五章:ひとつひとつ(4)
私たちは案内された席に座り、とりあえずメニューを開いた。頼むものは既に決まっていたが、ここは初めて来たお店。確認しておくのが礼儀というものだろう。
メニューは文庫本サイズの小さなものがひとつ。見開きがあるわけでもなく、見開き一ページの左側に軽食が、右側にドリンクが並んでいる。特にイラストなどがあるわけでもなく、品名と値段のみというのが自信の程を感じられる。裏返してみてみれば、表紙にあたるその部分には一面の白地に控えめに書かれたイタリック体のMenuという文字、裏にあたる部分には四葉のクローバーというシンプルさ。これも私には好印象だった。
「あれ?」
ふと不自然に思い、そのクローバーの部分を指でなぞってみると、僅かな凹凸を感じた。どうやらこれは本物の四葉のクローバーを押し花にしているようだった。私はその小さな発見に喜び、自分の手柄を自慢するかのように彼にそれを伝えようとした。
――ねえ、ほらこれ。
そう口に出そうとしたところで私はその言葉を飲み込んだ。見れば、彼も同じように微笑みながら指先でクローバーをなぞっていたからだ。その姿を見て私は表情をよりいっそう綻ばせる。
「ん? どうかした?」
私の視線に気がついたのか、彼はその私の微笑みの意味を問うた。
「ううん、素敵だなって思って」
「うん、そうだね。なんだかオシャレだ」
彼もまた表情を崩した。すると、私はわけもわからずに戸惑ってしまう。ただ、彼の笑顔を見るだけで。そのことで、改めて思う。私は、『私』は、本当に彼に恋しているのだと。彼と一緒にここにいるということが楽しい。彼の表情を、仕草を見ているのが楽しい。ここに来るまでは到底考えられなかったことだった。何がきっかけかと聞かれれば、思い出したくもないあの電車内の出来事がきっかけなのだろう。助けてくれた彼がかっこよかったというのもある。しかし、そうでなくても、何か別のきっかけだとしても、彼のことを知れば、話せば、彼が好きになったはずだ。私にはその確信があった。
彼がくすっと笑う。私は咄嗟に口を押さえた。考えが知らずのうちに口に出てしまっていないかと不安になったのだ。私の口は開いていない。ということは、顔を見るだけで何を考えているかわかるくらいの表情をしていたのだろうか? 自分の頬から伝わる高まった体温を感じ取り、私は思い当たる。
――ああ、また顔を真っ赤にしていたのだ。
これで何度目だろうか。もう体が癖になってしまったかのようだ。私は目線をメニューに一度戻し、音をたててそれを閉じた。
「決まった?」
「ああ、うん。由里は?」
「私は前もって決めてた通り」
彼は私に何を聞くわけでもなく、逸らした私の話に続けた。いや、続けてくれた。普段は積極的にからかってくるというのに、ここぞというときに見せるその優しさが心地よい。と思う反面、もはやそれが物足りなくもある。少しだけ、からかわれたいという気持ちがある。これは、もう彼にコントロールされてしまっているのだろうか。それとも、私にはマゾヒストの傾向があったりするのだろうか?
そんな冗談を頭の中で繰り広げ、一蹴してようやく私は落ち着きを取り戻した。
「すいません、注文お願いします」
「はい」
シックな装いが良く似合うウェイトレスが返事をする。ちょうど隣のテーブルにドリンクを届け、一礼したところを彼が呼び止めた形だ。彼が注文を告げ終えると、ウェイトレスは私たちに一礼し去っていった。
「全体的に雰囲気がいいね、このお店」
それは今のウェイトレスも含めて、ということだろうか? それとも単に話題のひとつとしてだろうか? ただ、そのことで私が嫉妬してみせても、彼が軽くいなすことはもうわかりきっていた。学問という分野や思考速度では私のほうが彼の届き得ない高いレベルに達しているにも関わらず、こんなことでは簡単に彼に言い負かされてしまう。なんというか、告白したのは向こうだとしても、惚れているほうの弱みというやつだ。
「そうね、噂どおりケーキが美味しければ完璧」
「そしたらまた来ようか。チーズケーキ以外にも食べたいメニューがいくつかあるし」
「私も。……ほら、あの隣の人が食べているパンケーキなんかも凄くおいしそう」
なんというか、「由里」の殻を脱ぎ捨て、甘いものが好きということを公言してまわれるようになった私としては、愁也君はその点でも最適な彼氏、パートナーだった。こうして二人で色んな喫茶店や、甘味処を回って本心から感想を言い合える。私が知らないお店に連れてってもらえるし、愁也君を私の好きなお店に気兼ねなく連れて行くことができる。笠原さんではないが、「甘いもの好きな彼氏サイコー」というところだ。
「失礼します。こちらケーキセットになります」
私たちの前にそれぞれチーズケーキがひとつずつと、それぞれ頼んだ飲み物がおかれた。今日の私のはアイスカフェオレ、愁也君のはホットコーヒーだ。
愁也君はいつもどおりにコーヒーにシュガーを一本と、ミルクをひとつ入れてゆっくりとかき混ぜる。コーヒーのいい匂いが私の方にも漂ってきたところで私はフォークを手に取り、最初の一口目を食べた。
「あ、美味しい……」
チーズの程よい酸味が口の中に広がる。強すぎもなく、弱すぎもない、絶妙な匙加減だった。前評判は伊達じゃないということだ。後でちゃんとみんなにそう伝えなくては。
「ほんとだ」
彼もケーキを口にし、味わっていた。そこから先は私たちの間に会話はない。とりあえずはケーキを食べ終わるまで、何も口を挟まない。フォークがケーキと口の間を行ったり来たりし、たまに飲み物を口にし、そうしている相手の姿をたまにチラッと見る。だいたい、その表情を見れば何を考えているかはわかる。それは永遠の悩みだ。早く次の一口を食べたい、けど無くなるのが惜しい。そう考えている間にも目の前のものはみるみるうちになくなり、私たちの至福のときはひとまず終わりを告げるのだ。
それからは残った飲み物を飲みながら互いに感想を言い合い、言い尽くしたら後は普段どおりに思いのままに話す。お互い特に用事がなければもう一杯くらいドリンクを頼み、日が傾いてきたらどちらからともなく話を切り上げ、帰宅の途に着く。電車では彼が先に降りるため、私が家に着くのとはちょっと早くお別れの時間が来る。
「じゃあまた明日」
「うん、学校で」
いくら時間があっても相手に伝えたいことは伝えきれず、また翌日機会を見つけて話す。そうしている間にもまた伝えたいことは増えていく。
やはり、間違いなく私は彼に恋をしているのだろう。