃあとりあえず、私のスキルアップしたハンバーグを堪能してもらおうかね!」
「ユメいっぱいこねた!」
碧さんの号令で、全員一先ず夕飯の席に着く。女四人の暮らしだ、毎日騒がしい。けど碧さんにとって、この騒がしさは心地よいものなんだと、さっきの会話で知った。
いや、私もか。きっと暗くてどんよりした生活なら、私ももっと、塞ぎ込んでいたかもしれない。
―――――
夜になると、私はよく縁側で月を見上げる。夜なので弾くわけでもないが、父のギターを抱えて。隣には、ストローを刺した紙パックのレモンティーを置いて。昔からの癖なのだ。父がよく、こうしていた。その姿が、どこか寂しそうなのに、何故かかっこよく見えて。
父は今も外を眺めているだろうか、見つめる先に何があるのか、それがわかれば元に戻るのだろうか、考えてもわからない事は、とりあえず閉まっておけるほど、夜空は広く感じた。
「美夜ちゃんお風呂空いたよー」
髪を乾かし終え、ビンコーラを片手に莉奈がやってきた。
「はいよ」
「返事だけして夜更かしするくせにー」
「よくわかってんじゃん」
「そりゃあ?長年の?妹ですし?」
莉奈も私の横に腰掛け、月を見上げる。
「高校だと軽音部あるんでしょ?やっぱり入るの?」
「ん-、まだ迷ってる。私ハートポストしか弾けないし」
此処の住人は、似た傷を持つが故にお互いのことをちゃんと知っている。夢歌にはまだ難しいから、いつかゆっくりと。
「そこ悩むか―。私はあんまロックとか聴かないけどさ、流行ったバンドなんでしょ?今更あんなこと、皆気にするかなー?」
空っぽになったコーラのビンを月に翳しながら、莉奈が言った。
「そう思うなら、莉奈は見かけによらず大人だよ」
「一つしか変わんないじゃん!」
「皆がアンタみたいに考えてくれればね、私ももっと、堂々とギターを弾けたのかな」
あまりにも世間が否定するから、どこか後ろめたい気持ちで歌ってきた。何か一つ悪があると、その全てが悪であるかのように語り継がれる国だから。
多分誰も、その後の事とか、周りの事とか考えていない。それなりにちゃんと苦しんだ私だから言える、考えない方が絶対に楽だろうからね、と。
「でもソロでもいいんじゃない?なんかカッコイイじゃん」
「そうだねー、『青』でも誰も私に声かけないし」
「あ!髪の毛の話だけどさ」
唐突に話が変わるのは、昔からの莉奈の癖。
「私ももしフラれたりしたら切るべきかなー?」
「私別にフラれたわけじゃないし何の話?」
「ほら、明日始業式じゃん?2年までは一緒だったけど、彼とまた同じクラスになれるかなーって。そういうちょっとの距離で、ヒビ入ったりするじゃん中学生だし」
あー、莉奈が中1の時から付き合ってる彼氏の話か。どうもこの手の話は興味が湧かないので、一口レモンティーを飲んで無視した。放っておいても莉奈は一人で喋るし。
「1学期ってそれが怖いよねー。でもたとえ離れてても、とかもちょっと憧れたり?って美夜ちゃん聞いてる!?」
「聞いてない」
「ひどっ!ダメだよ美夜ちゃん、もう高校生なんだから。そろそろ恋愛の一つでもしなきゃ。女にはね、賞味期限があるんだよ」
「生々しい言い方するな、ドラマの見過ぎ。それに、私、誰かを好きになった事なんてないからわかんないよ、そういうの」
「え、私の事も好きじゃない?」
「今そういう話してたっけ?」
莉奈は余裕があるのだろうか、そりゃあ妹という部分を除いても可愛い子だし。じゃあ私にはその余裕が無いのか、、、でも別に悲しくもならない。
「美夜ちゃんホントこういう話興味ないよねー」
「アンタがませてるだけなんじゃないの?」
「だって私ら青春真っ只中の年齢だよ?」
青春って何だ?青い春って。春って言ったら、どっちかと言うとピンクじゃないの?『桃春』じゃダメなの?などと口にしても、話は平行線だとわかっているので何も言わずに立ち上がった。
「とりあえずお風呂入って寝てから考えるわ」
「それ絶対考えないやつじゃん!」
まぁ、そうなるだろうなぁ。考えてもわからないことは、今日の夜空にしまっておこう。なんかそんな曲があった気がするし。何て曲だっけ?明日聴き漁りながら登校しなきゃ。
と、床に就くころには既に、私の頭に青春の二文字は無かった。
―――――
次の日の朝。目が覚めて布団をたたんで、カーテンを開けるとそこには、ずっと遠くまで春空が広がっていた。あまりにも青くて眩しかったので、文字通り青い春の話をやっとここで思い出した。
思い出したところで深く考えようとは思わない。それよりも昨日気になった歌詞だ。今日からの新しい制服に着替えながら、もう一度色んな曲を脳内再生してみるが、なかなか思い当たらない。というか、ハートポストの曲が多すぎる。
父はどうやって、あれほどの数の良い曲を作ったのだろう。一つ一つが父の経験なら、いったいどんな人生を歩んできたのだろう。そういえば知らない。私が歌う理由以前に、何故父は歌ってきたのだろう。
もし私が50年生きても、その時にあれほどの歌が作れるとは思わない。
なんてことは、歯磨きをしながら考えても仕方なかった。
「おはよー!1年生!」
今日も元気に莉奈がやってきた。制服に着替え前髪をセットし、THE学生を謳歌している。
「おはよー、受験生」
「あー!ちょっと、いきなり現実に引き込まないでぇ」
頭を抱える受験生を放置して、朝食に向かう。私ですら受かったのだ、莉奈はあぁ見えてしっかり勉強しているし大丈夫だろう。
「おはようございます」
「おはよー、いよいよ高校生ね」
フライパンを目玉焼きをお皿に盛りつける、エプロン姿の碧さん。テーブルの上には、人数分の食パンとミルクも用意されている。
「手伝いますよ」
「いいわよー、もう完成~」
「いつもありがとうございます」
席に着きながらそう言うと、碧さんは目を丸くしてこちらを見てきた。
「昔から思ってたけど、律儀な子ねー。精神年齢高い系?」
「はは、どうなんでしょう」
学校の先生とかにも、同じようなことを言われたことがある。境遇が境遇だけに、ちゃんと悩み事なんかを外に出せているのか、一人で塞ぎ込んでしまっていないか、などなど。いやそれ、ちょっと失礼じゃん?とも思った。教職員だとしたら、その問いは義務なんじゃないか、義務に頼るのもカッコ悪いし。とも。
その点不思議と、碧さんは距離感の取り方が上手い。私はともかく、莉奈や夢歌は此処に来た頃、その自分の境遇に酷く落ち込んでいた。それを今のように、明るい二人に変えたのは碧さんだ。彼女からは、仕事だからという理由を感じない。現に私も、産まれたころから此処で育ったかのような気分に時々なる。
「あ、今日は入学式だけなの?」
「はい。でも、帰りはまた夕方になるかもです」
「あ、もしかして部活?」
「一応覗いてはみようかと」
私の事情を知っている碧さん相手だから、遠慮せずに苦笑いをした。
「そっかー。軽音部だっけ?見つかるといいね、あんたのお父さんの曲の良さを分かってくれる人」
「どうなんでしょうね、ハートポスト事態10年以上前のバンドですから」
「私はよく聞いてたけどなー。当時なら有線で、よく流れてたよ」
それだけ世間に受け入れられてきた彼らも、一夜にして0になった。肯定は一瞬で否定に変わる。その逆の難しさを、私は知っている。
「私は一人でも歌いますけどね。ずっとモヤモヤしてるんです。私は、何で歌うのかな?って。それがわかんない以上、あのギターは手放せません」
「いいねー。それがあんたの青春になるのかもね。ロックじゃん」
どこかで聞いた言い回しを残して、碧さんは夢歌を起こしに行った。
青春って何だ。ギターを背負い、新しい学生鞄を持ち、周りから見たら青春の桜並木を、ただ歩いた。学校にたどり着くまでに聞いた曲の中には、昨夜頭を過った歌詞は無かった。