【SSコン:穴】 穴
穴である。終わりの見えないような、とか、ありふれたことしか言えない穴である。そんな、つまらないありふれた穴が僕の頭の中にあった。
こんなことがあった。
妹がオムレツを焦がした。初めて作ったからだと、母と父は妹を慰めながら、美味しい美味しいと馬鹿みたいに連呼して食べた。僕もそうした。土のような食感のそれをスプーンで削るようにして、食べた。けれど、やっぱり、不味かった。僕も美味い美味いと馬鹿みたいに言って、食べた。そのオムレツは穴の中に捨てた。
気に入らないことがあった。
「こんな出来損ないの子どもを産むなんて、やっぱり年増は駄目だなあ」
親戚の男が酔っ払って、カニみたいに泡をぶくぶく吹いて笑いながら言った。僕はそのとき何も思わなかったが、母が泣いたので、渋々男を穴に落とした。
思い返してみれば、こういうこともあった。
幼い頃のことだ。妹が僕の作った工作を壊したとき、初めて穴に物が入った。
幼い僕はよく叱られた。そんな僕が母に褒められた最古の記憶が、この工作を見せたときであったと思う。何を作ったかはとうに忘れたが、褒められた記憶ばかりが残っている。
妹は反対によく褒められた。だから、僕が褒められたのが気に食わなかったのだろう。僕の作った工作の、手足のわりばしをもぎ、目玉のシールを剥がし、のりでくっつけたティッシュの箱の胴体とお菓子の箱の頭を潰した。母が叱っても、「しらない」の一点張りで、謝りもしなかった。
僕は泣きながら、穴に壊れた工作を放り込んだ。
◇
妹が僕の恋人を殺した。死因は知らない。とにかく、妹が僕の恋人を殺したのは確かである。女の嫉妬とは酷く醜いもので、恋人は見るに耐えない有り様にされていた。
母は泣いた。僕の恋人が死んだからではなく、妹が人殺しになったことで泣いた。
「どうしてこんなことを……」
そう言いたいのは僕の方だった。穴に、泣く母を埋めた。
父は妹を叱った。人殺しになったことではなく、人を殺したことで前科者になるから叱った。そんな父を、僕は心底軽蔑した。そんな男が僕の父であることを情けなく思った。
「裏の山に埋めよう」と言ったのは、誰だったか。僕だったかもしれないし、妹だったかもしれないし、父だったかもしれないし、母だったかもしれない。
「おい、おまえの恋人だろう。おまえが埋めてこい」
父が言った。そりゃないだろうと思った。
父の運転する車に、恋人の死体と、僕と、妹。二人きりでないだけ温情か。温も情も無い温情なんて、温情と呼ぶのか知らないが、とにかく優しさだったのだろう。
恋人は、生きていた頃のような愛らしさは無く、個性の無い女の死体になっていた。女である。しかし、それだけだ。生を無くした人というものは、その人ではもう無いのだと今更ながら気付いた。
隣にある死体の体温は無い。氷のように凍てついた身体は、力も無くし、四肢はだらんと下がって、されるがままになっていた。父が乱暴に扱ったものだから、手足には無数の擦り傷が刻まれていた。死者を冒涜するにも程があるが、これはあまりにも酷かった。
車が山奥に向かっていくたび、父と妹の口数は増えていった。特に、妹は他愛のない冗談や世間話をしたがったし、どんなに相手にされなくても黙ることはなかった。二人は会話をするというより思い思いに独り言を呟いているようだった。会話は成立していなかったし、させる気もないように思えた。
「兄さんは、その人のこと嫌いだった? それとも好き?」
妹のその質問に僕は答えなかった。恋人を殺した張本人と言葉を交わしてたまるものかとさえ思っていた。肉親であったからこそ、更に憎く思えた。
「つまらないの」
つまらないか。つまらないで済ませるのか、お前は。もはや、死んでくれとも思う。何故、死んだのがお前ではないのか。そう言いたかった。だが、父の手前、言葉として出すことは無かった。
車が止まった。窓の外は、紺と藍に染まって、黒い枯れ葉や木々がはっきり見えた。
「おい、降ろせ」
父が言うと、僕は彼女を抱え車を降りた。
乾燥した空気が皮膚から水分を奪うのが不快だ。土の生臭さも不快だ。そして、なによりも、彼女の死体は軽いのにひどく重かった。それが一番不快だ。
彼女の死体を地面に横たえると、シャベルを土に突き立てた。枯れ葉が擦れ、崩れる音がする。土は嫌に固くて、何故こんなことをしているのだと逃げたくなった。
僕と父と妹で土を掘る。妹は「疲れた」と言って、早々に離脱した。
地表にどんどん土が積まれていく。その分、穴はどんどん深くなる。土にシャベルを突き立てるたび、土の悪臭が鼻を突いた。鼻をつまみたかった。けれど、両手にはシャベルが握られていて、とてもじゃないがそんな余裕はない。
掘り出したのは土だけではない。枯れた草、石、冬眠中の虫、焦げたオムレツ、白骨死体。そんなものを掘り起こした。
地表の土の山が妹の顔くらいの標高になると、父は、
「こんなものか」
と言って、僕に死体を穴の中に入れるよう言った。
恋人の死体を抱えると、途端に失うのが惜しくなって、「嫌だ」という言葉が口をついて出た。女を土に埋もらせることを人生の損失のように思えたのだ。
その瞬間、死体の目はぱっちり開いて、
「だから、あなたは駄目なのよ」
と乾いた唇を動かして、呟いた。
◇
恋人、いや、元恋人は、今度結婚するらしい。
「おめでとう」と伝えると、「そんなあなたが嫌いだった」と彼女は泣いた。
僕の穴には、女の死体が埋まっている。