四章:Intermission-past(10)
私は自分の部屋へと戻ってきた。駆け足でここまで来たので、息は切れ、うっすらと汗も出始めていた。別に急ぐことはなかったが、彼があれだけ急いで何かをやっているのに、私だけのんびりと部屋に戻ることにちょっとした違和感を覚えただけだ。
部屋のカードキーをポケットから取り出すと、そこには黄色い文字で緊急連絡と書かれていた。このカードキーは機関内の情報伝達にも使われている。何か連絡を受け取ったときには小さく振動するように作られているのだが、走っていたので気づかなかっただろう。私はそれを指で軽くタッチする。自動で指紋が読みとられ、カードキーいっぱいに文字が広がった。発信者は機関の教育部門で、内容を読むと、どうやら彼の授業が急遽休講になったことの連絡らしかった。理由は急用のためとされ、彼の研究室及びその研究棟への関係者以外の出入り禁止とも書かれていた。
――しまった。
これじゃもう入れない。どうしようかと思案しているうちに、カードキーが小さく震えだし、連絡が入った。今度は文字は普通の黒文字だった。同じように開くと、発信者は彼の研究室だった。そこには私を関係者の一人として登録しておいたということと、部屋に入る際のパスワードが表示されていた。
私は安心し、カードキーをドアのよこにある読取装置に読み取らせ、部屋へと入った。
私は部屋に戻るなり持っていた鞄をベッドの上に投げ捨てた。彼の理論の授業のために重い教科書が入っていたが、ふっくらとした布団が翻り、音をたてることなく鞄を飲み込んだ。紙の教科書を使っているのはいまどき彼くらいだ。他の人はみんなかさばるから、電子データでないと色々と不便などと言い、紙自体を使うことが少ない。しかし彼自身にはこだわりがあるらしく、彼の授業の教科書も、彼の研究室の書類も、紙が多い。それは彼の部屋や研究室に入ったときの紙の本の多さからしてもわかる。何でも、彼曰く『紙も不便ばかりでない』『何よりめくる感覚が捨てられない』らしい。
とにかく、彼の教科書は紙の本なのだ。しかも膨大。だから重い。だから、使わないのなら好き好んで持ち歩くことはない。さっき、一度部屋に私が戻ったのもこれを取りに戻る必要があったからである。彼に言うとがっかりしそうなので言えないが。
なので授業がないと決まった今、彼の部屋で研究の完成を待たせてもらうからといってあれを持ち歩く必要はない。私は部屋にかけてある小さめな鞄を手に取り、いくつか必要なものを詰め込んだ。そして、引き出しを開け、さっきも取り出した、ラッピングされた小さな箱を取り出した。それは彼の研究への完成祝いのペンダント。彼の研究の完成が近いことを彼からさりげなく聞き出した時に買ったものである。それは私の一度の手当のほぼ全てを吹き飛ばすようなものだったが、後悔はなかった。それに、今ではこれ以上ない絶好の機会だと思っている。彼も言っていたように、もうそろそろ私たちには真剣に言葉に、他人から言われているだけではなく、自分達自身の言葉で確認しあうということが必要なのだ。このプレゼントは、きっと恥ずかしがる私の背中を押してくれるに違いない。
私はそれを柔らかくぎゅっと握りしめ、鞄の中に潰れないよう丁寧にしまいこんだ。そして部屋から飛び出し、また走って彼の研究室に向かった。
彼の研究室に着いた私はカードキーを読取装置に通し、複雑で長いパスワードを入力した。一度間違ってしまったことは彼には内緒だ。わざわざ自分からかわれるようなしない。
「失礼します、スウォンです」
声をかけながら中に入ると、そこはすでに戦場と化していた。飛び交う怒声に複数のコンピューターが電子音を鳴り響かせ、控えめに発した私の声は誰にも伝わることはなかった。部屋中の壁という壁にはメモ書きや計算式の書かれた紙がピンやテープで張られ、磁石などでとめられている。コンピューターに備え付けられた複数のモニターを覗いてみれば、私の反射速度でもギリギリでしか追いつけていけないくらいの速度でスクロールされ、私には理解不能な演算を行っていた。研究員の人たちはと言えば、部屋の中を走っていたり、立って何かを読みながら呟き、空いている方の手ではキーボードをモニターも見ずに打っていたり、尋常ではなく忙しそうだった。それに、パッと見たところさっきいた全員がここにいるわけではない。きっと、この研究棟の中を今も走り回っているのだろう。
とりあえず、誰かに来たことを伝えなくてはならない。しかし、さすがに私もこの中でこの喧噪に張り合って大声を出すような勇気はなく、床に落ちた様々なものを避けつつ、彼を捜しに部屋の中へと進んでいった。すると走り回っていた研究員が私の姿を見つけ、その動きを止めくれた。
「ああ、スウォンさん。主任から聞いてますよ、『奥の部屋で待っていて、何をしててもいい』とのことです」
「はい、大変そうですね」
「はい、申し訳ありませんが主任には今は話しかけないでおいてください。では私はこれで」
私は率直な感想を口にした。その研究員は、それは見たとおりだと言わんばかりに止めていた足を再び動かしながら言い残していった。そのときにチラッと彼の方を向いたので、彼の居場所はわかった。彼は部屋の隅で膨大な量の紙や本と格闘していた。せわしなく動く目や手を見る。その真剣な横顔を見て、私は邪魔にならないように奥の部屋へそそくさと入った。
一時間ほどがたった。私はそれまでソファに座ってじっとしていた。『何をしててもいい』と言われてこうして一人でここにいても、この知的な部屋で私がすること特に見つからなかった。考えることは大量にあったのだが、そのどれにも答えが見つからなく、次第に何か体を動かしたくなってきていた。
とりあえず、私はお茶を淹れることにした。私も、彼ほど巧くはないが、人並みには淹れることができる。よく考えれば、表で忙しく動いている人たちために私が唯一できそうなことだった。しかし、彼の淹れたお茶を飲んで以来、自分でお茶を淹れることなんてなかったため、意外と手間取ってしまった。そしてお盆に載せて静かにドアを開くと、そこはさっきとは裏腹に静かになっていた。部屋の中を見渡すと、研究員が一人、椅子に座ってコンピューターに向かっているだけだった。
「ああ、スウォンさん」
「みんなはどうしたんですか……?」
「主任に連れられて実験室の方にきました。私はここでデータの受け取りを兼ねて留守番です」
実験室。となれば、理論自体は完成したに違いない。それで、その実証をしに行ったのだろう。
その時、私のポケットと、研究員のポケット、その両方から大きな音が鳴り出した。そして、ポケットの中が大きく震え出す。私は反射的にお盆を片手で持ち、ポケットの中からそれを取り出した。研究員の方も、同じようにしている。
取り出したのはカードキー。何か連絡があれば、小さく震えて黒文字で概要が表示される。緊急の連絡があれば、目立つように黄色い文字で表示される。そのどちらの場合でも、このカードキーが音を発することはない。しかし、今二人でカードキーをポケットから取り出した瞬間、その音は明らかに大きくなり、そしてそんな遠回しな言い方をせずとも、音の発信源がこのカードキーであることは間違いなかった。このカードキーが音を発することができるのも、それがどんな場合かも知ってはいた。しかし、聞いたことはなかったし、聞きたくなかった。
その表示されたことの意味を理解する前に、それが文字だとわかる前に、まずは色が脳に情報を伝える。そこには黒ではなく、黄色でもなく、より目立つ赤、人の脳に危機を最も抱かせる赤い文字が全面に広がっていた。そして、それは指をタッチさせて指紋を読み取らせることなく、すでに用件が表示されていた。発信者は機関、そしてその後には連絡や通知でなく、命令の二文字。すなわち、至上命令。その内容を知るなり、私はそばで止める研究員の制止を振り払い、駆けだしていた。
命令:第一実験室で事故発生。それに際して、研究棟への出入りを禁止。残る者は全員、緊急時の所定の動作を終了後、実験室を避けて研究棟から避難。十分後には研究棟の完全封鎖を行う。