二章:好きと嫌いと(6)
あんな目にあったからといって、今から家に戻るわけにもいかない。家にはお母さんがいて、不良でも何でもない由里が、むしろ優等生である由里がこんな時間に家に帰ってしまうと心配される。そしてその状況において私が全てを隠し通してなおかつうまく収まる言い訳を考えることに悩まされるとなると、学校に行った方がまだ得策のように思えた。
でもやはりある程度落ち着くための時間は必要だった。そこで、彼の話もあることだし、彼の提案で歩きながら次の駅まで行くことにした。もちろん、彼も一緒だ。
「改めて、ありがとうございました」
これは本心からの礼だった。自分に何の得もないというのに行動してくれて、あの恐怖から解放してくれた彼にはとても感謝していた。
「いや、早く気づかなくてごめんね」
気づくまでに時間がかかったということは、周りにはばれていなかったということだろうか。私は聞いてみる。すると、返事が返ってきた。
「何か神谷さんの様子がおかしいとは思ってたけど、イマイチわからなくて。最初は体調が悪いのかな、とか思ってたけど、表情が変わってからはこれは違うって思って」
外から見たらばればれの表情をしていたということか。でも、顔の左は吊革を掴む私の手で隠れていたし、右は隣に立っていた会社員の人の新聞があったし、見えていないはず。そして、思い出すのも恥ずかしいが、騒ぎが起きてからは私は彼の胸に顔を埋めていたり、顔を隠しながら走っていた。
と、なれば見ていたのは正面の彼だけ。その事実に二重の意味で安心した。見られていたのが彼のような悪意のある人じゃなかったというのと、彼以外はその事実を知らないということに。
思い出すとまだ震えが来る。しかしこの事実を隠さなくてはいけないということと、彼の表情と声が私の頭を落ち着かせていた。
「佐藤君、でいい? 申し訳ないけど、記憶にないの。どこかで?」
何はともあれ、彼が降りるギリギリで対処してくれたおかげでこの事実を知るのは彼と、私だけのはずだ。いや、後は加害者のあの男だが、私を誰だかわかってやったわけじゃないだろう。せいぜい制服からわかるのは北高の生徒だってことくらいだろう。だから、彼にさえ口止めしておけばこのことはうちの学校では広まらない。
しかし、何度思いだそうとしても、頭の中を探してみても佐藤愁也という名前も、彼の顔も、私には見つけられなかった。つまり、私は彼を知らないか、完全に忘れている。
「いや、一方的に知っているだけなんだ。去年、委員会が一緒だったくらい」
「そう、なんで私なんかを覚えてたの?」
うちの学校の委員会は名ばかりで、あまり活動が活発でない。担当の先生と、会長と、その委員会によっては副会長を加えた二人か三人でほとんどが動いている。他の役員は仕事をしようとしても仕事がないし、伝えられない。私のいた図書委員もそうだ。そもそも、図書館に司書が雇われているというのに何の仕事があろうか。
と、まあそういうわけで、去年の図書委員会で覚えているのはついこの前卒業した部長の名前くらいだった。
「だって、神谷さん有名じゃないですか」
……そうだ、思い当たることがある。あの事故だ。他クラスでも、いや、学校中で話題になったのだろう。友達を二人も失い、自身は奇跡的にその事故から無傷で生還した女子生徒。無理もない。
「その、北高のミス・クールって」
「…………は?」
声がでなかった。ようやく出た声は自分の声に聞こえないくらい高かった。
――今、なんて? どこかで聞いたような、聞きたくないような言葉が……
「あれ、違いました?」
彼は足を止めた。見ると、信号が点滅し始めたので止まったようだ。確かに、時間には余裕がある。しかし、今の私にはそれほど余裕はなかった。
思い出した。美奈だ。確かそんなこと言ってた気がする。まさか本当に広まっていた、いや、広めていたなんて……。私は動揺した心を抑えにかかる。
「ううん、たぶんあってる……。でもそれ、えーと、あんまり好きじゃないから」
「そうなの? ごめん」
「ううん、気にしないで」
誰から聞いたとか、色々と聞きたいこともあったし、あの日のことを思い出しそうにもなったりしたけれど、仕方ない。今はそれどころじゃない。そろそろ本題に移ることにする。
「ねぇ、黙っていてくれない?」
「え、何を?」
「その、さっきの、私が、その……されていたってことを。お礼はするから」
彼はきょとんとした顔を見せる。
「いや、別に誰にも言わないし、お礼なんていいよ。そんなつもりで助けたんじゃないし」
やっぱり、とても良い人のようだ。その言葉が彼の本心を表していることを雰囲気や表情、仕草の全てが物語っている。けれど、何もしないというのは私が許しても、私は許さないみたいだ。
「ううん、お礼はさせて。助けてくれたんだから。むしろお礼はしたいの」
「……って言ってもね。うーん、じゃあ、何か奢ってよ。甘いものがいいな」
「佐藤くん、甘いもの好きなの?」
私の中では甘いもの好きの男の子っていうのはやはり意外なタイプであった。ちょっと興味が湧くというものだ。
「うん。あ、でも今じゃどこも開いてないか……」
「え、今なの?」
私は驚いて彼の顔を見た。後日どこか落ち着いたところで、ということだと思っていたからだ。つまり、お礼に喫茶店デートって感じで。
「だって後日ってのは……神谷さんが嫌じゃない?」
「私なら別にいいから、今度にしましょう」
「そう? じゃあ、神谷さんおすすめの店ってあるかな」
私は記憶の中から甘いものがあった美味しいお店を探す。由里はあまり甘いものは食べないので中々見つからない。いや、あそこなら……
「ガトーショコラが美味しいお店が」
「うん、じゃそれがいいな」
佐藤くんは満足そうに頷いた。
「じゃあ、今週の日曜日はどう?」
「大丈夫」
「それなら朝の10時にここの駅に来て」
「ここ?」
「そう。丁度この駅から歩いてすぐなの」
話はテキパキとまとまったが、次の駅に着いてしまった。駅の間隔が狭いので十分程しか歩いてない。そしてこの駅から歩いて五分程のところに喫茶店がある。そこのガトーショコラが美味しく、コーヒーも中々美味しい。軽い昼食もとれるのでよく利用していた。丁度この駅だったので、歩いているうちに思い出すことが出来た。
「じゃ電車に乗ろっか。時間もあまり余裕はないみたいだしね。あ……電車大丈夫?」
昨日の今日どころか、さっきの今だ。確かに、あまり乗りたくはない。ないけど、たぶん大丈夫だと思う。
「大丈夫」
「じゃ、行こう」
私は彼の後を追って改札へと入っていった。