四章:Intermission-past(7)
「……プライド?」
彼が言い残した言葉を呟き、その意味を考える。
――プライド、維持、誇り……。誰に対しての? そもそも何が? 私とだけは他の人と別の戦い方をすること。いや、私に勝つこと……?
そのまま手に持ったカップが空になるまで答えを探してみたが、わからなかった。それよりも今は頭を休めるべき。そう判断して、私もその席を後にした。
私は自分の部屋に戻り、固いベッドに敷かれたふかふかな布団の上に寝ころんだ。普通、部屋を割り当てられた時に布団なども一緒に支給されるが、私はそれを断って最初の手当でまず布団を買った。私にとって布団の上というのは体を休める場であり、また、何かを考える場でもあった。とにかく、部屋の中で最も重要な場所と言ってもいい。疲れて帰ってきた時、荷物を放り出して飛び込む時、何か嫌なことがあって飛び込む時、何がなんだかわからなくなって、飛び込むとき。そうした時に飛び込んだ先があの固い固い支給品の布団だったら……私の人生の快適度は二十%減だ。
実はその時、丁度今と同じように手当を支給日から間もない内に使い果たしてしまい、お菓子屋さんの前でうろついていた私が彼に声をかけられたのが今の関係の始まりだったりもする。
「うーん、やっぱりめんどくさい……」
次の授業は転移や化け物、能力の理論の授業だった。私はこの授業が苦手だった。どうこうなってこうなると言われても、実際にそれを目にすることができない、体で表現できないというのがピンとこない。逆に彼はこの分野が得意だった。なんたって教官は彼。この分野において彼は最先端の研究を行っている。何やら、もう少しで新たな理論が完成間近らしく、最近は研究に根を詰めている。
未だ発展し続ける能力についてはまだしも、すでに転移と化け物に対しての理論は最初にこの技術を手にした世界が完成させたものと思っていたが、実はそうではないらしい。詳しくは聞いてはいないが、なにやらもっと突き詰めていけば化け物の出現する世界のコントロールやら、転移方法の安定化など、さらなる可能性があるということだ。
そして一つ付け足しておくとすれば、この授業は選択制で、別に必ず受ける必要はなかった。それなのに何故嫌いな私が受けているか。その辺りの理由の一つにはやはり能力を使いこなすには理論からの理解が最適、というのがある。ただし、それだけなら休憩時間に自習してもどうにかなる量ではある。まあ、残りの理由の大部分は察してほしいというところである。
今頃その授業の準備をする彼のことを考え、私は立ち上がって小さな引き出しを開けた。そこからラッピングされた、手のひらに乗るような小さな箱を取り出す。私の手当一回分に相当する金額のものが中に入っている。
私はそれを元の場所にしまい、少し早かったが鞄を持って次の授業の教室まで向かった。
教室には誰もいなかった。次の授業まではまだまだ時間があるのだから、当たり前と言えば当たり前のことである。結局のところ、早く部屋を出すぎたということだ。それをわかっていてここに来たのだけれど、特にやることはなかった。予習……というのは却下。その後も色々と候補が浮かんだが、どれもしっくりくるものはなく、結局はその教室の隣に備え付けられた研究室へと足を運ぶことにした。
小さくドアを二度叩き、彼の返事を聞いて静かに、ゆっくりと横開きのドアを引いた。ドアを開けてまず目に付くのは壁一面に広がる、日程表や注意事項などの多くのメモに埋もれたメッセージボード。私には到底わかりようもないような語句が半分ほどを埋めるそれは無視して、左右に視線を振った。右側には達筆な字で書かれた高度な計算式などが並べられた書類が広がっているデスクが、そして左側にも同じデスクが置いてあり、そこには隙間なく埋めるコンピュータが置いてあった。
デスクの周りでは数人の人々がせわしなく動き回っている。その人たちの邪魔にならないように足を進め、すれ違いざまには一言だけ挨拶を交わしていく。最初は嫌な目で見られたときもあったが、今はみんな親しげに笑って答えてくれる。
さらに部屋の中へと進んでいくと、その歩いてきた方の壁側には古びたものからやや新しいものまで揃った書物が並べられている。
私にとってはこの施設の中で最も場違いな場所かもしれないが、見慣れてしまった空間がそこにはあった。そして、その先にあるもう一枚の扉が開かれ、彼が姿を現した。
「スウォン、どうしたの」
「ううん、別に用は。暇になっちゃったから来ちゃった」
私はもう一度動き回る他の研究員の姿を見て、気がかりなことを聞いた。
「もしかして邪魔だった?」
授業前だからやることといっても授業内容のまとめだとか、大したことではないと思ったからこの研究室に訪れては見たが、この様子を見るとなんだかみんな忙しそうな様である。もし邪魔になるのならさっさと帰ろうと思っての質問だった。
「ああ、これね」
彼は苦笑して言った。
「ただのデータの整理だよ。ちょっとサボっている間に溜まっちゃって」
ただのデータの整理と言っても、私と気楽にお喋りしながらできる内容ではないだろう。部外者が度々視界の端に入るのもうっとおしいことだと思い、私は教室の方に戻ろうとした。
「じゃあ、邪魔になるから戻るね」
「ん? 奥の部屋でなら少し話せるけど」
予想外の答えが返ってきて、私は返答に困った。答える代わりに、周りにいる他の研究員に目を向ける。
「それじゃ他の人たちに悪いし」
彼が私とお話をしてしまうということは、彼だけが仕事をサボることになる。
「それがね、邪魔だからって向こうに閉じこめられてたところなんだよ」
その不可解な彼の言葉に研究員の一人が付け加えた。
「主任がデータの整理をし始めるとですね、なんだかそのデータを検討しはじめたり、手を加えたりしてむしろデータが増えるんですよ」
その言葉に呆気にとられて彼を見ると、彼は苦笑して肩をすくめてみせた。
「こんな風にね、邪魔にされちゃうんだよね」
「……だめじゃん」
「人はそれぞれ特性を持っていて、それを脱することができない」
彼のいつものあれである。私は他の研究員の代わりにため息を吐き、彼の肩をつついて責めた。
「と、いうことで、主任は彼女と一緒に向こうの部屋で次の授業の準備でもしていてください」
そう言われながら私と彼は背中を押され、たちまちドアの奥に追いやられてしまった。
「ねえ、なんかさっきのさ、中途半端じゃない?」
彼がよく引用するどこかの世界の誰かの言葉。もうあそこの部屋にいた研究員も、私も、聞かされ飽きて覚え始めているくらいである。そして何か引っかかりを覚えたのだ。
「よくわかったね」
彼はにっこりと笑ってその続きを口にした。
「人はそれぞれ特性を持っていて、それを脱することができない。しかも、自分の特性のために、しばしば最も無邪気な特性のために、破滅するものが少なくない」
彼は言い終えると私に背を向けて部屋の奥へと進んでいった。私は更に呆れ、もう一つ大きなため息をついてそれについていった。