或る夜の夢・ドライブ マイ カー
夢の話をしようと思う。
その夢の中では、自分は多分「男」だった。
自分の姿かたちが外から見えているわけではないが、自我としてまた夢の中の設定として、「男」として存在していたと思う。
視界はもやもやとして、だだっ広い野っぱらを霧でぼやかしたようなよくわからない風景が広がっている。霧を透かして、電柱が並んでいるのが見える。
いつの間にか、目の前にうすぼんやりした人影が突っ立っていた。
手を伸ばすと、指先は人影を突き抜けた。
「触るな」
人影は言った。触れていないのに、だ。そして素っ頓狂なことを聞いてきた。
「お前に質問がある。答えないわけにはいかない質問だ」
「あんたは何者だ」
「質問をする者だ。いいから答えなさい。まず、好きな平仮名は」
「ひらがな?」
平仮名に好きも嫌いもない。答えかねていると
「例えば、あ は」人影は黒い口を開けて聞いてきた。
「あ、だと。あんな何も考えていないくせに妙に楽観的で、何か問題が起きるとすぐ人のせいにしそうな無責任なのは御免だ」
聞かれるとすらすらと答えが出て来た。
「じゃあ い は」
「半人前のくせに世を拗ねて、自分のうちに閉じこもっている。嫌いだね」
「じゃあ か は」
「これといって何ができるわけでもないのに自信家で気が短く、すぐ人の上に立とうとするだろ」
「さ はどうだ」
「余計なお世話が好きで、自分は何事もそつなくできると思ってる、口数の多い奴。鬱陶しい」
「面倒なことを言うなあ。じゃあ、よ は」
「よ? 何を言われても、ああそうですかわかりましたよわかってましたよと、すぐに臍を曲げて、物事を悪い方にばかりとる。嫌な奴だ」
こんなに平仮名に個性を感じていたとは、聞かれるまで自分でも知らなかった。
「よし。じゃあ最後の、ん はどうだ」
ふむ。
否定ばかりしていた自分の口が止まった。
ん。嫌いではない。いいかもしれない。
なにしろ、いろいろと自分勝手でうるさい五十音の最後だ。もう後はない。誰と自分を比べることもせず、口を閉じて、最後の最後に甘んじている。この言葉から始まる単語はない。
自分自身も、なにか、そろそろ最期を迎えたい、静かな世界に行きたいと思っているふしがある。そのことに、気づいた。
「嫌いじゃない。ん なら付き合えそうな気がする」
「よし、んでいいんだな。じゃあ、好きな数字は」
「今度は数字か」
自分は素直に考え込んだ。数字を思い浮かべると、やはりひとつひとつに嫌な性格が見え、色まで重なって見えてくる。
例えば1は緑色、楽観的で自信家だ。4は黄緑で控えめだが気が弱くすぐ流される。7はブルーで上品だが孤高を気取ったところがある。8は赤紫で面倒臭い奴、すぐかっとなる。
「わかった。ゼロだ。あとはうるさくていかん」
「うるさいか。ゼロとね。正確に数字とは言い難いし多少規則違反だが、まあいいだろう、じゃあ0000でいいか」
「四つ? 何でその並びなんだ。まあ、いいよ」
「じゃあ次。好きな場所を言ってくれ」
「好きな場所? 特にないな」
「なくてはダメなんだ、完成しない。質問はこれで最後だ。さあ、言ってくれ。今どこへでも行けるとしたら、どこへ行きたい」
「どこにも行きたくないんだ。以前は温泉とか外国のカテドラルめぐりとか南極とか行きたいところがあったけど今は何にも興味が持てない。強いて言うなら、深海、かな」
「海の底か。かなり行き詰っているんだな」
「余計なお世話だ、深海魚のけったいな面が見たい。面白いじゃないか」
「よし、揃った。じゃあ」
うすぼんやりした人影は自分の後ろ側に回ると、だんっと背中を掌で思いきり叩いた。その勢いで体が前につんのめって転びそうになった。
「いたっ。痛いじゃないか」
「さて、ついた。お前さんのナンバーだ。深海00 ん 00-00」
……なんだ。まるで、……車のナンバー?
「このナンバーではなあ。お前さんのドライブの行先は、あまりめでたいことにならないぞ。なにしろ深海だからな」
……あ?
いつの間にか自分は、車の中にいた。運転席に座り、シートベルトを締め、ハンドルを握っている。
「じゃあ、ナンバー通りのいい旅を」
窓の外から、人影が黒い口を開けて言った。
いつの間にかエンジンがかかっており、車全体がブルンブルンと震えている。
「用意はいいか」
「いいかって……」
えい、自分で選んだ道だ。もうどうにでもなれだ。
多分自分はこのまま、行くしかないんだ。
アクセルを踏み込んだ。
影人間が手を振るのが見えた。
車は滑るように走り出した。スピードが勝手にどんどん加速する。
ここは日本なのかそうじゃないのか。時々目の前をタンブルフィードがころころ転がっていく。道の左右で霧がうねうねと渦を巻いている。
……それにしても、自分は、そんなところに行きたがっていたのか。
いつの間にか霧は薄くなり、目の前には一本の道が続いていた。砂利と石ころの、味気ない道が、果てしなくまっすぐに。
道に沿って、やはり電柱が続いている。電柱でもあったほうがいいかない方がいいかというと、ない方がましなぐらい、アメリカの荒野にありそうな背の高い味気ない電柱だ。
前へ、前へ。どこまでも前へ。このまま行けば、……行けば、どこへ行くんだ?
突然、道の先に割れ目があるのが見えた、近づくとその割れ目は幅の広い裂け目であることがわかった。幅は20メートル以上はあるだろう。潮の香りがする。裂け目の下は海らしいことが分かってきた。激しく打ち寄せる波の音が聞こえてくる。
落ちる。このまま走れば裂け目の海に落ちる、落ちるんだ。ブレーキを踏みこむ。止まらない。車はますます加速した。
目の前に断崖が見える。断崖の手前は、スキーのジャンプ台のように跳ね上がっている。車はその跳ね上がりに向けて突っ込んでゆく。
「う、うわあああああああ」
上に向けてカーブした大地を前輪が踏んだと思った途端、車は宙に跳ね上がった。終わりだ。深海へ。なぜあんなことを望んだんだろう。ああ、自分には配偶者と、大事な子どもがいたはずだ。猫もいた。そうだ、三毛と縞三毛……それと灰色の……あとスコティッシュ……
帰って、餌をやらなければ……
車は見事な軽さで宙を飛んだ。その瞬間、世界はスローモーションになった。地面にも、海にも、届かない。乳白色の中を浮いている。
餌を、餌をやらなければ。
次の瞬間、だあんっと大きな音を立てて、車は対岸に着地した。
……助かった?
勢いのまましばらく走ると、さあっと霧が晴れていった。目の前に緑の森と赤いとんがり屋根の家々と、青々とした山が見えてきた。
もう霧は山の上のほうにうつり、視界はクリアだ。
「助かった……」
そう呟いたとき、さわさわと揺れる花畑の中で、車は止まった。名も知らない、白とピンクの紙細工のような花々。
ドアを開けて、おずおずと外に出てみる。
風が気持ちいい。花の香りがかぐわしい。モルフォのような青い蝶々が舞っている。
なんだ。もしかしてここは……
自分はひとっ跳びに天国に来ちまったのか?
すると、あの影のような人物が、相変わらず影のままで、自分の傍に立っていた。
びっくりしてここがどこか尋ねようとすると、影は自分の手を引いて車の前に回らせた。
「飛びきったね。ナンバーを見てごらん」
ナンバー?
見ると、ナンバーの平仮名は「わ」に変わっている。
あとは、深海のところが、自分の住んでいた地域だ。多摩。
ナンバーは、00-01。
「なんで、 わ なんだ? これって確か……」
「わ ナンバーは、レンタカー。お前さんの車は海に落ちる予定だったが、飛ぶのに成功した。予定が変わったが、あとはレンタカーの旅。つまり、これからの日々は天からの借りもの、おまけの人生だ」
「おまけの人生……」
「せっかくおまけで手に入れた時間だ。心新たに生きてみるんだな」
車の中で思い浮かべた家族と猫たちを思い、胸がほんわりと温かくなった。
その瞬間、気づいた。
なんだ、そうか、これは夢だ。
ここは夢の中の世界だ。
振り向くと、あの影人間は消えていた。
自分はくっと微笑みながら運転席に戻り、ハンドルを握りしめた。
よし、走ろう、どこまでも。
走って走って、あてどもなく走って、目が覚めたら、そこが家だ。
起きたらまず四匹の猫たちのために、牛肉入り純缶のふたを開けてやろう。




