二章:好きと嫌いと(17)
探知から約十五分、誤差最大時の最速の出現時間にぎりぎり間に合った。目の前には時空の歪みと、そこから今にも全身がこちら側に出てきそうなこの化け物、サラマンダーという生物が見えていた。何はともあれ、間に合ったという事実が何よりも私を安心させた。これを見るに、あそこで着替えなどをしていたら結果的に間に合っていなかっただろう。そうなれば私は自分を一生恨んでも恨みきれなかったに違いない。
私は辺りを確認した。特に異常はない。もし周囲に被害が及びそうな場合、戦闘がその世界の人間に把握されそうな場合にはその戦闘を何らかの方法をで隠さなければいけない。無闇な混乱は後々の行動に支障を来すことがあるからだ。
その方法としては後から目撃者の記憶を操作するなどといった方法がある。しかし、その場合取りこぼしが発生することが多く、完璧とは言えない。戦闘の隠蔽という事柄に関しては、私が使用できる希有な能力で完璧と言っていいほどに隠すこともできるが、その高度な能力のために消費するエネルギーは決して少なくなく、発動すれば戦闘において不利となることは必死。
しかし、元々このポイントAは上空にあるため、化け物の出現に私が間に合えば何らかの方法で戦闘の場を移すことが可能だった。その点においてはラッキーと言うべきであった。
そうこう考えているうちにサラマンダー、とは言っても、図鑑のサイズとは並はずれた大きさのそれが空間からこちらの世界に全身を移した。私はその大きな図体がようやく狭い空間から飛び出たことで油断するその一瞬の隙を見逃さず、全力を込めてそれを蹴り上げた。
「くっ!」
その体の大きさに見合った重さが足にかかり、私の体は抗力によって下向きに移動する。その代わりに蹴りあげられた化け物の体は十分な早さで上向きに、空へと上がって行った。その体を力でコントロールし、更に加速させ、雲の上まで運ぶ。反対する力があれば別だが、その方向に進むものただ加速させるだけなら、コントロールするのはさほど難しいことじゃない。飛ぶ術を持たないサラマンダーには空中で力を入れることも叶わず、ただ為されるがままだった。私自身にも上向きの加速をつけ、すぐさま後を追った。
雲を通り抜ける時、私は雲を固めた。これでこの雲は落ちることなく漂い、ある程度の重さなら何かがのっても突き抜けて落ちていくことはない。原理を説明しろと言っても、そういうものに変えたのだ。それで納得してもらう他はない。こういった物質変化の類の力は私にとって得意な分野だった。
私が減速をかけながらその雲にゆっくりと降り立って数秒後。サラマンダーが叩きつけられた音と叫び声が辺りに響いた。これだけ大きな音だとしても、これだけの高さなら下には聞こえないだろう。これで周囲を気にせずに戦うことができる。
敵の攻撃に備え、間合いを取る。相手の攻撃手段はおそらく尾による打撃、噛みつき、体当たり、そしてサラマンダーの特徴とも言える毒液。これを出すところが火を吐くように見え、火トカゲと呼ばれる由縁……らしい。火トカゲという名前を持っていても、実際に火を使うわけではないらしいことを確認し、安心する。代わりに発する毒液も回数が限られているらしく、乱発はしてこないだろう。つまりある程度の注意を払っていれば、この距離なら攻撃を受けることはまずない。
こっちの世界に来るときに詰め込まれた膨大な知識の中から生物図鑑を引っ張り出し、その知識を引き出してきた。他に重要そうな生態を確認するために、他の知識を呼び寄せようとした刹那だった。
サラマンダーの口が大きく開き、勢い良く赤い炎が飛び出す。高度のせいで酸素が薄く、そうでなくても周囲の酸素を吸う間もなく直線に移動する炎はその色を赤色のまま、私に容赦なく向かってきた。想定外のことに私の頭は麻痺し、体が硬直してしまう。
避けるのはもう無理だと判断し構えていた右手の手甲に左手をあて、つけているナイフごと薄く伸ばし、大きな盾へと変化させて炎を遮った。とりあえずは炎を防ぐことができたが、急場で作った盾は薄かったこともあり、すぐに熱くなってしまい、手首の紐を切って手から外し、後退した。
「火は吐かないって……」
図鑑を恨み、そして知識に頼りきった自分の浅はかな頭を恨みながらも、私の頭の中には既に一つの考えがあった。このサラマンダーが上級の化け物だという可能性だ。化物の中でも強い意志を持ち他の世界に現れたもの、それを私達は上級と格付けする。上級の化け物はその意志の強さからその生物の限界、常識を越えた力を手に入れる。
それは言ってしまえば大きさの肥大や、知恵の所有などもその一例である。但し知恵の所有は他世界への移動に必須。そして大きさ程度の変化は簡単に限界を超えられるとしても、その生物の生態や能力の限界を越えるという複雑なことはそれらに比べて遙かに難しい。
つまりこの本当に火を吐くサラマンダーの意志の強さは相当なものであり、火を吐くこと以外にも普通の生態から外れている可能性に注意しなくてはならなかった。
そもそも、化物とは何か。これは機関に入らずとも私のいた世界なら一般人ですら皆知っていることだ。それは、意志の強き蘇った生命。全ての世界で死んだ生命は、魂のみが、いわゆる死者の世界に送られる。
死者の世界は普通の世界と同じだけ、つまり無数に存在し、対となる普通の世界から限りなく遠いところに存在する。それは距離の遠さとはまた違う遠さである。その死者の世界では魂が肉体を持たずに存在することができる。というよりも、死者の世界では肉体を持つことができない。普通の魂はその死者の世界で再び死を迎える。物理的な死ではない。その意志が薄くなってしまうことでの魂の消滅だ。
しかし、稀に生存の意志が強いものが現れる。その中から一部が知恵を身につける。そして死者の世界に存在する歪みを見つけ、近くの別の普通の世界に実体を伴って無理矢理現れる。普通の世界では魂のみでは存在できないからだ。もっと言えば、魂はその生物の種がが存在する世界にしか入れない。例を言えば、私のもといた世界はこのサラマンダーという生物は存在しない。よってサラマンダーの化け物は出現することができない。
つまり、意志と、知恵と、力と、運と、その全てを兼ね備えたものが他世界に行き、もう一度生きるチャンスを得る。しかしそのままでは仮の肉体が定着し、生命絶対数一定の法則を破ってしまい、世界が崩壊に向かってしまう。そのため仮の肉体を分解するエネルギーを利用して他の生命に乗り移る。これが化け物の正体。
このサラマンダーはその中でも強い意志を持ち、知恵を蓄え、力で歪みをこじあけ、この世界に来た。そしてサラマンダーは知恵を蓄える際にこの世界でのサラマンダーという呼び名、その由来を知ったのだ。そして火を吐く能力を身につけた。
間違いなく、強敵だった。