二章:好きと嫌いと(7)
さて、早いもので、もうあれから二日がたった。あれからとは、私が電車で痴漢に会った日からだ。あの後私は圭織からメールで「遅刻? 珍しいね」と気遣われ、学校に行ってからは「どうしたの?」質問され、若干動揺が残っていた私の態度に思うものがあったのか、その言葉の裏では「何かあったの?」と問いただされたのだが、それは割愛させてもらおう。
「それでね、由里ちゃん。昨日家で……」
そして今は昼休みの教室。午前中の体育を含む四時間を終えた教室内の生徒たちは疲れているのか、私と圭織を含めてわりと静かだった。中には、どこから出ているのかわからないような甲高い笑い声をあげている女子のグループもあったが、いつもはうるさいような男子たちも今日は静かだった。私はあんまりうるさいのが好きではないので、こんな感じになるのならハードなバスケットボールも悪くないな、と思っていた。
私は自分の席に座り、その前の席の椅子を借りて座っている圭織と二人で私の机の上に弁当箱を並べていた。お互いに黙るようなことはなく、二人揃って箸が止まってしまうことも度々あった。話していることに内容は無いが、楽しい時間だった。その時、クラスメートの男子の一人が近づいてきたのに気づいた。
「神谷、呼んでるよ」
その男子はちょっとだるそうにしながら教室の後ろのドアを指差した。私はその指の先を目で追うと、その開いたドアの先に見知った顔があった。
「ありがとう。圭織、ちょっとごめん」
「いいよ」
圭織も私と同じ方向を見ていたが、私が一言言うと視線を向けて答えてくれた。周りを見てみれば圭織だけではなく、クラスの一部がそのクラスメートにしては少々幼く、また見慣れない女子の方に興味を向けていた。
「こ、こんにちは。神谷先輩」
私はその若干緊張しているであろう彼女を落ち着かせるために自身も廊下に出た。そして教室の中からは見えない位置まで二、三歩動いた。彼女も無言でそれについてきた。
「どうしたの?」
私はようやく口を開いた。ここでも廊下を歩く人がたまにちらっと見ていくが、教室よりその数は少なく、そして皆目的地があるため、立ち止まることはおろか、わざわざ首を回してまで見ることはなかった。
「はい、部長が話があるって言ってました。今年の予算のことって言えばわかるって言われてきたんですけど……」
「ああ……」
私が所属する茶道部は三年の先輩が少なく、全体的に人数不足だ。なので二年生である私が役員である会計を務めている。特段忙しいわけでもないし、先輩方から信頼されている証ということもあり、苦に感じたことはない、らしい。私はこういう形式ばった書類関係の仕事は好きではなかった。しかし、やらないわけにもいかなかった。
「部長はどこにいるって?」
「部室に行っているそうです」
となると、今日の昼ご飯は半分を残してお預けということになりそうだった。部室棟はこの教室からは離れていたし、そう簡単に終わる仕事にも思えなかったからだ。
「わかった。ありがとうね」
私はその後教室に一旦戻り、弁当箱を片づけながら圭織に事情を説明した。私がいなくなると、他に昼を一緒する相手がいない圭織は一人で食べることになる。圭織には悪いが、そうして昼ご飯を先に食べていてもらうことにした。
「しょうがないよ。それより、頑張ってね」
圭織の表情からは明らかに残念だという気持ちが読みとれたが、その言葉を受け取り、必要な書類と筆記用具を手にして部室へと向かった。
部長の用事は足りない部費の調達ということで、プリントを作ってくれということだった。その話はすでに聞いてあった話でもあり、スムーズに話は進んだ。そしててっきりこの時間中に作るものだと私は思っていたが、家で作ってきてもいいと言われたため、今日は参考として去年のものを貰ってきただけだった。なので、お弁当を食べる時間は十分にあった。圭織は先に食べ終わってしまうかもしれないが、私が食べている間は付き合ってもらうことはできる。一人で食べてもらった圭織には悪いと思ったが、私はもう先ほど圭織と話していた話題を思い出そうとしていた。
私が隣のC組の辺りを通り過ぎたあたりで自分の教室のドアが開き、思いがけぬ人が中から出てきた。一昨日の彼だった。
「あ……」
「あ……」
突然の出来事だった。痴漢から助けた方と助けられた方。単なるお礼――私はこの単にそう考えていたので特に思うところはなかった――として週末にデートをする仲というのは、どうしたらいいのかわからなかった。軽く目配せする程度なのか、いや、挨拶くらいした方がいい、それとも、もう一度何かは周りにわからないようにお礼をしておくべきなのか。
向こうも同じ感じなのか、固まっていた。結果的に見つめ合ってしまう形になっていて、私は顔が少し熱くなった。何だか恥ずかしくなってとりあえず笑みを浮かべた。彼も我に帰ったようだった。その動きは少々急いでいるようだった。小走りで私の横をかけぬける時、彼はそっと言った。
「日曜楽しみにしてるね」
私はその場で振り返り、彼の後ろ姿を見た。その言葉も自然なもので、彼はやはり感じがよかった。私は少なからず良い気分で教室のドアに手をかけ、それを開いた。