二章:好きと嫌いと(9)
由里のイメージなどかなぐり捨て、爪の先が手のひらに食い込むほどに堅く握り締めた右手を真由美の頬に打つ。油断していたのか、それを阻むものは何もなかった。脚力が加わり、十分に加速度が乗ったストレートは真由美の体を後ろの机もろとも跳ね飛ばした。素手で殴ったので私の手にも真由美の歯が当たった強い痛みが残る。それに構わず私は床に倒れこんだ真由美に襲いかかった。そのまま馬乗りになると、私の目には怯えた真由美の表情が映った。一発、二発。今度は反射的に腕で顔面をガードする真由美をそのまま殴り付けた。
「そんな風に美奈を、彩を、圭織のことを言うな! 私は、私はただ、友達、私の友達を助けたくて!」
「やめて! やめて由里ちゃん!」
私を止めようとしたのは圭織だった。私には周りを見る余裕も、考える余裕もなかった。これだけの騒ぎが起こっていて注目しないクラスメート、いや、人間はいないだろう。しかし私を止めようとしたのは真由美の取り巻きの二人ではなく、周りの第三者であるクラスメートでもなく、圭織だけだった。
後ろから圭織の手が私の肩を、肘をつかむ。しかし、元々非力で小柄な圭織と私の力の差は歴然であり、私の手の動きは緩慢になることはあっても、止まることはなかった。
「謝れ! 私の友人に、友達に!」
「や、嫌っ! 痛いっ! やめっ、て!」
「このっ、この、このぉっ!」
ようやく出た真由美の言葉は私によって途切れさせられ、私に最後まで届かなかった。しかし、たとえ届いていたとしても私の手は止まることは無かっただろう。今の私に聞こえているのは私が真由美を殴り付ける音と、意味を持たないただの音声としても私自身が叫んでいる声だけだった。
――私は、いったい何を言っている?
「もうやめてっ!」
そこでその短い言葉とともに視界に圭織の姿が現れた。圭織は私の後ろで私を抑えようとしていたはずだった。気づけば肩や腕にかかる負担はいつの間にかなくなっていた。突然のことに、私が振り下ろそうとしていた手は新しい止めようとする意志では止めきれずに圭織の顔に吸い込まれていった。
圭織の小さな体が小さな悲鳴をあげて広い教室の床に転がった。最初は起こったことがわからず、呆然としていた。次第に頭が少しずつ落ち着きを取り戻し、圭織の方を見るくらいの余裕はできた。
「……か……おり……?」
「もう、やめて、由里ちゃん」
圭織の顔には血がついていた。私は自分の右手を見た。そに手は鮮血に染まっていた。見れば真由美の口元も同じ色で染まっている。
――この手で今私は、私は友達である、友達の、圭織の、ともだちの……!
「あ、ああ……」
頭から一気に血が引き、冷静さを取り戻していく。新しくできた余裕は辺りの状況の把握で精一杯だった。私たち三人の周りにはクラス中の、いや、騒ぎを聞きつけた他クラスの人もが集まっていて、わたしたちを見ていた。ほとんどの人は何も考えることも出来ずにただそこにいるだけのようだったが、何人かの顔にはどうすべきかと迷っている表情が見える。しかし、その顔も私が見回し、目が合うのと同時に恐怖に変わり、一歩下がり視線を逸らした。
もう一度真由美と圭織を見る。ぎゅっと目をつむり、震えている真由美と、それを庇い私を穏やかな目で見つめる圭織。圭織の顔の血の跡が、私がその頬を殴ったということを再認識させた。
「どうしたの!?」
動ける誰かが呼んできたのか、騒ぎを聞きつけてきたのか。名前も知らない女性の教師が息を荒くして駆け付けた。
「違う……」
「どうしたの!? 誰か説明しなさい!」
「違う……」
女性教師がいらついて怒鳴ったが、それに答える者はいなかった。その後も他の先生たちが駆けつけるまでの数分間、教室にあった音は混乱してヒステリックに叫ぶ女性教師の声と、真由美のすすり泣きと、私が知らないうちに口にしていた呟きだけだった。