二章:好きと嫌いと(5)
彼の一言に目線がこちらへと集中する。最初は驚きの表情だったのがすぐに、1:3:6程で怒り、無関心、好奇心へと変わる。その視線の不快感にまた耐えられなくなり、この狭い空間の中で逃げ場を求めて、思わず助けてくれた彼の胸に顔を埋めてしまった。彼は最初は戸惑ったようだったが、カバンを持った左手で肩をぎゅっと支えてくれた。彼だけはこの中で唯一味方だと確信を持てる人だった。彼に触れられた肩から伝わる、悪意を持った痴漢の手とは違う、優しさの籠もった人の感触に私の心は少しだけ安らいだ。
ドアが開いた。すかさず彼は痴漢の男と私を連れ素早く電車を降りる。流石にそうなれば立っている人たちも道を空けざるを得ないと判断したのか、難なくドアまで辿り着くことができた。丁度降りようとしたところで我に帰ったのか、呆然としていた痴漢の男は彼の手を振り払おうと手を振るった。
「く……! 誰か! この人痴漢です! 抑えて!」
その言葉に一緒に降りた一人の男性が動き、彼と一緒に痴漢を後ろから押さえ付けた。二人がかりではさすがに歯が立たないと判断したのか、その男は暴れるのをやめた。
「大丈夫?」
「は、はい――」
彼が私に声をかけ、私も我に帰った。どうしよう、神谷由里が痴漢にあって捕まえなかったなんて、抵抗しなかったなんて。そんなか弱い神谷由里など存在しない。同じ学校の人にばれちゃ駄目だ。
「あっ!」
私は肩に掛けられた彼の手を振り払い、改札の方へと駆けていく。今の傷ついた私を癒してくれるその手の温もりが名残惜しかったが、私は彼から逃げた。彼も私が逃げるとは思っていなかったのか、その手は容易に振り払うことが出来た。
「すいません、お願いしていいですか」
彼の声を背に、人の波を掻き分けて進んでいく。早く、早く逃げなくちゃ。すぐ後ろに迫る足音と声が私を呼び止めていた。その時私はもうあまり逃げる気はなかったような気もする。
「待って! 神谷さん!」
「いやっ! あっ……」
肩にかけられた手をまた振り払ってしまった。折角助けてくれたのに。申し訳なくなり、足を止めた。私は逃げることを諦めた。そういえばまだ助けてくれたお礼すら言っていない。
「ごめんなさい。あの、ありがとうございました」
「気にしないで。大丈夫だった? あ、いや、大丈夫じゃないよね……」
私は幾分落ち着きを取り戻した頭でさっき名前を呼ばれたことを考えていた。論理的に考えても向こうは私の名前を知っているということで、もう、逃げる意味はゼロだ。その裏には私自身の感情として彼の優しさに触れていたいという気持ちもあったのは言うまでもない。
「名前――」
「ああ、俺の名前は愁也。佐藤愁也」
「じゃなくて、私の名前」
なんで知っているのだろうか。私の記憶のなかには彼の姿はなかった。つまり今まで会ったことがない。もしくは強い関わりはない。
「ここじゃ嫌だろうから、とりあえず外に出よっか」
私は無言で頷き、彼について普段降りることのない駅の改札をくぐり抜けた。