三章:欲しかったのは(16)
教室に戻るとすでにショートホームルームは始まっていた。松原先生には二人の内どちらかが適当に言っておいてくれたらしく、ただ早く座るように促された。出欠確認の際には由里ちゃんの順になると風邪で欠席、と呟いていたことから、今日は連絡がいっているようだった。昨日、あの後風邪をやはりこじらせたのだろうか。
授業が始まっても、休み時間になり、二人と話していても、私の頭の中は「由里ちゃんは何が言いたかったのか」でいっぱいだった。
由里ちゃんが何かを隠しているのは、事実だ。あの血のシミのついたブラウス。不自然な穴も開いている。あれは、日常生活を何事もなく送っていれば起きないはずの出来事が起こったことを意味している。昼休みになっても私の頭がたどり着いたのはそこまでだった。
昼休みはいつも通り――と言っても始まったのはここ数日にすぎないが――に私を含む五人、いや、いつも通りではない、今日は昨日に引き続き四人なのだ。とりあえずはその四人で昼食をとろうと食堂に行こうとしたとき、おどおどとした少女――と言っても私と大して変わらない(というのは私が幼く見えるせいでそれは私にとって不本意なのだが、いや、話が長くなり、それほど重要なことでもないのでこの辺でやめておこう)見た目の――が教室を出たところにいた。
「誰かに用があるの?」
私は勇気を出して声をかけた。それはこの前の件で言いたいことをいうことに決めたのと、その少女がおそらくは下級生、つまりはこの学校に来て間もない一年生であり、困っている様子が目に見えてわかったからである。
「あ、はい! あの、神谷先輩はいらっしゃいますか?」
「神谷先輩って、由里ちゃんのこと?」
「はい、神谷由里先輩です。あの、私は須藤美樹と言って、茶道部の一年生です。神谷先輩に部のことで用事があって……」
その瞬間、私は軽い衝撃を受けた。表に出したそれは僅かなものだったし、すぐに私は笑顔をとりつくろったから、茶道部の由里ちゃんの後輩であるという彼女は気づかなかっただろう。
「由里ちゃん、昨日から風邪で欠席なの。急ぐ用?」
「あ、そうなんですか。じゃあ、副部長か部長に相談しますので、神谷先輩にはお大事にとお伝えください」
「わかった、伝えとくね」
「よろしくお願いします。あの、ありがとうございました。」
彼女は屈託のない笑顔を振りまいて去っていった。私も笑顔を作りながら軽く手を振り、由里ちゃんの後輩を見送った。
私は、由里ちゃんのことを知らない。それを思い知らされた瞬間だった。私は、由里ちゃんに見せていない自分はなかった。私が所属しているのは2ーB、つまりはこの学校のクラスだけ。そこでの私は由里ちゃんも見ていることだし、友達となった由里ちゃんにはそれ以上に自分の姿を見せた。私は器用ではないので、家族の前や他の知り合いの前だからと言って違う自分を見せたりということはなかった。
けど、由里ちゃんは違う。私や愁也君の前で見せている由里ちゃんは私からはそれは楽しそうに見える。クラスの中での雰囲気とは少し違った由里ちゃん。コーヒーに砂糖をどぼどぼと入れたり、顔を真っ赤にして恥ずかしがったり。実はお茶目で、女の子らしいところがたくさんある。私はそれを見て、それが由里ちゃんの本当の姿なのだと思っていた。
けど、今来た後輩が慕う由里ちゃんも存在する。聞けば由里ちゃんは三年生が足りないからと、二年生で早くも会計という重役についているらしいが、それだって多くいる二年生の中で選ばれているのだ。部活での由里ちゃんは、私の知らない由里ちゃんなのだ。それに、家族の前では、他の場所では。私の知らない由里ちゃんがもっとたくさんいるのではないか。そして、それが本当の由里ちゃんの姿ではないとどうして言い切れるだろうか。
私はさっき考えた。存在を認めてくれるなら由里ちゃんでなくても私はここにいれると。では、由里ちゃんは違うのか。いや、同じだ。由里ちゃんも私が存在を認めなくともここに存在することが出来る。
私は、由里ちゃんのことをすべて知っているわけではない。由里ちゃんは私を信頼してくれているのだろうか。由里ちゃんの本当の姿はいったいどれなのだろうか。それを知らない私に、由里ちゃんが言おうとしたことは何なのか、わかるのだろうか。
私の頭の中では下校時刻が過ぎ、家に着くまで、そして、家に着いてからもそのことばかりがくるくると回り、私を悩ませていた。