覆面調査員
背広の内ポケットには、ニセモノの名刺が入っていた。
本職は別にある。私はグルメ本の覆面調査員だ。本当の正体を隠すためには、「ニセモノの名刺」なんてものが必要になる。
もしもの場合には、この名刺を使って対処することになっていた。これに載っている電話番号は、アリバイ工作などを請け負う会社につながる。身元を偽るのに協力してくれるのだ。
さて、今回の調査対象は、ドーム球場内にある店だ。本部で読んだ資料によれば、かなりの人気店らしい。
今からそこに行って食事をし、その味を正しく評価してくる。
ただし、覆面調査員であることを、店側に気づかれてはならない。
こちらの正体に気づくと、他の客にはしないようなサービスをして、点数稼ぎをしてくるかもしれない。そういった行為は、正しい評価の妨げになる。
だから、できる限り目立たないように行動すべきだ。店側に正体を悟られずに正しく味の評価をしてこそ、一流の覆面調査員。
数分後、私は店の前に到着した。
と同時に察する。
その場をすぐに離れると、本部に連絡した。
「この店の調査は、私には無理なようです」
理由も伝える。若い女の子たちがたくさんいるのだ。というか、女の子たちしかいない。そういう客層の店なのだ。
どうやら、本部の事前調査が不十分だったらしい。この店内で、自分のようなおっさんが一人で食事をしていれば、嫌でも目立ってしまう。
「わかった。その店の調査は、他の者に任せよう」
「それでは、本部に戻ります」
「いや、その前にやってもらいたいことがある」
次の調査員のために、客たちの服装をチェックしてくるよう指示された。若い女の子の服装といっても色々ある。
私は再び店の正面へと移動した。
(えーと、プロ野球のレプリカユニフォームを着ている子が多いかな)
きちんと確認しておいて良かった。もしも次の調査員が、たとえばビジネススーツ姿で来店していたら、さぞや目立っていたことだろう。
この感じだと、レプリカユニフォームを着てくるのが良さそうだ。
(どの背番号が多いのかな)
さらに調査を進めていると、女の子たちがこちらをじろじろ見てくる。
まずいと思って、急いで立ち去ろうとしたのだが、どうも様子がおかしい。いったん足を止めて、店内の様子を探ってみる。
女の子たちの視線は、「変なもの」を見ているようではない。どちらかと言うと、目を輝かせているような・・・・・・。
その理由はすぐに判明した。
「あれ、ヘッドコーチだよね?」
「あ! ホントだ!」
複数のテーブルからこちらに向かって、女の子たちが笑顔で手をふってくる。
ここを本拠地にしているプロ野球球団、そのヘッドコーチに、どうやら私はとても似ているらしい。
だったら、それを利用しよう。
女の子たちに愛想笑いを返しながら、私はその場を立ち去った。
近くにあった球団のオフィシャルショップに入ると、そこの店員さんも、さっきの女の子たちと同様の反応をしてくる。
私は背番号の入っていないレプリカユニフォームを買うと、
「試合前なのに、ユニフォームにコーヒーをこぼしちゃってね」
そんな冗談を言って、ヘッドコーチの背番号をつけてもらう。
店員さんが作業している間に、私は本部へ電話をした。
「・・・・・・して欲しいんですが」
電話を済ませてからしばらくすると、背番号の縫いつけが終わった。
さっそくレプリカユニフォームに着替える私。
そのあと少し時間をつぶしてから、調査対象の店へと移動した。
今度は堂々と入店する。
予想していたよりも大きな歓声が起きた。
このヘッドコーチのことは知らないので、とりあえずバットを軽くふるジェスチャーをしてみる。さらに歓声が大きくなった。
で、私は食事を開始する。
これも仕事の内だ。
料理を半分ほど食べてから、別のテーブルの一つに、素早く視線を送る。
一人の女性が食事をしていた。レプリカユニフォームを着ている。私のすぐあとに来た客だ。
彼女も覆面調査員。本部に頼んで急遽、派遣してもらった。
作戦は、こうだ。
こっちが囮になって、周囲の視線を引きつけておく。
その間に、彼女が店の味を評価する。そんな役割分担だ。
これなら、彼女の方は目立たない。覆面調査員の仕事には、このような機転も必要になるのだ。
ところが、本部に戻ったあとで、私は衝撃の事実を知ってしまう。
「えっ? この店じゃない? 調査対象なのは別の店・・・・・・」
私が一流の覆面調査員になるのは、まだまだ先のようだ。
次回は「野球場の看板」のお話です。