二章:好きと嫌いと(4)
月曜日、朝、電車内。
私は手持ちぶさたな右手で眠い目を擦る一方、左手では吊り革を掴んで自分の体を支えていた。
この電車、朝の時間帯は学生が多い。会社員やOLも少なくはないが、高校生におされている感じだ。だがそれは決して私の通っているK県立北高等学校が膨大な生徒を抱えるマンモス校というわけではない。一クラスの人数は四十人前後だし、クラスの数もAからFまでの六クラスだ。ちゃんと注意してみてみれば女子たちが着る制服は微妙にデザインが異なっているし、セーラー服も見える。男子たちの方はそれこそ詰め襟にブレザーもいて、そのブレザーも何種類か確認できる。つまり、この沿線には高校の数が多くあるのだ。
それにはこの電車の通る駅が大きく関わっている。この電車が通る駅のうち、ほとんどは都市部から微妙にはずれた所にある。それでいてこの電車は上り電車に乗れば終点の駅で都市部に乗り入れられるような電車である。なので土地が余っていて、交通の便のいいこの沿線に学校が建てられていったというわけだ。だから中にはまだ出来てから二十年にも満たないような学校すらあるのだ。
あれこれいったが、つまり私が言いたいのはこの電車の利用者が多いということである。私が乗るときは既に座席は満席で、吊り革も余すことなく埋まっており、途中の駅で一度でも吊り革が掴めれば運の良いほうだ。なので内側の方の座席の前の位置を確保できた今日はラッキーだと言えるはずだった。とりあえず空くのは後二つ程先、丁度圭織が乗ってくる駅からである。
次の駅が見えてきた。電車は速度を緩め、ゆっくりと止まった。ドアが開き、人が出入りする。これでもしドアの前の辺りにいたのならあっちこっちへと移動し、明らかに限界だと思われるところからさらに詰められるのだが、私は今日はそんなことはなかった。私の代わりにその辺りにいる人が押しやられ、吊革に捕まっている人たちの間に逃げ込んできた。
そこでふと、違和感を感じた。なにが起こったのかを考える前に体が反応した。背筋がぞくりとし、寒気が走る。混雑時にある間違いかと思い、体を少し動かすが、制服の上から私のお尻を撫で回すねっとりとした手つきは離れなかった。
「……!」
痴漢だ。そう叫びたかった。今までは、叫ぶ方だった。この電車では由里は二度、痴漢を捕まえている。その被害者の片方は北高の生徒だったけれど、もう一人は別の学校の生徒だった。そういうことが問題なのじゃなく、その行為が許せないが故の行動だった。けれど、それは…………
私の考えをよそにその手は指先から手の平までまんべんなく私のお尻を味わうようになぞっていた。
――怖い、気持ち悪い、怖い、嫌、怖い、怖い、怖い! 早く、言わなくちゃ、手を掴んで、痴漢ですっ、て叫ばなきゃ!
けれど、頭の中で考えていることが実行できない。後ろを振り向き、睨み付け、その手を掴む。そして「痴漢です」と言う。けれど、怖くて、振り向くことすらできない。それに、もしここで捕まえたなら私が見知らぬ男に痴漢行為をされていたことがこの周りの人たちにばれてしまう。そのときに好奇の視線に晒されることを考えるとまた気が引けた。今まで痴漢を捕まえてきたときには考えもしないことだった。
――そうだ。このまま黙っていよう。
今までと違い誰かが、他の人が損をしたり、被害に合ってるわけじゃない。私が耐えれば、次の駅まで耐えればそれで済む話だ。電車が一本遅れてもこの時間なら遅刻するわけじゃない。
けど、圭織と一緒に登校できない。圭織は心配するだろうか。けど、今の私を見たらきっともっと心配するだろう。たぶん、そうなれば私は耐えられないだろう。圭織の優しさに泣きだしてしまう。そんな気弱で情けない由里を見せるのは流石にまずいと感じた。
それよりも、気持ち悪いけど次の駅まで耐えて、降りて、トイレにでも一度入って心を落ち着かせよう。
――まだ? まだ次の駅に着かないの?
通り過ぎる景色を見るが、いつもなんとなく見ていたり見ていなかったりな景色ばかりで、しかも今は頭が働かない。しばらくの間そうして耐えていると、車掌のアナウンスが入り、次の駅が近いことを伝えた。この状況から解放される、そう考えると少し安心した。
しかし、それが伝わったのか、単に最後に良い思いをしようとしたのか、それとも威嚇のつもりなのか、その手にこれまで以上の力が入り、指を食い込ませるように私のお尻を掴んだ。
「ひっ……!」
気の緩んだところに今までよりも更に嫌な刺激が加わり、思わず声が漏れた。私は慌てて口をつぐみ、右手で抑えた。両隣の人のうち片方の人は耳にイヤホンをつけていたから気づかなかっただろう。もう片方の人は私の方をチラッとはみたが、それは現代社会のルールとも言える、人には極力関わらないを実行し、すぐに視線を手元の新聞に戻した。
ここまで我慢したのだから、ばれたくなかった。この電車には同じ学校の生徒も乗っているのだから。
けれど、その手はその堪え忍ぶ私を見て、沈黙を肯定と都合のいいように解釈でもしたのか、より大胆になってきた。遂にスカートをたくしあげ、その手を中に滑り込ませてきた。そしてショーツの上から撫で、指先が直接肌に触れた。嫌悪感が一気に増した。
――もう、耐えられない、限界。
しかし私にはもうどうすることもできず、吊り革を掴んでいる左手と目にぎゅっと力を入れた。目尻にうっすらと涙が浮かぶ。
――誰か、助けて。
そう思った矢先、目の前に座っていた制服を着た男、いや男の子、もっと言えば男子高校生が立ち上がった。別に、電車はもうホームに入っており、ここの駅にも高校はあるのだから、それは特別不自然な行動じゃなかった。
けど、その男の子は違った。立ち上がると私のあげていて無い、普段左手のある場所へ腕を回し、その後ろで蠢いてた手を掴んだ。そして言った。
「痴漢ですっ!」
後に気づいたことだが、その男子高校生は普段学校内でよく見る制服を来ていて、胸に私と同じ校章をつけていた。同じ学校の生徒だった。