三章:欲しかったのは(1)
――右か、左か、それとも下か。それとも……。
その後にはあらゆる方位がが入るだろう。上、前、後ろ。全ての可能性が考えられる。どんな戦闘でも全方位に注意を向けるのは鉄則だ。
しかし、それにも優先順位がある。例えば、象と地上で戦うとき、下っていうのはまずない。だから下への注意は最小限に切り詰めるべきだ。モグラが敵なら、下は注意すべきだ。敵が見えているなら基本的にはそっちに注意を向ければいい。
――じゃあ、私は今どうすればいい?
そんなことを聞いても誰も返答してくれない。ここには誰もいないし、そもそも私がその問いを発しても聞こえないだろうから。私の周りにあるこの水が、人がいる可能性が少しはある水上への音を消してしまう。そもそも、誰かが答えたならそれはそれで問題なのだ。私は今、海の中にいる。
僅かな音が耳に響く。右耳を閉じ、すぐに交代で左耳を閉じる。たぶん、左の方が大きい。自信はない。おおまかに左。それは警戒の範囲が私を中心とした球形から半球になるにしかすぎない。その範囲は膨大だが、50%になったと考えれば気は安らぐかもしれない。
私は五感を通常よりも鋭くする。これも能力の一つだ。水流の流れが私の耳にうるさく響き、肌で感じる水の感覚が気持ち悪いほどにねっとりとする。臭いはせず、水によって遮断された太陽の光がほんの僅かだけ届いた。
心臓を中心として、肩の方。その方からの水流が若干変化し、私は水の流れをコントロールして私の体を上の方へとやる。その直後に黒い影が私のいたところを素早く泳ぎ去り、また私の目の届かないところへと移動した。
――大丈夫。まだ生きてる。
またぎりぎりのところで助かり、歯を食いしばった。触れている舌が歯の裏のざらっとした感触を感じ取り、気持ち悪かった。自分の唾の味がした気がして、それもまた気持ち悪かった。
次の接触まではたぶん、一分ほどある。さっきから約一分のスパンで敵は体当たりを繰り返している。こちらの消耗をねらっているのだろう。
こうして一分に一度感覚を研ぎすませ、水流の流れをコントロールする。それに加え海中で私が留まっているために必要な水流のコントロールと水を分解することによる酸素の確保。これだけの能力を使っていくだけでも私の体内にあるエネルギーは消耗していく。それに先ほど負った傷と水に体を浸していることで体力を奪われ、この状況を常に強いられてることによる精神的苦痛。そう遠くない内に私の体が限界を迎えるのは必死だった。
私が今戦っているのは、海中を高速で泳ぐ生物。その種族名はマグロ、鮪だ。化け物の出現を感知し、急いで現場――ポイントCに向かった時、まだそこではなにも起きていなかった。私は装備を整え、空間が歪むのを待っていた。しかし、一向に空間は歪みの片鱗すら見せず、予定時間は後数分で過ぎそうだった。私は探知系の能力を得意にしていなくとも、平均よりは優秀だと思っていたため、不思議で仕方がなかった。しかし、事は急に起きた。
結果から言うと、私の探知は間違ってはいなかった。空間は歪み、ちゃんと化け物はそこに時間内に出現した。しかし、それはあまりにも唐突で、私が歪みを視認する余裕もなく私の体には鋭い痛みが駆け巡り、その痛みを認識する前に私の左の脇腹は貫かれていた。
その鋭い痛みに耐えかね、声をあげようともしたが、その化け物の襲来と同時に歪みからは大量の水も飛び出し、私の体はそれに貫かれたまま水流に流され水中へと押されていった。
私は恐るべき速度で水中を連れ回され、気絶しそうになっていたが、なんとか化け物の周りの水分を凍らせることに成功した。
化け物、その時始めてマグロと確認したのだが、その化け物は動きを止め、私の体から引き離すことに成功した。引き離した瞬間、私の体からは大量の血が溢れ、辺りは赤く染まった。私は急いで力を使い止血し、体組織の復旧をはかった。本来なら最初に由里に会ったときに使ったあの薬を使いたかったが、あれは液体のため、ここで飲むことはできなかった。思いもよらぬ盲点だった。
マグロの化け物はものの一分もしないうちにその体を震わせ始め、明らかに時速200kmを越えるであろうスピードで泳ぎ去っていった。私はそれを止めることができず、とにかく体の回復を優先させると、マグロは一分毎の攻撃を仕掛け始めてきたのだった。
――しめたものだ。
最初はそう思っていた。私はこいつを逃がすわけにはいかない。こいつが広い海に繰り出し、この速度で泳ぎ回られればば見つけることは無理ではないが、困難になってしまう。
しかしこいつは逃げることなく私を襲ってきた。私はさっきからぎりぎりで回避を繰り返し、ようやく力のサポートを受けてだが両手両足を動かせるまでに回復していた。しかし、早くも私の力は残り少ない。肉体回復に消費するエネルギーはかなりのものなのだ。ここ、ポイントCが遠かったので、移動に消費したエネルギーが膨大であったというのもある。また、帰還のためのエネルギーを残さなければならないということも重要だ。ここは前回と違い、近くに陸地がないため、海中、もしくは海上でエネルギーが切れればそこで終わりなのである。
――さて、どう倒す?