二章:好きと嫌いと(21)
彼は私についてくるようにしていたが、どことなく間に距離を取って歩いていた。片道五分ほどの道のりを無言で歩いた。
「ここ」
私は喫茶店の扉を開く。モダンな雰囲気で統一された店内は日曜の午前中ということもあり、七割くらいの席が埋まっていた。多くの客は遅い朝食か、朝のコーヒーブレイクを楽しんでいる。このお店は軽食とは言えないような軽食の種類が豊富で、最も混むのが昼から夕方にかけてなのが特徴である。店の広さもちょっとしたもので、それが七割もこの時間に埋まっているということが、この店の人気を表していると言ってもいいだろう。
客の一人にコーヒーとトーストを出していたマスターが私に気づき、にこりと笑った。
「いらっしゃい。久しぶりだね」
「はい、お久しぶりです。二人なんですけど、奥のボックス席いいですか?」
ここのマスターとは顔なじみだった。というより、由里の顔でこの辺りの少し名の知れた喫茶店に行けばそこには大体顔なじみのマスターなり、店員がいた。由里の趣味は喫茶店巡りだと言っていい。
「ああ、いいよ。何、彼氏とデート?」
私は頷きはせず、ほんの少し顔を赤らめてにこりと笑い返した。そういえば最初はそういうことだったのだ。私の後に入り、店内を物珍しげに眺めている彼からはその様子は見えなかっただろう。そう、ただのデートだったというなら良かったのに。今彼とここでこうして会うことは違う意味を持っている。
「こっち」
そして私は奥のボックス席を指さした。まずは私が奥に座り、彼はそれに向かい合うように座った。さて、ここからどう切り出したものか。
「ぼ、僕こういうお店……喫茶店って言うの? 初めてなんだよね」
彼がぎこちなさそうに言った。緊張していて、それを紛らわそうとして言ったのがわかる。けど、たぶん落ち着いていたように見える私はもっと緊張していた。
「そう」
「う、うん」
私の口からでた言葉はそれだけだった。でも、これでも開かない口を無理矢理あけて、精一杯絞り出した言葉だったのだ。彼は少し気まずそうにしてメニューに手をかけた。
「と、とりあえず何か頼もっか。何にする? 何でもいいよ」
「私はいいの、決まってるから。それに、これはあの時助けてくれたお礼なの。だから私が払うのよ?」
今度はさっきよりも口からスラスラと言葉が出てきた。でも、眼を合わせてしゃべることができない。冗談らしくする余裕もない。だから、きっと冷たく言ったように聞こえただろう。学校で広まっている由里のイメージからしたらそれはかけ離れてはないような気もする。けど、彼にはそうは思われたくないという気持ちがあった。
「そっか、そうだった。じゃあ僕は……そのガトーショコラとホットミルクにしようかな……。……あ、すいません!」
彼は一人でそう言うと、丁度通ったマスターを呼びつけた。マスターがにこにこしながら返事をした。ここの店員はマスターに限らずいつもにこにこしている。一度聞いてみたところによると、ここの採用条件は「にこにこ笑っていられること」だけらしい。
「えっと、ガトーショコラとホットミルクを。あと神谷さんは……」
「由里ちゃんはいつもの?」
「はい」
マスターは会釈してその場を離れていった。
それから、注文したものが来るまでの数分間、私はほとんどしゃべらなかった。互いに重たい話は店員がものを運んできて邪魔が入らないようになってから、という考えはあったらしい。彼は色々と他愛のない話をしようとしていたが、私がさっきみたいに一言二言で返してしまうと、とても話を続けられる空気じゃなかった。
けれど、私にも理由はあったのだ。最初の数分は、どう話を切り出そうか、こんなまじめな重い話をこんなとこでして嫌がられないだろうか――既に自分で空気を重くしていたのには後で気づいたのだ――と考えていた。
そして話し始めをを決め、後は思うように話すと決めた後の少し頭が落ち着いてきた数分間は「いつものメニュー」のことを考えていた。由里のこの店での「いつものメニュー」とは、ガトーショコラとブラックコーヒーのセットこと。ガトーショコラの方は食べることができる。楽しみですらある。
しかし、コーヒーの方はどうか。先週あの圭織とあった店で飲めないことを証明済みだ。圭織に若干ひかれたように、あの量の砂糖とミルクを入れるのはまずい。どうしたら、どうすればいいんだろう? 自分であんな風に頼んでおいて飲めないなんてなれば、これからする真剣な話にも格好がつかない。私の頭は既にそのことでいっぱいだった。
――ああ、コーヒーの香ばしい匂いが近づいてきた。
「こちら、ホットミルクになります」
「あ、はい」
現れたのはまたマスターだった。佐藤君が手をあげる。彼の前に湯気を伴った白いホットミルクが置かれた。
――あれなら飲めるのに。
私のいた世界にも牛はいたし、ミルクもあった。あのタンパク質でできた薄い膜。あれを見ただけでホットミルクの暖かい、甘い味が口の中に広がるようだった。
「ブラックコーヒーになります」
私の目の前には真っ黒な液体の入ったカップがおかれた。まるでオセロのような白黒だ。ミルクと、カップが白、コーヒーが黒。けれどカップの白に囲まれたカップの中身は白には変わってくれなかった。私はこの黒をどう白に変えれば……ではない。どうしたら飲まずにすむのかを考えていた。
ああ、ぼうっとしてなにも考えずに頼んだ私が恨めしい。香ばしいコーヒー豆の匂いが否応なしにあの苦みを口の中に思い出させる。
「ガトーショコラになります」
マスターはガトーショコラが一切れずつ乗った皿を一枚ずつ私達の前に置いた。更に二枚の白と二つの黒がテーブルの上に増える。そしてマスターは一礼して戻っていった。去り際に言った、
「ではごゆっくり、笑顔でどうぞ~」
という笑顔で、のところを強調されたことがこの焦る状況下において少し苛立たしかったが、明らかに私達の様子を見ていったことで、私たちの緊張をとろうとしての善意であることは明白だった。なんだかさっきからチラチラとこっちを見てるし、いつもは「笑顔で」なんてつきはしない。なので、怒ることもできない。
「じゃあ、頂きます」
何も言い出さない私を見てか、佐藤君はそう言うと手元のカップに手をかけ、甘いミルクを口の中に流し込んだ。一口飲んだところでそれを追う私の目に気づいたのか、こっちをみた。
「えっと、神谷さんは飲まないの?」
彼はまずいことをした、と言わんばかりの表情を浮かべてこっちを見る。
「あれ、もしかして先にこっち食べるものだった?」
「いや、そういうわけじゃなくて……」
何か勘違いしてしまったのか、佐藤君が慌て始める。仕方ないので私もカップを手に取る。……が、やはり無理だ。下手したら吐き出してしまう。いや、吐き出す。
「あの、大丈夫?」
「だ、大丈夫」
「本当に、具合悪くない? 帰った方がいいんじゃ……」
今度は私が慌てる番だった。言わなきゃいけないことがあるのだ。こんなところで帰っては困る。もう、言うしかない。何か言ってごまかさないと。
「その、コーヒーが」
「コーヒー?」
「今日は、というか最近ちょっと……」
私は言いよどむ。上手い言い訳が見つからなかった。
「駄目なの?」
「いや、駄目というか、昔は好きだったんだけど、その、飲み過ぎて苦いものがきらいになっちゃった、なんて」
また、失言。そもそも苦しい言い訳に違いないのに、「なんて」って言ってしまっては台無しだ。やっぱり、嘘をつくのは苦手だ。けど、彼は少し考える風にして、私に言った。
「ホットミルクは?」
「え?」
「ホットミルクは今飲める?」
「飲めます、というか、好き、です」
想定外の突然の質問に敬語になってしまう。もしかして、魔法でも使ってホットミルクに変えてくれるのだろうか? なんてわけのわからないことを考える。…………そうだ、飲む直前で力を使ってコーヒーを変化か分解すれば!
不意に彼の手が伸びてきて、私のコーヒーを見る視界が遮られる。そしてその手がどけられると、私の目の前のカップにはホットミルクが入っていた。でも、それはカップの白に囲まれてコーヒーの色がひっくり返ったわけでも、彼が魔法を使ったのでもなかった。私が使ったわけでもない。彼の手にはカップが握られていて、それを下ろすと中にはコーヒーが入っていた。
「これでいい? もったいないし」
彼は笑ってそう言った。取り替えてくれたのだ、ということに気づくまでには少々時間を要した。そのままカップを口元に運び、一言「苦い」と言った。私もつられて目の前のカップを手に取り、ミルクを口に含んだ。そして一言「甘い」と言った。私達はどちらからともなく小さく笑い、互いに緊張は解けたようだった。