#488 「兄さんも大変やなぁ」
衣擦れの微かな音で目が覚めた。隣りにあったはずの温もりは既に無く、その残滓が微かに感じられる。俺が彼女の温もりを探していることを察したのか、温かな手がするりと俺の手を捉えた。なんだか安心してその温かな手をニギニギとしていると、フサフサとなにか柔らかいものが空を切る音が聞こえ始める。
「……おはよう」
「おはようございます、我が君」
目を開けると、俺のTシャツを羽織ったクギがベッドサイドから俺に笑顔を向けていた。フサフサという音は彼女の三本の尻尾が立てていたものらしい。
頭の上の狐のような獣耳はピコピコと機嫌良さげに動いているし、金色に輝く瞳は活力に満ちてきらきらしている。今日もクギは絶好調のようだ。
「うふふ……」
寝起きでぼけーっとしたままクギの手をにぎにぎとしていると、クギに笑われてしまった。昨晩はあんなにクギをいじめたのに、朝になったらこんなに甘えて……とか思われているのかもしれない。いや、いじめたって本当にいじめたわけじゃないけど。クギは誘い上手なんだよ……むしろ俺が彼女の手の平の上で転がされているのかもしれん。
「起きるかぁ……」
「はい、我が君。湯浴みを致しましょう。お背中お流ししますね」
「そりゃ朝から楽しみだ」
心の底からそう思う。まぁ、お楽しみの後には気が重い出来事が待ち構えているんだがな。
☆★☆
「婚約者となるクリスティーナ様がいるというのに、他の女性と同衾を……?」
「……」
クギと一緒に楽しく朝風呂に入り、二人揃って休憩スペースにまで足を伸ばしたわけだが……そこで俺の気が重くなっていた原因と遭遇した。
遭遇するなり、二人分の鋭い視線が俺の顔に突き刺さってくる。一人は格式高そうな騎士服を着込み、実際に腰に剣を差している茶髪の癖っ毛が特徴的な美人さんの女性騎士で、もう一人はメイとは少しデザインの違うメイド服を着込んだ少しばかり目付きの悪い長身の金髪メイドさんだ。
「クリスと同衾するわけにはいかんだろ……それに、クリスは俺達のこういうライフスタイルを百も承知で俺との関係を構築しようと考えているわけでな」
「そうですけど、蔑ろにされて嬉しいというわけではないですよ」
婚約者(予定)がそう言いながら頬を膨らませ、ジト目を俺に向けながら両手の人差し指で俺の胸や腹をズドドドドッと突いてくる。地味に痛い。というか何故人差し指。俺の経絡秘孔でも突くつもりなのか?
「別に蔑ろにしているわけじゃないだろ。だからこそ隠しもせずにこうして普通に接しているんだし」
「むむむぅ……つまりこれは、私がヒロ様のライフスタイルに耐えられるのかという試練というわけですね」
「試練ってのは大げさ過ぎる物言いだと思うけどな」
俺の胸や腹を人差し指で突きまくるのを止めた婚約者(予定)もとい、クリス――クリスティーナ・ダレインワルド次期女泊を前に肩を竦めてみせる。
正直なところを言うと、クリス達が乗船している間の営みに関しては自重するか、それとも普段通りにするかで意見が割れた。ミミとメイとティーナ、それにクギが普段通りにするべきだと主張し、エルマとウィスカは自重することを主張した。ショーコ先生とネーヴェ? あの二人はニヤニヤしながら事の推移を見守っていたな。
普段通りにしようと主張するクルーの方が数が多かったというのもあるし、俺もそうするべきだと思ったのでまぁいつも通りというかスケジュール通りというか、女性陣で決めた順番通りに昨夜はクギとイチャイチャしたわけだ。
どうしてクリス達を乗せているというのに自重をしなかったのかと言うと、今後クリスと順調に婚約者としての契りを結び、更にその先に進んで婚儀も終え、夫婦関係になったとしよう。
もしそうなったとしても、俺は傭兵稼業を辞めるつもりは今のところ無い。少なくとも、現時点では。何故なら、俺にはまだ追い求めるべきものがあるからだ。
そう、コーラである。黒くて甘くてスカッとした酸味を味わえる魅惑の炭酸飲料である。
クリスと結婚すればダレインワルド伯爵領にある居住惑星の何処かに庭付きの豪邸を建て、そこで悠々自適の結婚生活を送ることは可能だろう。だが、そこにコーラはあるのか? いや、無い。俺の命の水たるコーラがなければ、俺が求める庭付き一戸建ての平穏な生活というものは完成しない。コーラが無ければ――おっと思考が逸れたな。
「とはいえ、その認識も当たらずとも遠からずってところだな。結婚後も俺はライフスタイルを変えるつもりはないし、そうなればクリスと離れ離れになる時間は自ずと多くなる。クリス以外の女性と関係を結ぶこともな。それに耐えられないなら、俺と関係を構築するのは考え直した方が良い。それが純然たる事実だ」
この場だけ取り繕っても仕方がないんだよな。クリスが一緒だから自重する。ほんの短い期間なのだからその間くらいはクリスに配慮すべきなのでは? という意見にも一理はあると思うけど。
「勿論、私だってそれはわかっています。でも夜の手番は譲ったんですから、今度は私に手番をくれても良いですよね?」
「それはー……そうね」
俺の返事にクリスはにっこりと極上の笑みを浮かべた。
☆★☆
「それでクリスちゃんが朝からずっとくっついているんですね」
クリス達を伴って食堂で朝食を取り始めたところで少し遅れて食堂に到着したミミが、俺と、俺の隣に座ったクリスの対面に座りながら納得したように頷く。
「ヒロ様が普段どういう生活をしているのかお勉強をさせてもらっています」
クリスが俺の隣で胸を張ってミミにそう答えた。二人の胸部装甲の厚みの差に関してはコメントを控えるが、大戦艦と駆逐艦という言葉が脳裏に浮かんでくる。以前は大戦艦とコルベットくらいの差だったので、順調に育っているといえばそうなのだろう。既にエルマとは並んでいるか、勝って――。
「いてっ」
「オホホ。何か不快な波動を感じたからついつい手が出てしまったわ」
ペシッ、と俺の頭を叩いたエルマが俺の隣――クリスとは逆側――に座る。今日も朝からパワフルな食事内容だ。不快な波動ってなんだよ、不快な波動って。いつの間にテレパシー的なサムシングに目覚めたんだ、エルマは。
ちなみに、クギは俺達と一緒に食堂に直行しないで研究室にこもったままのショーコ先生を呼びに行った。あの人、研究に熱中し始めると飯も食わずに延々と何か作業をしているからな。気がついた時に様子を見に行かなきゃならんのだ。
「兄さんも大変やなぁ」
「あの、私達のことは適当で良いので……」
「いや、適当にはしないけども」
ティーナはともかく、ウィスカは見るからに貴族のお嬢様って感じのクリスが若干苦手らしく、ティーナと一緒に少し離れた席に座っている。控えめで穏やかなのはウィスカの美徳でもあると思うんだが、あまり過剰に引くのもな……ティーナくらい図太くなれってわけでもないんだが。
「そんなに熱心に見つめられたら照れるわー」
「おう、そうだな。ティーナはいつも可愛いよ」
「えへへ、あんがとさん」
ティーナが少し顔を赤くしてはにかむように笑う。うん、可愛い。そしてそんなティーナを見ながらクリスが参考になりますみたいな顔をしている。いや、クリスにあのノリは無理じゃないかな。
☆★☆
「で、まぁ真面目な話なんだが。ダレインワルド伯爵にはどの程度話が通っているんだ?」
食後、トレーニングルームでの運動を終えて休憩スペースに移動した俺はクリスにそう聞いてみたのだが……俺の質問にクリスはついっと視線を逸らした。おい、冗談でもやめろ。
「あはは、冗談ですよ。お祖父様はちゃんと事情を把握していらっしゃいますし、私とヒロ様が婚約を結ぶことにも当然賛成していらっしゃいます。ただ……」
「ただ?」
「家臣の全員が納得しているのかと言うと、それはまた別の話で」
そう言ってクリスが肩を落とす。
「なるほど……?」
なるほどと言いながらも俺は首を傾げた。ダレインワルド伯爵家の家臣ということは、恐らくは子爵以下の寄子というやつなのだろうが、そういった家臣達が主家の婚姻話に嘴を突っ込んでくることなどあるのだろうか? あるのだろうな。クリスが懸念事項として口に出すということは。
「何が問題なんだ? いや、俺の身分というか立場は次期女泊の伴侶としては問題だらけなんだろうが」
「ヒロの立場が問題っていうよりも、あわよくば自分の家の人間をクリスの婿として押し込んで、ダレインワルド伯爵家の派閥内での立場を盤石なものにしようって連中がいるんでしょ」
「えーと、まぁ、その、皆に悪意があるわけではないんですよ? 無論、打算的な部分もあるでしょうが、主家の危機である今こそ家臣たる我々がお支えする時、と純粋にダレインワルド伯爵家のためを思っている家も多いです」
ジト目で向けてくるエルマにクリスが苦笑いを浮かべながらパタパタと両手を振る。だが、クリスからしてみれば有難迷惑なのだろうな。自分で言うのもなんだが、クリスは俺と身を固めたいと思っているのだから。
「だが、臣下達の言うことにも一理あるというか、何の後ろ盾もない文字通り名ばかり貴族の俺がクリスの伴侶になったところで、ダレインワルド伯爵家の窮状を打破する助けになるわけじゃ……いや、ダレインワルド伯爵家って窮状にあると言うほど危機的な状況なのか?」
「ある意味では。私が子を成さずにこの世を去った場合、下手をすればお家の断絶に繋がりかねないので。尤も、家臣の中にも代を遡ればダレインワルド伯爵家の血が入っている家が多いので、その時には家臣の中から適切な人材が選出され、ダレインワルド伯爵家を次ぐことになるかと思いますが」
「それって、一つ間違えばクリスを暗殺してダレインワルド伯爵家を乗っ取ろうなんて連中も出てくるんじゃないのか?」
俺の素朴な疑問を耳にしたエデルトルートとマーリオンからチクチクとした意思を感じる。これはアレだ、彼女達から発せられる怒気が俺に刺さってるんだな。俺のサイオニック能力も順調に伸びてるからな。これくらいは肌で感じられるようになってきている。
「流石にそこまで考えているような家は無いと思いますが、可能性としてはゼロではありませんね」
「なるほど。まぁその点は横に置くとして、ダレインワルド伯爵家の血統が途切れかねないという点以外の問題は?」
「細々としたものは無数に。ただ、彼らが問題視しているのはヒロ様をダレインワルド伯爵家に迎え入れたところで、ダレインワルド伯爵家に利するところが無いという点、だったのですが……」
「ですが?」
「セレナさんやエルマさんとも一緒に婚約をすることになりましたから。これは帝都との太いパイプになりますし、ホールズ侯爵家といえば武門の名門ですから。領地もダレインワルド伯爵家よりも大きいですし。将来的にあちらの領地や帝都との交易や人材交流、技術交流などの話が纏まれば、十分過ぎる利益になるかと」
「つまり、クリスだけでなくエルマとセレナとも婚約することが決まっている今の時点で、家臣達の懸念点は粉砕されていると?」
「そうなります。後は領地に戻って皆を納得させるだけですね」
そう言ってクリスはにっこりと笑みを浮かべてみせた。なるほど、つまり「勝ったなガハハ! 風呂入ってくる!」状態なわけだな? うん、絶対に何か一悶着あるわ。もう天丼が過ぎてお腹いっぱいだよ。




