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二章:好きと嫌いと(14)

 

「由里?」

 

 お母さんの声だ。由里の。今は、私の。

 

「……開いてる」

 

 ガチャリと取ってを回す音に、ドアをゆっくりと押し開ける音が続く。私は布団に押しつけていた顔をより強く押しつけた。だめだ、こっちに来てから私はもう何度この由里の布団に頼っただろうか。こんなにも私は弱かったのか。

 

 あの後、私は圭織の抗議の声も聞かず、学校での一日を終えた。そして帰り、電車内で私と圭織は二言三言しか会話しなかった。雰囲気がそうさせていた。

 

「由里?」

 

 もう一度、優しい声で名前を呼ばれる。本当の私の名前じゃないけど、今はそれでも色々なものが胸に込み上げて来て、急に甘えてみたくなった。まるで、由里そのものになったみたいだった。

 

「お母さん、聞いてくれる?」

「……」

 

 お母さんは何も言わなかったが、椅子をそっと引く音が後ろから聞こえたので私は話すことにした。

 

「この前話した、新しくできた友達がね、いじめられてたの。昔からその子はいじめられててね、見つけたらさり気なく助けてた。それで、今回もいじめてる子達にやめるように言ったんだけど、そしたら言われたの。クラスメートと友達じゃ助け方が違うのかって。確かに、今までとは違かった。今までよりも助けたいって思ったし、その通りにしてた。それを聞いて、わけがわからなくなって、気付いたら相手の子に馬乗りになって、何度も、何度も殴って……」

 

 そこまで一息で話した。話していて、また辛くなって、布団を握り締める手に力が入る。

 

「ごめんなさい」

「由里」

 

 私が震える声で謝ると、お母さんはまたその名を呼んだ。私の今の名。私がそうであるべき人の名。私とは違う人の名。せき止めていた言葉は溢れ、止まらなくなっていた。

 

「ごめんなさい。喧嘩して、はっきりとした考えも持たずに他人を傷つけて! みんなを心配させて、由里じゃないみたいで、私らしくなくて、ごめんなさい!」

「由里!」

 

 突然の大きな声に体がピクリと反応する。由里は両親から怒られることなんてない。誉められてばかり。これでまた一つ、由里から離れた。どんどん由里から離れていく。次にはなんて言われるだろう。どんな言葉をかけられるだろう。心配、同情、失望、否定。私はそれを怖れ、怒るお母さんを見たくなくて、眼をぎゅっとつむる。しかし、返ってきた答えは全く違うものだった。

 

「由里、お母さんは怒ってるんじゃないの」

「……」

 

 そんなの信じられなかった。私は、由里とはかけ離れた行動をとったのだ。しかも、例え由里でなくたって、誰だって怒られて当然のことをした。人を傷つけた。けど、そのお母さんの声の雰囲気からは本当に私を責めていないことがわかった。由里として、このお母さんの娘として十七年間生きてきたこの体が既に緊張を解いていた。

 

「由里は何事にも公平にしていたでしょ? 確かに、道理で言えばそれが正しいのかもしれない。けどね、人間関係じゃ必ずそれが正しいなんて言いきれない。だって、必ず差を付けざるを得ないような状況ばかりで、実際に公平に出来ることなんて普通ないもの。それに、そうされるのが嫌だと感じる人もいるかもしれない」

 

 これは今までの由里の考え方を大きく否定するようなものだった。今まではその由里の考え方で上手くいっていた。でも、それは上辺だけのかもしれない。由里の気づかないところで、何か歪みが起きていたのかもしれない。実際、その考え方ではどうにもならないような場面に私は出くわしている。

 

 友達だからといって差をつけない。けど、友達だか助けなきゃいけない、助けたい。この矛盾する二つに今までは目をつむってきただけだった。偶然、そういう場面に出会わなかっただけだった。

 

「手段はともかく、そうやって友達のために怒るってことは悪いことじゃないの。言い方が悪いけど、贔屓なんかがあって当然なの。だって自分も、その友達も相手だって、みんな人間なんだもの、こうすれば良いなんて方法があったら争いなんて起きてない」

 

 その通りだった。人はどの世界でも争いを起こす。私がいた世界でも、この世界でも、他の世界でも。それはそれぞれの利益のためにだ。私は今まで、それが醜いと思っていた。

 

「争いが起こったとき、その争いという大きな観点から見れば人はとてもちっぽけよ。死んだって単なる一という数に数えられるだけ。けど、同じ一人の人という観点から見れば、目の前に立ってくれる人は、自分を守る人となる。それは自分の命を助けてくれるという、とても大きな役割を果たすの。人は、それくらいなら守ることができる。だから、人は大切なものを守る。争いというのはその結果にしか過ぎない。自分の大切な人を――いや、それは物かもしれないけど、それを何かから守ろうとして起こってしまった結果。そう考えれば、争いというのも、贔屓というのも、守れない公平の中で大切なものを守ろうとする、とっても重要なことなの」

 

 それを聞いて私の中で何かが変わった。確かに、世界の中で誰か一人ずつが死ななければならないなんてなったとき、私は喜んで家族を、友達を、知り合いを差し出すことなんてしない。魔の手が伸びれば、私はそれを受け入れるのか、いや、必死に逸らそうとするに違いない。たとえ、それによって他の誰かが死んでしまうとしても。どうしても死ななきゃならないなら、どこかの知らない人が死んだ方がいいとどこかで思っている。それは公平の観点から見ればおかしい。けど、そうしなければ、私はきっと人間じゃない。

 

 贔屓。そう、私は圭織を贔屓して悩んでいた。圭織を助けたくて、でも一人贔屓したくなくて。ここまで考えてみて、私はある事実に気付いた。

 

『違う』

 

 確かに私はあの時生徒指導室でそうつぶやいた。でも、それは私が圭織を助けたいと思う気持ちと、由里の考え方を尊重しなくちゃいけないという迷った私を圭織に伝えようとしたのだと思っていた。けど、言えなかったからではなく、何となくその解釈には違和感が残っていた。

 

 けど、今ならわかる。お母さんの言葉によって救われたと思った由里もなのだ。自分の考え方に大きな矛盾を持っていた由里もだったのだ。

 

 私だけじゃなくて、迷ったのも、つぶやいたのも、私と、私の中の由里の二人だった。由里は私の中で生き続けている。その由里も圭織を助けたいと思い、なおかつ今まで自分を否定したくないと迷った自分のことを、圭織に伝えようとした、私と由里、二人の言葉だった。あの行動は、二人の行動だった。

 

 今は由里も、自分の考え方が全てではない、間違っているということを理解している。きっと矛盾を解決したくて、でも自分じゃ怖くてできなくて、誰かにして欲しかったのだろう。新しく芽生え始めた考え方を正しいといって欲しかったのだろう。そしてそれは今、お母さんがしてくれた。綺麗すぎる考え方から、世の中の矛盾をはらんだ、次の考え方にステップアップすることができたのだ。

 

 私は、無理をして由里に合わせる必要はない。由里は必要があればこうして出てくる。感情をあらわにする。その由里が今までこうして黙っていた以上、由里自身は私を否定していない。

 

――そうなの、由里?

 

 私は胸に手をあて、静かに問い掛ける。自分で問いかけながら、その返答は既にわかっていた。なんたって、私は由里の思考も持つ――いや、今の『私』というのは元の私と由里、二人を合わせたものが『私』だから。その私の答える答えだから。

 

「お母さん」

「何?」

 

 私は顔を上げて言った。

 

「ありがとう」

「どうすればいいかは、自分で考えなさいよ」

「わかった」

 

 しばらく経って扉の閉まる音がし、私は身を起こした。そばにある鏡を見ると私が、私に笑いかけていた。

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