三章:欲しかったのは(17)
――このことばかり考えていても、しょうがない。
いくら考えようが、検討材料が増えることはないし、凝り固まった今の私の頭が閃くとは思えない。何かをして一度気を紛らわせなくては。
私はそう思い、明日提出の歴史のレポートに取り掛かることにした。今の頭じゃいいものがかけるとは思わないが、やるしかない。
鞄を開け、筆記用具を取り出す。続いて資料と教科書を……。
無かった。三度確かめたが、見つからなかった。鞄の中身を全て出してみたが、やはりない。今日のことを思い出そうとするが、ほとんど何も覚えていなかった。ただ、歴史の授業が今日のあり、それをパラパラとめくりながらあのことを考えていたのは覚えていた。あの後机にしまい、あのままか。
重要なレポートでは無かったが、出せと提出期限を決められたものを出さないのもよくないし、何より何かやることが欲しかった。幸い、今から家を出れば閉門時間に間に合うだろう。
私は派手すぎない、むしろ地味な服を選んで着替えた。途中で制服を着ていこうとも考えたが、流石に着替えるのが面倒に思えた。
ママに学校に忘れ物をしたと伝えると、気を付けて早く帰ってきなさいとだけ言われた。
散歩代わりの気晴らしにならないかと期待していたのに、いつも行っている学校に行くのに頭を使うわけもなく、結局はあのことを考えてしまっていた。
そうこうしているうちに学校に着く。閉門時間ギリギリまで部活動をやってきた生徒たちとは逆に学校にむかうのはなぜか抵抗があった。
門の前の警備員に忘れ物を取りに来たと伝えると、急いで教室へと向かった。教室に行って帰ってギリギリというところだろう。警備員は戻ってくるまで門を開けていてくれるとのことだが、急ぐにこしたことはない。
教室に入り、自分の席に近づく。中からは歴史、日本史の授業道具一式が見つかった。私はそのことに安心し、教室を出た。
その時だった。
自分の体の頭の先から素早く、しかし感覚はゆっくりと。何か平面が、いや、頭上の方を中心とする球の一部分が伸びてきたかのように私の体の足先までを包んだ。
静寂が訪れる。今までも誰もいない教室や廊下は昼間と比べ、十分に静かだったが、それとは違った、異質な静けさが訪れた。
――これはおかしい。
何と言ったらいいんだろう。第六感ともいうべき非科学的な何かが私に知らせる。これはおかしい、と。まるで、周囲の色といえるもの――視覚的なものではなく――が消えたような錯覚。ただ、おかしいというだけで、危険なのかどうかはわからない。
私たちは幼い時から多くを学ぶ。その中にはこうした時の対処法を学ばない。突発的な異常自体。あと一分で日本が滅びる、世界は消滅する。そんな時何をしたらいいかわからない。それは決して教えないわけではない。教えられないだけなのだ。更に、それが起こる確立は天文学的に低い。だから起こらない、だから教えない。では、それに当たった教えられていない人間は果たしてどうするか。何もできない。これが答えだ。
思考が一瞬に凝縮される感覚。自分だけ時の概念がずれる。そして、戻る。
鳴り響く轟音。目の前で崩れていく校舎。崩れて開いたところから入る夕日。そして目の前に現れる、巨大な何か。
悲鳴をあげようとして、代わりに聞こえる自分が息を吸い込む音。一瞬にして訪れた、絶望。自分は目の前で動くその巨大な何かに殺される。怖くて目を瞑ると目蓋の裏にはその様子が鮮明に映った。
悲鳴もあげられなかった私の体は、迫りくるその最後の瞬間の前にはっきりと一人の名前を口にした。
「由里ちゃんっ!」
「圭織っ!」
風を切る音と、それとは僅かに遅れてむき出しの肌に届く風。それと同時に、私に応えるように頭上からの声。
死ぬはずの瞬間が通り過ぎ、私の未来が書き変わったのがわかった。目蓋を上げると、殺される私の様子の代わりに左手に持ったナイフを巨大な何か、今なら何だかわかる、巨大な百足、ムカデに乗り、突き刺していた。
由里ちゃんはそのままその左手を横に走らせると、私の方を向いて大きく跳躍する。由里ちゃんはどう判断しても助走なしで跳べる人間の限界を越え、私のもとに着地した。
「歯くいしばっていて」
一言、私は耳元で囁かれると次の瞬間には私の足は床から離れていた。
「由里ちゃんっ!?」
「説明は後。舌噛むから喋っちゃ駄目」
気付くと私は由里ちゃんにお腹を抱きかかえられていた。見る見るうちにあの百足から離れていく。しかし、私の目はその百足が由里ちゃんに斬られたところを境に二つに分かれ、それが別々に動くのを見た。
この短いやりとりで何が起こったのかを把握するには私の頭ではいくつ合わせても足りなそうだった。