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萩原朔太郎詩集より 「閑雅な食慾」

作者: 夕月夜

「閑雅な食慾」萩原朔太郎


松林の中を歩いて

あかるい氣分の珈琲店かふえをみた。

遠く市街を離れたところで

だれも訪づれてくるひとさへなく

林間の かくされた 追憶の夢の中の珈琲店かふえである。

をとめは戀戀の羞をふくんで

あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組

私はゆつたりとふほふくを取つて

おむれつ ふらいの類を喰べた。

空には白い雲が浮んで

たいそう閑雅な食慾である。



引用:青空文庫より




**********


ある日の昼下がりのこと。青空の下、僕はとある場所に向かってひたすら足を動かしていた。

街は同じように外出している人々で賑わっていた。カップルや家族、友達と連れ立って、皆一様に楽しそうな笑みを湛えている。きっと、春めいた陽気がそうさせるのだろう。

そんな人たちを横目に、僕はただ先へ先へと進んでいく。

人とぶつかりそうになりながら大通りを抜け、さらに進んでから小高い山の方へ折れると、一気に人がいなくなる。

そこで僕は少し立ち止まり、安堵の息を吐いた。

やっぱり、人混みは苦手だ。

心の中で思わずそう呟いた。人前に出るのが苦手な僕は、人の視線が溢れかえる人混みに行くとどうしても神経が張り詰めてしまい、とても疲れる。

そんな苦手な場所とはいえ、目的地に行くためにはどうしても通らなければならなかったため、覚悟を決めて通った。しかし予想以上に人が多く、それゆえに受けたダメージも大きかった。

今回大通りを通ることで、人混みへの耐性も少しはつくのではないかという期待があったが、結果は残念なものに終わった。

しばらく立ち止まって心を落ち着かせてから、再び足を動かし始めた。

木々が密集する方へ進んでいくごとに、道は細く狭くなり、すれ違う人も少なくなっていく。終いには生い茂る草木のために、道が見えなくなった。

それでも、僕は歩みを止めずにひたすら突き進む。

一歩一歩地面を踏みしめるたび、足元でガサガサという音がする。時折、クシャッという音が混ざるのが、自分の中で密かな楽しみだった。

今の季節は冬と春の境目であるため、枯葉が多く落ちている。その枯葉を踏んだ時の音が、僕は堪らなく好きだった。

さらに奥に進むと、周囲に松の木が増え始め、気がつけばあたり一面に松の木が生えている場所に出た。

ここまできて仕舞えば、目的地まであと少し。

その頃には、人混みでささくれた僕の心は、随分穏やかになっていた。きっと、耳に届く木々のざわめきや鳥の囀りのおかげだろう。やはり、自然は良い。

数分後、ようやく目的地に到着した。

時計を見ると、最初に歩いた大通りにいた時から1時間以上経過している。

少し疲労感はあるが、これから心置きなく休憩をすることができるので、全く問題ない。

土埃を軽く払ってから、『追憶珈琲店』という文字がぶら下がる扉の取っ手を握り、勢いよく開いた。

チリンという軽快なベルの音と同時に、ギギ……という木の軋む音が耳に飛び込んでくる。

中の様子を見てみると、いくつか置かれているテーブルと椅子には、誰の姿も見当たらなかった。

どうやら、いつも通りお客は僕だけのようだ。

そう、ここは松林の中にある珈琲店(カフェ)。コテージのような見た目をしており、中も木に囲まれた落ち着いた空間になっている。床には小豆色の絨毯が敷かれており、照明もオレンジ色であるため、訪れた者に温かな印象を抱かせる。

また遠く市街に離れた場所に位置するため、訪れる客はおらず、喧騒も耳に届かない。

そこが気に入り、いつからか僕の隠れ家的存在になっている。

「いらっしゃいませ」

入り口付近に突っ立っていた僕に声をかけたのは、ここで給仕をしている一人の少女だった。心なしか、その頬はほんのり色づいている。

僕は少し俯きがちに、少女に話しかけた。

「いつもの席、大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫ですよ。お水をお持ちしますから、どうぞ座ってお待ちください」

許可を得て、僕はやっと疲れた身体を椅子に沈めた。

椅子は硬すぎず柔らかすぎず、良い具合の硬さで僕の身体を支えてくれる。

その側には、これまた高すぎず、低すぎないちょうど良い高さの丸いテーブルが置かれており、読書をするにも、書き物をするにももってこいだ。

出迎えてくれた少女が運んできた水で喉を潤してから、メニューを見た。

基本的に僕が頼むものは決まっているのだが、来るたびに異なるケーキがラインナップに加わっているため、それを確認した。

今日のケーキは、酸味の効いた瀬戸内レモンのチーズケーキらしい。

口当たりのさっぱりした、クリーミーかつふわふわなその食感を想像し、食後に絶対注文しようと決める。

「ご注文はお決まりでしょうか」

ちょうど、少女がオーダーを取りに来たので、すかさず注文をした。

「珈琲とオムレツ、それと、食後に今日のケーキを」

僕の言葉に合わせて、少女はサラサラと筆を走らせてオーダー表に文字を書き込んでいく。その手元は流れる水のようで、いつも見入ってしまう。そしてその動きが突然ぴたりと止むと、顔を上げる少女と視線がぶつからないよう、目を逸らすのだ。

「かしこまりました。ただいま珈琲をお持ちいたします」

一礼をした少女は、くるりと背をむけ、席から離れていった。

しばし、静寂が訪れる。

僕は特に何をするでもなく、窓から見える緑を楽しんでいた。

こうして窓際の席で頭を空っぽにするのが、僕の何よりの休息だった。ぼーっと木々を眺めていると、時折鳥が降り立ち、挨拶をしてくれる。その姿が愛らしく、疲弊した心身が軽くなるのを感じた。

それからしばらく、外の景色を見入っていた。店内の静寂も、風がたてる音も、店内の内装も意識の外へ追いやられ、僕は硝子一枚を隔てた外の自然と対話していた。

そのため、カチャンという音がして初めて、少女がすぐ近くまで来ていたことを知った。

「随分集中なさっていましたね。今日は何をご覧になっているんですか?」

チラリと見た少女の頬は、来たときと同じく、頬がほんのりと赤いままだった。視線を窓の外へ移し、僕は静かに答えた。

「自然を、見ていました。今日は春のような陽気で、世界が薄黄色く、鳥も、木々も、空も気持ちよさそうなので」

僕の言葉に、彼女もその美しく澄んだ瞳を窓の外へ向けた。

「確かに、そうですね。いつもより、ずっと……ずっと、綺麗に感じます」

そう言い終わるとすぐ、彼女は一つに纏めた髪をサラサラと靡かせてカウンターへと戻っていった。

少女の姿が奥へと消えるまで見届けてから、僕はまた硝子の外に広がる青空を眺め始めた。

空には、一羽の鳶が舞っている。その姿を見つめていると、ピーヒョロロロという悲しい声が耳元で聞こえた気がした。

テーブルに置かれた珈琲を飲みつつ、食事が運ばれてくるのを待ちながら、緑を楽しんだ。

しばらくすると、香ばしい匂いが僕の鼻腔をくすぐった。

ああ、この匂いが漂ってきたのであれば……

そう思っているとき、銀のお盆を片手に持った少女が現れた。

少女は先ほどと同様頬を染め、さらに緊張した面持ちで僕のほうへ近づいてくる。

「お待たせいたしました。当店特製のオムレツでございます」

そう言いながら、銀製のお皿をテーブルに載せた。お皿の上のオムレツは鮮やかな黄色に彩られ、真ん中から鮮やかなソースが垂れ流れている。

さらに、横には大きく身がしっかりとしたエビフライが添えられている。

「あの」

僕が料理に見入っていると、少女が遠慮がちに声を発した。

「なんでしょう」

「今日は、私が料理を担当したんです。ゆっくり、味わってくださいね」

消え入るような声でそう呟いた少女は、先ほどとは違いバッと後ろを振り返って、そのまま小走りで去っていった。

しばらくは呆気に取られていた僕だったが、そのうち自分の心がじんわりと温かくなっていくのを感じた。

それから、テーブルに置かれたお皿に目を向ける。

未だ湯気が立ち上るオムレツとフライは、宝石のように輝いて見えた。

我慢できなくなった僕は、銀製のフォークを手に取り、一口食べてみた。

すると、ふわふわとした優しい卵とソースの爽やかな酸味が口内全体に広がった。自身の舌が、脳が、身体が、心が、喜んでいるのがわかる。

それは、単に好物を食べたから、というわけではないことは明白だろう。

だからあえて、口に出すことはしない。

僕は一口一口噛み締めながら、ゆったりと、残りの食事を楽しんだ。

その時窓の外の空に浮かんでいた雲は、白くふわふわと、嬉しそうに見えた。僕の今の心を体現しているかのようだった。

大層閑雅な食事、大層閑雅な食慾。

最後の一口を食べ終えた僕は、満ち足りた心地で椅子に体重を預けていた。

それからどれぐらい経っただろうか、気がつくと陽は西に傾き、空に茜色が混ざり始めていた。

「あれ……僕は、寝てしまったのか」

まだぼやける視界であたりを見回すと、そこにはよく見慣れた僕の書斎が在った。窓は開け放たれており、カーテンがゆらゆらと踊っていた。

何か幸福な夢を見た気がする。十分に機能しない頭で必死に思い出そうとするが、薄い幕がかかったようで、結局思い出すことはできなかった。

椅子に座ったまま、うーんと伸びを一つした。そうすると、段々視界も明瞭になっていった。

ふとテーブルの上に視線を向けると、読みかけの本と珈琲、そしてお皿に盛られた一切れのケーキが置かれている。

こんなもの置いたっけ。

そう思いつつも、そのケーキの味が無性に気になったので、添えられていた銀製のフォークを手に取り口に運んだ。

「レモンの、チーズケーキ」

口に含んだ瞬間、チーズのまろやかな甘味とレモンの爽やかな酸味が口内に広がっていく。その優しい味わいに、自然と頬が緩んだ。

何口か食べたところで、ふと頭の中に、ほんのり赤く頬を染めた誰かの顔が浮かんだ。

性別も何もわからなかったが、不思議と心が温まるのを感じた。

「ああ、今日は本当に気持ちが良い」

頬に柔らかい風を受けながら、木々の向こうに沈んでいく太陽を眺める。

最後の一口をゆったりと味わってから、テーブルの上の小説をパタリと閉じた。



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