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二章:好きと嫌いと(10)

 

 私は家に着くと小さく「ただいま」と言い、そのまま二階へと上がった。階下から聞こえる声を無視して部屋のドアを閉める。ドアの外ではお母さんが慌てて追っかけてきたのだろう、階段を駆け上がる音がドア越しに聞こえた。それに続いて控えめに、だが確実に聞こえる絶妙の大きさのノックが部屋に響く。

 

 当然だ。もう松原先生から家に連絡がいっていたはずで、由里がこんなことをしたことはないんだから。だから、お母さんが心配するのも無理はない。悪いことをした。しかし、私はそのノックに応じることはしなかった。


 鞄を机の横に置き、そのまま椅子に腰掛けた。机に肩肘を駆けながら未だノックの音が響くドアに背を向ける。今の私の耳には全ての音が――ドアを叩く音も、お母さんの声も、家の近くを通る電車の音も、私がつくため息の音も――どれも同じ、ただの関係のない音にしか聞こえなかった。

 

 私は自分の右手を広げてみる。そしてそれを裏返して手の甲を見つめる。あの後先生に言われ、水ですぐに洗い流したので真由美の血はもうついていない。しかし人間を殴った感触は流れてはくれなかった。

 

 あの後のことの記憶が不安定だった。気付いたら生徒指導室の椅子に座らされていた。私の隣には圭織と真由美がタオルに巻いた氷を腫れた部分に当てて同じように座っており、真由美の向こうには取り巻きの二人も座っていた。

 

 もはや落ち着きすぎてしまった頭は記憶の整理を望んでいた。あのとき何が起こったのか、私は何を聞き、何を話したのか。それを正確に知っておくべきだと言っていた。私はそれに素直に従い、順に思い出していった。

 

 ドアを叩く音はもうしていなかったと思う。少なくとも、私には聞こえていなかった。

 

 

 

「それで、どういうわけだ?」

 

 目の前にいたのはさっきの知らない女性教師ではなく、担任の松原先生だった。自分のクラスの優等生――客観的に見て、だ――が喧嘩を起こし、一方的に殴りつけたというのに、それを聞いてもその表情と声は動揺していなかった。いきなり責めるわけじゃない、まずは話を聞かせろ。その声はそう言っているように聞こえた。怖いとは感じないが、厳しさは伝わってくる。

 

 私も真由美も質問に答えずひたすらに口を閉ざしていた。真由美は冷静になってきていたとはいえ、私を憎む感情が全面に押し出されていた。私はと言うと、圭織を殴ってしまったということがショックで、先生に聞かれたことに一言二言上の空で答えただけだった。

 

 圭織は元々しゃべるのが苦手で、さらに私に殴られた頬が大きく腫れ上がっていて、そこに氷を当てていたために話づらそうだった。そうなると必然的に主に真由美の取り巻きの二人が質問に答えることになった。二人は最前列で見て聞いていたため、その点でも丁度よかったと言える。

 

 問題は真由美たちが圭織にとった行動を認めるかと、私が真由美に殴りかかった理由だったが、これは取り巻きの二人が包み隠さずに言い、うやむやにはならなかった。

 

 ただし、圭織にとった行動についてはその内の一人の長谷川が「自分の席に了承なく座っていたためにイラついてやった」という言い訳が付け加えられた。確かに、私達が普段昼ご飯の時に勝手に使っていたのは長谷川の机であったので、何かあったときの言い訳に前々から考えてあったものなのだろう。

 

 松原先生は話の間に細かい質問を挟み、二人が話し終わるとまたいくつか質問をした。全てが終わると先生は目を閉じて一分ほど考え込むと、話し出した。

 

「まあ、なんだ。結論から言うと坂本と小倉と長谷川がやったことと言ったことも悪かったが、神谷が暴力をふるったのは悪いことだ」

 

 それぞれの悪い部分を指摘される。さながら裁判で罪状を述べられているようだ。そして審議が終わり、罪状が述べられればやることは後一つしかない。

 

「けど、神谷も最近色々とあったしな。坂本はそのことにも触れたようだな。かっとなったとはいえ、言ってはいけないことがある。神谷が周りが見えなくなるほどになっても仕方がない。そして坂本もかなり痛い目にあっただろうし、小倉と長谷川は十分反省しているようだ。だから今回の件は全員に処分なしということにしておく」

 

 判決が下された。本来なら喧嘩でしかも流血ざたなど、停学処分ものだが、そこは普段の由里の態度とその最近の出来事とやらでなしということだろう。真由美に対しては暴力をふるってないこと、後の二人は大きくは関わっていないことでなし、というところか。

 

「けど神谷と坂本、そして斉藤の親には俺から電話させてもらう。処分をなしにしたとはいえ、おまえら二人が犯した罪はでかい。そしてけがをした二人の親には俺に説明する責任がある。 

 三人とも、もう斉藤にそんな態度は取るな。特に坂本、言葉は時として強い暴力になる。気を付けろ。そして神谷、暴力は絶対に駄目だ。俺らは人間だ。話が通じる相手なら力を使う必要なんてない。暴力で解決しても互いにマイナスになるだけだ」

 

 松原先生は一人ずつ私達を見回し、順に声をかけていった。そして最後に圭織にたどり着く。先生はそれまで厳しくしていた表情を緩めた。

 

「斎藤は今回、よく神谷を止めてくれた、ありがとう。おまえは友達思いの良い奴だ。今後、何かあったら先生達に言ってみろ。絶対に力になってやるから」

 

 先生はそう言って立ち上がり、私たちに立って部屋から出るように促した。

 

「あの、先生」

「どうした、斉藤」

 

 圭織は未だに椅子に座ったままだった。

 

「もう少しここに座っていていいですか? 少しだけ気分がよくないので」

 

 私は圭織から目をそらした。今この場で気分が優れないと言うのなら、それが肉体的なものでも、精神的なものでもそれは私のせいなのだろう。

 

「ああ、いいぞ。でも大丈夫か? 保健室に行った方がいいんじゃないか?」

「いえ、ほんとに少しなので。四、五分もあれば大丈夫です」

 

 松原先生はそれに了承し、私にこの部屋の鍵を渡した。

 

「じゃあ神谷も一緒にいてやれ。これは教員室の誰かに渡しといてくれればいい」

「あ……はい……」

 

 私はほとんど反射的に返事を返した。私の手に鍵が収まると先生は部屋を出ていった。それに続いて真由美たち三人も部屋を出る。

 

「覚えてろよ」

 

 真由美が私の横を通りかかる時、小さな声でそう言った。小さな生徒指導室にドアが勢いよく閉められる音が響いた。

 

 気まずかった。声をかけるべきなのだろうが、圭織は私のせいでこうしているのだ。それに、さっきみた頬の腫れ具合を思い出すとやはり面と向かって話しづらかった。

 

「由里ちゃん」

「な、何?」

 

 圭織が私に声をかけた。いつの間にか圭織は椅子から立ち上がっていた。生徒指導室は静かだった。微かにグラウンドの方から運動部が声を掛け合うのが聞こえてくるが、その音が静けさをより強調しているようだった。その中に私と圭織の二人だけだった。もう下校時間もとうにすぎている。

 

「……何、じゃないよね。圭織、ごめんね。いや、ごめんなさい」

「ううん、私は由里ちゃんに謝ってなんか欲しくないんだ。お礼を言いたいの。ありがとう、由里ちゃん」

 

 私が顔を上げると圭織は笑って答えていた。その笑顔の一部が赤く腫れていて、痛い。

 

「本当にごめんなさい」

「いいって。そりゃあ、ちょっと痛かったけど、由里ちゃんの気持ち……嬉しかったよ」

 

 その「ちょっと痛い」とはどれだけのものか。殴った方の私の手があれだけ痛かったのだから、殴られた方はもっと痛いに違いない。

 

「あの、具合大丈夫……?」

「え? ああ、あれね、嘘なの。その、由里ちゃんにお礼が言いたくて残ったの。だから先生が言わなかったら私が由里ちゃんを引き留めてた。ここだったら、誰も邪魔が入らないから……」

 

 私は少し安心した。圭織の具合が悪くないというのと、圭織は私に対してひどく怒ってはいない、むしろいい感じだということがわかったからだ。しかし、私が圭織が許してくれようとも、既にしたことは消えない。

 

「違う……」

「え?」

 

 無意識に私はまたつぶやいていた。まるで私は自分の外でその言葉を聞いているように感じた。何か、自分の言葉ではないような。

 

 言っている私がわからないというのだから、聞いているだけの圭織はもっとわからないだろう。不思議そうに首をかしげる圭織に私は言った。

 

「ううん、なんでもない。圭織、今日は先に帰ってくれる?」

 

 私は精一杯笑って言った。笑っているように見えるのか、私にはわからない。見えていたらいいと思う。私は見逃さなかった。圭織は一瞬だけ悲しげな表情を見せた。そして、すぐにそれを隠して笑って言った。

 

「う、うん……、じゃあ由里ちゃん、また……また明日ね!」

 

 私は軽く手を振った。声に出して返事はしなかった。ドアが閉められる音に圭織の足音が続き、私は一人生徒指導室に取り残された。

 

「違う……」

 

 私はまた同じように呟き、しばらくの間どこを見るともなく、立ち尽くしていた。

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