二章:好きと嫌いと(8)
教室に入ると真っ先に、異様な光景が目に入った。私の机、私と圭織がさっきお弁当を食べていた机の周りに三人の女子が立っており、床にはさっきまで圭織が食べていた黄色の弁当箱があった。弁当箱は弁当箱として機能していれば普通ありえない形であった。つまり、転がっていた。そして私の机からその弁当箱までの直線上にその中身が点々としている。
それだけの情報では、私はすぐに動くことができなかった。しかし、三人の女子の間から膝をついて床に転がったものをティッシュで拾う圭織が見えた。その時、私はおおよそのこの状況と圭織の置かれている立場を認識した。私の中にあったそれまでの些細な良い気分は塵のように軽々と吹き飛んだ。私は自身の口が開く前にもう圭織に駆け寄っていた。
「圭織っ!」
「あ、ゆ、由里ちゃん。大丈夫だから。ちょっとお弁当箱ひっくり返しちゃって。そう、それだけ……」
そんなわけが無い。私は私の机の周りにいる女子達を見た。明らかに弁当箱があるのは机から離れた場所だし、何よりも私が今見ている彼女たちの嫌らしい表情が全てを物語っている。
「ちょっと!」
私は我慢出来なくなった。ここで何もしないわけにはいかなかった。万が一、いや、億に一つ私が状況を取り違えていたとしても、そしたら私が謝ればいい。私は三人の顔をさっと流し見て、その中でも真ん中に位置する女子、坂本真由美に目を向けた。
「何か用かしら、神谷さん?」
「何か用? じゃないでしょ。とぼけないでよ! こんなことしていいと思ってるの!?」
さらにわざわざ喧嘩を売るような真由美の態度に私は声を荒げた。しかし、彼女は全く動じることなく、顎を軽く上げると高圧的に言い返してきた。
「こんなことって?」
「これ、圭織のお弁当箱ひっくり返したでしょ。黙ってみてないであなたも拾いなさいよ!」
真由美はわざとらしく両手を広げ、肩をすくめて見せた。明らかに挑発を目的とした行動だ。私の中のイライラがつのるのがわかる。相手の思い通りになっているとわかりながらも、私の中の冷静な部分はもうほとんど存在せず、止めることはできなかった。
「斉藤さんが自分でひっくり返したって言ってるじゃない。ねぇ、斉藤さん?」
そういって真由美は上から圭織を睨みつけた。それに圭織は一瞬だけ肩を震わせ、普段の小さな声よりもか細い声を出した。
「う、うん。私が――」
「ふざけないで!」
私はその圭織の同意の言葉に言葉を被せる。
「圭織の性格を知ってるでしょ? そんな風に言われて直接言えるわけないじゃない!」
「そういう風に言って私だけじゃなく斉藤さん本人の言葉まで無視するわけ?」
「そういうわけじゃないでしょ!」
わかっている。公平な立場に立った場合、最終的にはこの問題を解決すべきは私ではなく被害を受けた本人、圭織だ。圭織が被害を認めればその助けに応じることが出来るが、それがなければおおっぴらに助けることはできない。今まで由里がやってきたように。真由美はそれを知っているのだ。だからこのクラスの衆人環視の中、ここまでできる。
圭織へのいじめは知っていた。ただし、それは単なる記憶の一部、つまり知識としてだ。私は冷静に判断し、それはあくまでも平和的に解決できるものだと思った。しかし、今は違う。実際にこの状況に直面してみて、私は物事をまともに考えられないくらい頭に血が昇っているのがわかる。
「それに、あなた今までこんな風にしたことなかったわよね。どういう心境の変化? いじめれているクラスメートと、いじめれている友達だとやっぱり違うわけ? それは差別じゃないの?」
「ぐっ……!」
確かに、今までさり気なく助けていた由里に比べて今は介入しすぎている。公平な由里の精神は守られていないと言える。後で考えてみればそれは真由美たちが圭織のいじめ、もしくは何らかを自認しているという風に反撃できるきっかけになったのかもしれない。
しかし、今の私には自分たちの支配欲を満たすだけの行動をとった真由美たちへの苛立ち、黙ってちらちらと視線を投げるだけの周りのクラスメイトへの苛立ち、このような状況を許す社会や世界への苛立ち、いじめに臆し言い出せない、友達の私を頼ってくれない圭織への苛立ち、矢面に立つことを避けて今まで直接助けてこなかった由里への苛立ち、そして、この状況を感情に流されるままにして解決不能に陥り、圭織を助けることに一瞬の迷いを抱いた私自身への苛立ち、その全てが私の思考を途切れさせ、話し合いや言葉で解決するという方法とは異なったある一点の結論へと終着させていっていた。
「それとも、あなたも必死なのかしら。今、あなたは西野さんも霧島さんもいなくなって一人。そのままだと、このクラスという社会の単位で孤立してしまう。物語では最後に成功を得る悲劇のヒロインとは違って現実はそうはいかない。単なる社会不適合者となるだけ。そうならないためには、その鞍替えした一人のいじめられっこ、つまり同じ社会不適合者の友達が大事なのかしら?」
頭の中で何かがぶち切れる。既に壊れていた感情を束縛するリミッターが崩れさり、本能で体が動き出す。人間は卓越した思考を持ったとはいえ、その本質は動物である。その思考が動物としての手段へと結論を導いた時、全ての条件と状況は弱肉強食の世界であるサバンナのライオンとさほど違いはなかった。そうした時に私が言葉という形を変えた暴力に対抗してとるべき行動はそれ以外にはなかった。
真由美の言葉が途切れてから私がそうしたのか、それとも私がそうしたから真由美の言葉が途切れたのか、判別する術はなかったし、必要もなかった。ただ一つわかることは、そのどちらだとしても、私はその一連の流れの前に床を蹴っていたということだった。