三章:欲しかったのは(27)
私は圭織の肩を抱き、無理矢理引っ張って教室を出た。右手にいる百足の化け物を一瞥し、その距離を確認する。
圭織の肩から右手を離し、左手の甲からナイフを抜いた。それを一番前の一本の脚めがけて投げる。そのナイフは吸い込まれるようにその脚の可動部分、節に当たる部分をきりさいた。百足は微妙なバランスを崩し、私たちが逃げる隙ができた。
私は百足の化け物のいるほうとは反対側に圭織を連れて急いで走った。階段まで来ると私は小さな青いドアを開く。そこにある非常用のシャッターを閉めるハンドルを回し、道を塞いだ。これだけではどれほどの効果があるかわからないが、とりあえず時間は稼げるだろう。
そのまま私たちは階段を降り、少し走ったところにある保健室に入った。
「由里ちゃん、さっきの話」
「とりあえず、傷の手当てをしましょう」
そういって私は棚の中から消毒液や包帯の入る箱を手に取った。本当は圭織の傷くらいなら私が能力を使えば一瞬で直るような軽いものだった。しかし、堅い体で物理的な攻撃が効きにくいであろうあの百足の化け物と戦うために少しでもエネルギーを温存しておきたかったのが一つ。そして、圭織に少し頭を落ち着かせる時間を与えたかったのが一つ。
それをわかってかどうか、消毒液を塗り、包帯を巻く間、圭織は何もしゃべらなかった。しかしその沈黙が気まずくもあり、私は圭織から目を反らしていた。
手当が終わり、圭織が小さく礼を言う。私もいつまでもこうしているわけにもいかないので、次にやることを決めた。
「この状況から逃げるためにあなたは私の言うことに従うこと、いい?」
ひとまずは圭織の安全を確保することが必要だった。この凍結し、隔離された空間内で安全な場所などあるのかどうかさえわからないが、圭織に傷を負わせることは防がなければならない。圭織を最も化け物から遠いところに置き、幾重にも壁や罠を張る。そこで私が囮になって化け物を引き離し、圭織への危険性を最大限に排除した上で戦闘を行う。それが圭織にとって最も安全な方法。それで決まりだ。
「まずはあなたを安全なところに連れていく。一人になるけど、罠などを仕掛けて防御は完璧にするから」
私は保健室のベッドに腰掛ける圭織の手を取り、引っ張ってドアに向かおうとした。
「…………いやだ」
しかし、私は立ち上がらない圭織にその手を引っ張られる。
「そんなことを言っている場合じゃ!」
「……いや」
「命がかかってるの!」
「嫌だっ!」
顔を上げた圭織の眼ははっきりと私のことを見ていた。
「そうやって一方的にまくしたてて、私には聞きたいことも聞かせてくれない。話したいことも聞いてくれない。それで安全なところにやるって。閉じこめるから、ってことでしょ。それじゃ由里ちゃんはどうなるの? 命がかかってるって、由里ちゃんの、自分の命は危なくないの?」
「私はあの化け物と戦えるように訓練も受けてるし、あなたたちからしたら信じられない不思議な能力も使える」
私は言い放った。できるだけ冷たく聞こえるように。
「でも、危険なことには変わりないでしょ? 由里ちゃんが危険なところに行くのを黙ってみてるなんて、その時に自分だけぬくぬくと安全な場所にいるだなんて耐えられない。何か、何か私にできることがあるはず。由里ちゃんが私のことを守ろうとしてくれているのと同じくらい、私は由里ちゃんを助けたい。そうやってお互いに思っているなら、二人が助かるのに最善の策をとるべきだと思う」
私はその言葉に動揺した。私は全てを打ち明けた。私は『神谷由里』ではないと確かに言った。なのに、ここにいる彼女はまだ私を由里ちゃん、と呼んでくれる。そして心配してくれる。助けたいと言ってくれる。
私は力を持っている。彼女を助けるだけの力を。彼女をどこかに閉じこめ、防御を万全にする。時空間凍結能力を使った今、それだけのことをしたらあの化け物への勝率は低い。でも、それでもそのときは私が乗り移られればいいと、そう考えていた。そうすれば機関は次をこの世界に派遣する。そしてその人が仕事を引き継ぐはずだ。
この体の元の持ち主『由里』には申し訳ないとは思う。化け物は元の体の持ち主との共存など望まないだろう。だから今、私の中に残る『由里』の知識や思考などもなくなるだろう。だが、私はそうしても圭織を守りたかった。
しかし、それが力を持つ私の傲慢だとしたら。私が圭織を助けたいからというのは言うならば私の身勝手。私の意見。そして圭織には圭織の意見がある。それを私が力を持つからと言う理由で無視することは許されるのか。意志を持てば、その意志自体が力を持つ。
冷静に考えれば、圭織がこの戦闘に協力してくれるというなら、その勝率は僅かだが上がる。積極的に圭織が動くというならいくつか方法も考えられるし、私が乗り移られずに死に、化け物が圭織をおそうという可能性もある。圭織の防御に当てるエネルギー、その状況を作り出すまでにかかる時間、リスクなどを考えれば、圭織の生存率も大差はない。そして二人が助かるための最善の方法。あるのは圭織の生存率を僅かでも上げたい、圭織だけは助かってほしいということと、圭織を戦闘に参加させたくないという単なる私の身勝手。
「私は、戦えるよ」
まっすぐと私を見つめる瞳。強く私の手を握る手。私の意志よりも強い意志を持った圭織を、私は否定できなかった。