二章:好きと嫌いと(2)
「おはよう、圭織」
「おはよう、由里ちゃん」
圭織を見上げる。互いに挨拶を交わしたというのに、圭織はそこに立ったままだった。私は正面にある椅子を指さした。
「暇ならどう?」
「あ、ありがと。でも邪魔じゃないかな……」
「大丈夫。さあ、座って」
ようやく圭織は椅子を引き、座った。
「じゃあ、私も何か飲もうかな」
そう言って圭織はテーブルに備え付けられたメニューを手に取り、目を通した。その目はしばらくの間右に左にと忙しく動き、開きようもないたかだか一ページのメニューをじっくりと数分も眺めた後、私の方を見た。
「あの、由里ちゃん」
「何?」
私はコーヒーを味わいながら圭織の方を見た。何かを言いたそうな感じだが、中々言いださない。圭織と話をするときはこういうのが多い。何を言うのかわかりそうでわからないのがもどかしい。結局は切羽詰まってか、私に急かされて言うことになるのだから、早く言えばいいのに。若干のうっとおしさを感じながらも、私は聞き返した。なんだかんだ言ったが、私は圭織を友達と思っているからだ。
「圭織、どうしたの?」
「えっと……何かオススメってあるかな? コーヒーは全然わからなくて」
そんなもの私も知るはずがない――と言いたいところなのだが、私は知っているのだ。コーヒー嫌いなのに。
「これがいいよ」
私は圭織がテーブルに置いたメニューの中から一つを指差した。今私が飲んでいるものと同じもので、由里的には朝は迷ったらこれらしい。
「へえ、じゃあそれにしよう」
圭織はそう言ってメニューを手に取り、立ち上がった。一瞬、その行動が理解できなかったが、私は気づき、慌てて離れようとした圭織の腕を掴む。
「こっちが行かなくても呼べばウェイターが来てくれるよ」
「う、うん……そうなんだ……」
私がそう教えてあげると、圭織は不安げな表情を浮かべた。私が考えるにどうやら、圭織は声を上げたくないらしい。私はできるだけ穏やかな口調になるよう努めて、しかしはっきりと言った。
「圭織、ゆっくりでいいから。はっきりどうどうと言えば大丈夫だから」
「あ、うん……。ごめんね」
「それと、すぐに謝らない。別に何も悪いことしてないんだから」
「うん。ごめ……」
圭織はそこまで言い掛けてその小さな両手でこれまた小さな可愛らしい口を抑えた。理解が早くてよろしい。
圭織は少し怯え過ぎなのだと、私は思う。毎日、何でもないことに怯えている。果たして、いじめられるようになってから怯えるようになったのか、怯えているからいじめられるようになったのか。わかるのは今はその両方だということだ。
おどおどしているからいじめグループが目をつける。いじめられるからすぐに謝り、おどおどする。悪循環以外のなにものでもない。新たに友達となった私としては、それが辛くてもいずれは直していかないといけないことだと思っている。
それと、これは友達になってから気付いた――というよりもそうしないと気付けないのだが、親しい、親しくなった人とは積極的に接することができるようだ。些細な話で盛り上がって笑ったり、疑問に思ったこともどんどん質問してきたり……。そしてこれがなかなか、一度決めたことには頑固だったりする。これが圭織の本当であり、いつもはこの魅力的な自分を抑えているのだとしたらそれはもったいないことだし、圭織自身も辛いことだと思う。だから、少しずつでいいので、圭織が周りになれていけるよう、手伝いたいと思っている。
さて、圭織は覚悟を決めたようで、手を上げて声をあげた。上げた手は緊張の性か、異様にまっすぐと、地面に垂直に上がっている。そして顔が真っ赤だ。
「す、すいません!」
圭織の裏返った声に気付いたウェイターが注文を取りに来た。ウェイターは恥ずかしさで顔を更に真っ赤にした圭織が俯いてただ指差しているメニューを確認し、手元の機械を操作した。そしてその名前を繰り返すと、一礼してその場を離れた。
「それで、こんなとこでどうしたの?」
からかったらそのまましょげそうな、何とも言い難い空気があったので、私はそこは気にしないことにして違う話をした。
しかし、単純に不思議だったというのもある。まだ朝も早い。私だって由里にこのような習慣があったからここに来たものの、実を言うとまだ寝てたいぐらいだった。私が疑問を口にすると、圭織はうつむかせていた顔をあげた。
「うん。あのね、今日は予定が何もないから、その、服でも見に行こうかなって思って。由里ちゃんは?」
ウェイターが圭織のコーヒーを運んで来た。圭織は瓶から砂糖をスプーンで二、三杯掬って入れ、更にミルクを一つ入れてかき混ぜた。
「休みの日は朝ここに来るのが習慣なの」
「へえ、由里ちゃん……コーヒー好きなの?」
「まあ……ね」
その圭織の言い方からは何か含みを感じた。単にコーヒーが好きだと確かめたわけじゃなく、ちょっとした疑いを感じさせるニュアンスがあった。
圭織はコーヒーから立ち昇る湯気をゆっくりと嗅ぐようにしてから、カップの縁に口をつけた。それを見た私もまたコーヒーを一口、含んだ。
「あ、美味しい。薫りもとても良いみたい」
「それは。気に入ってもらえて良かった」
「うん。……ねぇ、さっきから気になってたんだけど、それ、甘くないの……?」
圭織が縮こまった手で私のカップを指差した。そういえばさっきもそんな風に言っていたことを思い出す。
「ちょっと、甘いかな」
「だ、だよね、そうだよね。さっき入れてるとこ見てね、ちょっとって」
圭織が苦い顔をする。だが、それは決してコーヒーが苦いからというわけではないだろう。それはむしろ私のだったわけで。
話を戻そう。当たり前にわかるべきで、知識的にそんなことを知るわけもなく。むしろ自問自答――由里である私の部分にという意味だが――すれば「それは自由で、人の好みだ」というなんとも公平な意見。ただし、その後に「私は苦めのほうが好きだけど」と続く。
つまり、私はここで「甘いもの好きはじゃない、本当は苦いほうが好きなの」とか言わなければいけないわけなんだけど、既にこれを見られちゃったわけである。
そこまで考えて疲れてしまった。どうやっても話しに決着が付きそうではない。私の好みについては保留。とりあえずはこの場を切り抜けないといけなかった。これから一々こんなことで頭を使うわけにはいかないのだから。
「いや、普段は苦めなんだけど。たまには甘いのもって思って」
「それで」
「そう。加減がわからなくなっちゃって」
「ふーん、そっか」
とりあえずはこれでいいだろう。苦しいのはわかってはいるが、これ以上は無理だ。このままだと私は由里になる前に嘘の名人になりそうだ。
「なんか、やっぱり由里ちゃんってお茶目なんだね」
「そ、そう?」
駄目だ、それじゃ結局由里らしくない。私に嘘の名人になるのは無理そうだと判断し、話を逸らす名人を目指すことに方向修正した。ついてしまった印象は仕方ないし、これ以上はまた墓穴を掘ることになりかねない。
「ねえ、それより私も行ってもいいかな」
「え?」
「ショッピング。私も夏物の服を見ておきたくて」
さっき圭織からその話を聞いたときからそう考えていた。夏物の服が不足していたのは確かで、いつかは見に行きたいと思っていたし、何より圭織と一緒に出かけるのが楽しみだった。それに話をそらせるなら、これに越したことはない。
断られる可能性というのも考慮しておいたほうがいい。自分にそう言い聞かせた。最初から駄目な可能性を考えておけば、そのときのダメージは少ない。圭織の方を見ると、それが取り越し苦労となったことがわかった。
「全然いいよ! 私からお願いしたかったくらい、一緒に行こう?」
「じゃ、もう行こうか」
私はそう言うと一気に残りのコーヒーを口に含んで立ち上がった。服を買いに行くにしては家を出るのは少々早い。おそらく、結構遠くまで行って、多くの店を回るつもりなのだろう。圭織も同じようにして残りを一息で流し込んだ。
「あ」
圭織が不意に声を上げた。その目線を追うと私のカップに辿り着いた。その中には申し訳程度に残った僅かなコーヒーと、溶け残ったと思われる白い固まりが、カップの片隅に残っていた。