五章:ひとつひとつ(6)
昼休みが終わり、昼食後の授業。黒板には数式の羅列が今も増え続けていたが、それを解説する先生の話に耳を傾けている生徒はそれほどいなかった。さらにはそれを写している生徒となればさらに少数派だ。
大半の生徒はノートを広げてはいるものの、ペンを持ちながら船を漕いでいる。彼らは時たま意識を取り戻し、遅れたぶんのノートを焦って書き写している。幾人かははなっから諦めているらしく、机の上で突っ伏している。そうしている生徒が授業を聞いていない生徒の半分。まだ残暑といえる天気のせいか、教室の窓は開け放たれている。そこから偶に入る風が気持ちよく、ちょうど良く、お腹を満たした高校生の睡魔を呼び覚ませているようだった。
もう半分の生徒は思い思いのことをしていた。他の教科の内職をしているものあり、パラパラと興味なさ気に数学の教科書をめくっているものあり、机の下で携帯電話をいじっているものあり、本を読むものもあり、ゲームに熱中するものすらあり。
先生の方ももう諦めているのか、黒板を消すときはいくつかのブロックに分けて消しているし、消すときにはわざわざ確認すらとる。授業以外のことをしている人がいてもうるさくなければ黙認する。彼にとって、授業は聞きたい人が聞けばいいらしい。義務教育ではない、高校だからこそである。そう、試験前など、特別な時期ではない、つまりは普通の時期の、昼下がり。普通の高校の日常だ。
その平和な空間で私は迷っていた。いや、今も現在進行形で迷っているし、選んだ後も迷い続けるのだろう。それが正しい判断だったのかと。それは全てにかたがついてみないとわからない。
しかし、私は今明らかに何らかの行動を起こさなければいけないことは確かだった。そしてこうして授業を受け続けることを選択したのだ。それは消極的な選択だ。言い換えれば決断の保留とも言い換えられる。こうして授業を受け続けることがある面で優位な選択肢になり得る可能性はあるが、私は本心からそれを選んだわけではない。ただの言い訳、決められない私の言い訳にしているだけだ。
わかっていた。いずれこういう場面が来るということは。むしろ、今まで起こらなかったことが珍しいというだけだ。ただし、私はそれを必ずしも幸運だとはいえない。なぜなら、もっと早い段階で同じ状況が起きていたというなら、私はこの場面で迷わなかったということもありうるからだ。こうして、長い時間が経過してしまったからこそ、私は彼女らと知り合った。この世界、この今の環境に慣れきってしまった。それが変わらないことを、無理ならば、せめて今に近い環境を残せるよう、求めてしまう。
しかし、言い換えればここまで何も起きなかったからこそ、裕子と、千晴と知り合えたのだ。家族に、溶け込めたのだ。もっと早く何かが起きていたら、愁也君と一緒に喫茶店でケーキを食べるなんてことはできなかった。知り合えなかった。最初の襲撃で何かがあったのなら、圭織という、今は唯一無二の親友と呼べる彼女との今の関係はなかった。もし、もし――
キリがない。例えそうだったとしても、それもあくまでも可能性の問題でしかない。
私は愚かだろうか。本来、この役目につく人間はこのような感情を持ってはいけないはずだった。それが弊害となって与えられた役目を果たせなければ、それは世界、いや――文字通り『全て』への裏切りに他ならない。何を言っても無意味。責任を負うことに代わりない。その責任は一人が、いや、どんな一個の生物であれ、種族という括りであれ、星であれ、世界であれ、抱えきれないほどの責任。そしてその責任は負ったと同時に返す相手すら、負うべき自分すらなくなってしまう。
だから、冷徹でなければいけない。普段は人間らしくても、自分の役目に関することでは全てを冷徹に。なのに、この感情を持ち始めたのはいつか、原因は何か。圭織と出会ったこと? いや違う。それが確かに持ち始めたきっかけだろう。しかし、すでにこの世界に来た瞬間から、私の役目は始まっていた。だから、本来ならばその時点で受け入れられるような状態であることが、異常なのだ。
だから、それを持つことができるようになった、持ちたいと願った、私の中にできた穴を、それで埋めたいと思ったのはそれよりももっと前。彼の、あの事件。
「違う……」
突如呟いた私に周りの生徒は怪訝な目を向ける。しかし、すぐに私に対する興味を失ったのか、それぞれのしていたことに戻った。人は思ったよりも他人に注意を払わない。自分のやりたいことが最優先なのだ。もしやたらと絡んでくる人がいるとすれば、それはその人の興味の対象であったり、人付き合いが好きだったりなのだろう。
今は私がこうして不気味に呟いても、さらっと流される。では、急にこの席から見えるあの空に、亀裂が入ったらどうだろうか。そこから、何かが飛び出してきたら。そして私が、不思議な力で、この世界の人間では未だ到底理解できない物理法則を伴った力で、その飛び出してきたものと戦い始めたら。それはさらっと流せることだろうか? 興味の対象にならないのだろうか?
私はそれを恐れている。しかし、違う。恐れている場合ではない。今はどうするかを決めなくてはいけない時なのだ。
全てを無視して、『全て』を守るとするならば、私は推定される時間に付近で待ち構え、それを撃退すればいいのだろうか?
それは違う。
場所は空なのだ。雲ひとつない、空。そんなことをすれば、たちまち騒ぎになるだろう。空中に浮かび続ける少女。それはなんとか隠すことができる。自分の周りをカモフラージュするのはそれほど難しいことではない。しかし、それは私が動かない前提の話である。戦闘ともなれば私は高速で動かざるを得ないだろう。それに応じて私の姿を隠し続けるのは難しい。そこに私の意思が存在しない向こう、化け物の方は元々隠せない。
つまり、そんな馬鹿正直な真似をしてしまえば異変に多くの人が気づくだろう。そうすれば私は今後やりづらくなる。
ではまたあの空間を作り出すか。
それが正解なのだろう。
しかし、もしそうするのならばまた私はその空間を地面にまで広げることとなる。元を歪み以外から作ることは不可能だし、空間を維持したままさらに私の体を浮遊させ続けて戦うことは不可能だからだ。そうしてしまったら、私はその広げた空間内の人を巻き込まざるをえない。前回は不手際により圭織が巻き込まれたが、今度は昼時、どこに戦いの舞台を選んでも人を回避することは難しい。そして一人すら自分ひとりの力では守れなかった私が、何も知らない、おそらくパニックに陥るであろう多数を守ることは――不可能だ。
そうなれば、私は犠牲を伴うことになる。
犠牲といえば、既に犠牲は出ている。私を由里だと信じて接している人たちの心。そして、由里。私の中で由里は私を許し、『由里』となることを認めてくれた。両親を安心させたことや、偶然とはいえ親友が庇う形になった命を無駄にしなかったことに対する感謝の気持ちも、直接ではないが感じる。しかし、由里はあそこで死んでいれば楽になった。そうも言える。だから、私の中では由里は犠牲になった一人だった。でも、既に『私』となった今、由里の感情を、感謝を受け止めている今、私にとってその犠牲に対する責任は忘れることはないが、容認できるレベルにまで落ち着いている。
しかし、今度は違う。全くの第三者が、犠牲になるのだ。一言で言ってしまえば、運の悪い人たちがだ。そして他の人たちは生き残る。私はその責任に耐えられるのだろうか?
突然、周りの生徒が立ち上がり始めた。知らぬ間に授業が終わっていたようだ。それから遅れてチャイムの音が聞こえてきた。
どちらにせよ、決断の時は近づいていた。