四章:Intermission-present(6)
「砂川、高橋、滝……」
松原先生の単調な声が私たちの名字を順番に呼んでいく。呼ばれた生徒はそれに対してリズムを取るように返事をしていく。バックコーラスは密やかなおしゃべりの声だ。
基本的には途切れないということが全員問題なしということなので、そのままリズムを崩すことなく終わって欲しい。しかし、教室の中をざっと見回してみれば、それが不可能であることはわかる。
「三木――は欠席だな。茂木、森、柳井……」
空席のところで一度リズムが崩れる。崩れたが、松原先生は再開させ、またリズム取り戻す。しかし、リズムはもう一度崩れてしまう予定だ。
教室の一番後ろである私の席から最も遠い席に座る、背の小さな彼女が見あたらない。実はたまにその小ささ故に人影に隠れて見えないときもある――怒るのが目に見えているので本人には内緒だ――のだが、横からのぞき込んでみても今日はその席は確かに空席だった。
メールを打ってその理由をきこうとも一度は考えたが、それは一時保留にした。今はそれどころじゃない可能性もあるからだ。というよりも、今までのことを考えるとそっちの方が有力だ。
「柳沢、湯本、よし――」
「セーフッ!」
リズムが崩れる予定の時間は少々前倒しされた。松原先生を含め、今教室内にいる全員がその声を発した彼女の方を見た。ほとんどの生徒は見たのは一瞬で、どちらかというとその大声に驚いて振り向いてしまった人が多い。後はいつもの通りなので、みんな興味を失って元のおしゃべりやらなんやらに戻った。先生は小さくため息をつき、私たちにもわかりやすく、明らかに見せるために出席簿に斜線を引いた。
「あー!」
息を整えていた彼女はその動作を見て先に劣らぬ大声をもう一度あげた。先生はその姿を見て彼女の名字を読み上げた。
「芳野」
「はいっ!」
芳野と呼ばれた彼女、千晴は幼い子のように右手を大きく挙げ、返事を返した。
「……芳野」
「はいはいっ!!」
呆れ混じりの声に対して精一杯、決して何も他意が混じってない純粋な返事を返す。
「返事を求めてるんじゃない。これは出席の確認じゃない」
「そんな、先生! 次は千晴の番です! 出席番号三十七番の芳乃千晴の順番ですっ!」
次に先生の口からでた言葉を聞いた途端、彼女の手はがくっと下がることになった。
「おまえは遅刻だ」
「な、なんで!?」
「『なんで!?』じゃない。SHRの開始時間に着席していないやつは遅刻なんだよ」
「そこをこの頑張りに免じてなんとかっ!」
「竜崎」
「はい」
「ああっ!」
千晴の申し出はあっけなく取り下げられ、残り数人の出席を取り終えた先生はいくつか伝達事項を伝えた。こうなったら松原先生はもう取り合ってくれないことがわかっているので、千晴も黙って一番前の席に着いた。
「三木は風邪らしいぞ。みんな夏風邪にならないように注意しろよー」
先生は一段高い教壇からぐるっとみんなの顔を見回し、最後に千晴を見た。
「芳乃は今から職員室に来ること、以上!」
「ええーっ!」
そのかけ声とともに生徒は思い思いに動き始めた。よくよく見てみれば、何人かは千晴を見てくすくすと笑ってもいる。千晴の遅刻はもはや定番となり始めた朝の恒例行事だったが、職員室に呼ばれたのは初めてだ。
「うあー、どーしよーゆーちゃーん!」
「どうしようもないでしょ、ほら早く行った行った」
「ああっ、ゆーちゃんが冷たいっ!」
千晴は素っ気ない友人の態度に泣く真似をしながら駆け足で廊下へと走っていった。
「あれじゃ先生も大変だね」
圭織が話している私たちの横から首を出した。その手には鞄を持っている試験前の重量のある鞄を移動教室の度に持ち歩くのは大変なので、ロッカーに一部をしまうのだろう。ほかにも何人か同じことをしている生徒がいる。
「ほんと、ちーは松原先生の親切心をわかってないね」
「親切心?」
疑問に思った私が聞き返す。
「ほら、松原先生って千晴ちゃんの遅刻、結構な頻度で見逃してくれるじゃない?」
「ああ……」
確かにそうだった。一昨日あたりの遅刻には目をつむってくれたはずだ。
「あれね、ルールがあるんだよ。たぶんだけど、出席確認で名前を呼ばれる前に入ってくればセーフなんだけど、それが累積三まで行くと遅刻一」
「な、なにそれ」
「一年の時から見てる私の見つけた法則」
私と圭織は吹き出した。つまり、圭織は少なくとも祐子がその法則を見つけられるくらいそのぎりぎりの遅刻を繰り返しているのだ。
「あ、戻ってきたみたい」
教室のドアを見ると、ふらついた足取りで千晴が戻ってきたのが見えた。
「ちー、松原何だって?」
千晴は祐子の問いかけにうなだれた。
「『おまえ、森にちー、ちーって呼ばれてるけどそれは遅刻のちーか?』だって」
私と圭織はまた小さく吹き出した。
「松原にはばれてたか……」
「ええっ!? そうだったの、ゆーちゃん!?」
本気で動転する千晴に対して、祐子はあまり見せない笑顔を見せた。
「嘘々。ちーは千晴のちーだよ」
「そ、そうだよねー。よかったぁ……」
私たちは安心した風な千晴を見て全員で笑った。そこでひと段落ついたので、私は鞄の中からノートを一冊取り出した。
「あ、千晴、圭織、これ」
「ん、何これ?」
「あっ、もしかしてこの前言ってたノート?」
「そう。まだ世界史と古典のぶんだけだけど、早い方が良いかと思って」
勉強を圭織や千晴、愁也君に教えるに当たって、解く問題形式である数学や化学、物理、英語などは直接教える必要があったが、覚える問題形式である世界史、日本史、古典などでは直接教える必要がない。どちらかというと、重要なところをわかりやすくおさえたノートが重要になってくる。
それでこの前の私の家での勉強会の時から私は理系文系の共通授業の内容を整理したノートを作っていたのだ。祐子ではなく私がやったのは単なる負担の問題だ。祐子は千晴と愁也君の二人、私は圭織の一人。祐子は『理系は教える教科が多いから』と言って均等に分担しようと言ってくれたが、私は『自分の勉強にもなるから』と言ってその大半を引き受けた。私は勉強する必要がないために、良い暇つぶしにもなっていた。
暇つぶしと言えば、それとは別にもはや暇つぶしの域を越えて困難なこととなっているノート作りもあるのだが。
「ありがとね、由里ちゃん」
そう言って受け取ろうとする圭織の手がノートに触れようとする前に、ノートは私の手から消えた。
「ふっ、ふっ、ふっ。甘いね、カオリン。ノートは一冊、私たちは二人。これはティーチャー・ユリリンズノートをかけた争いだよっ!」
にんまりと圭織に笑いかける千晴。その頭に丸められた一冊のノートが当てられた。
「だからちーはバカなの。それじゃ由里が勉強できないでしょ。愁也君もそのノート欲しいだろうし」
「ああっ! 確かに! ゆーちゃん、何か策は!?」
「コピーすりゃいいでしょ。ほら、これ日本史まとめた分。全部人数分、四枚ずつコピーしてきなさい」
そう言って祐子は千晴の頭を叩いたノートを千晴に渡す。
「な、なるほど……さすがゆーちゃん。では、行ってきます!」
そう言って千晴は私のノートを持った右手を額に当て、踵をあわせて敬礼の姿勢をとった。そのまままた走って教室を出ていく。
「あっ、千晴ちゃんっ! 今行ったら遅刻しちゃう……」
圭織の忠告むなしく、千晴は勢いよく階段をかけていった。途中で気づいて戻ってきたようだったが、一限目の古典の時間には遅刻し、我がクラスの古典担当、松原先生にまたこっぴどく怒られるはめになった。