#038 大切なものを失う
ミミとエルマは他の検査や処置を続けるために別室へと移動して行き、俺はショーコ先生と共にロビーへと戻ってきた。俺の遺伝子データ提供に関する話をさっさと詰めたいらしい。
「あの二人の対応は他のスタッフがしっかりと対応するから安心して欲しい。私みたいな研究畑の人間じゃなく、現場の人間がね」
「さいですか……で、もう予算の稟議が降りたんで? 後日になる予定だったんじゃ?」
「未知の遺伝子データ提供に対する報酬はその貴重度というか、未知の部分の多さに応じてある程度決まっているからね。スキャンした遺伝子データを送ればすぐに承認が降りたよ」
「なるほど」
なんかやり遂げたぜって顔してるけど、この人今日の俺達の診察の件でも無理やりねじ込んだとか言ってたからな。研究畑の人間とか言ってるけど、意外と政治力の強いタイプなのかもしれない。
「そういうわけで、お金の話なんだけどね」
「身も蓋もない」
「お金って便利なツールだよね。通常であれば長い時間をかけて培わなくてはならない信頼関係を数字で補うことができるという意味で」
「確かに。それで、提示額は?」
「300万エネルだね」
「物凄い大金だな。俺の遺伝子データにそんな値が?」
日本円に換算して約三億円だ。別に特別な血筋というわけでもない俺の遺伝子データにそんな高値がつくことに驚愕を禁じ得ない。
「さっきも言ったけどね、ヒューマノイドの未知の遺伝子情報はまさにフロンティアなんだよ。もしかしたら私達をもう一段上の存在に押し上げてくれるかも知れない、そんな可能性を持っているのさ」
「もう一段上の存在って……」
一体どういう風に利用するつもりなんだこの人は……いや、異世界の生命倫理なんてどうなってるかわかったもんじゃないし、俺が口出しするのはナンセンスか。
「俺の個人情報はしっかりと守ってくれよ……」
「それは勿論。契約書はこんな感じだよ」
そう言ってショーコ先生は自分の持っていたタブレットを俺に手渡してきた。内容を確認してみるが、概ね問題は無さそうである。俺の個人情報は守る、勝手にクローンを作らない、破った場合賠償金としてイナガワテクノロジーは俺に3000万エネルを支払い、俺の遺伝子データの解析や研究、利用を一切停止する……そんな感じの俺に有利な内容が羅列されている。俺が先程要望した今後のメディカルチェックに関してイナガワテクノロジーに面倒を見てもらう、という契約も条項には盛り込まれていた。
どこかに落とし穴があるんじゃないかと何度も読み返したが、やはり問題は無さそうだ。
「用心深いねー」
「自分の遺伝子データを預けるとか怖いだろう。それに俺に有利な条項が多すぎるのもな」
「そこまで有利な内容かな? この契約だと君の遺伝子データを解析して得た成果でイナガワテクノロジーがいくら儲けても君には1エネルも入らないんだけどね」
「なるほど。でも変に欲をかいても碌な事になら無さそうだ。俺は自分の手でコツコツ稼いでいくつもりだからそこは別にって感じかな」
「なるほど、傭兵らしい答えだね」
俺の言葉を聞いてショーコ先生がにへらっ、と緩い笑みを浮かべる。
こんな方法で手に入れた金なんてあぶく銭くらいに思っておいたほうが良いだろう。勿論拒否するって選択肢もあったと思うけど、イナガワテクノロジーは既に俺の遺伝子データの価値を知っているわけで……まぁ、それはそれで面倒なことになりそうだよな。
そういうわけで、俺が過剰に不利にならないような状態でイナガワテクノロジーに従うというのはベストではないのかも知れないが、ベターな手じゃないかと俺は思うわけだ。俺とクルーの安全が一番だな。
「結論は出たみたいだね」
「ああ」
画面に指を走らせて契約書の署名欄にキャプテン・ヒロと署名をする。これで契約は成立だ。
「いやぁ、契約がまとまって良かったよ! それじゃあ早速血液と精液を採取しようか」
「それは良いけど……血液はともかく、精液はどうやって……?」
「ふふ……期待してくれて、良いよ?」
ショーコ先生は怪しげな視線を俺に向け、自分の口元をぺろりと舐めた。
「まってまってまってこんなの聞いてないぞやめて許してアッーーー!」
「うっううっ……おれのじゅんけつが……」
「はい、お疲れ様ー」
蓋の開いたイナガワテクノロジー製医療ポッドの中でさめざめと涙を流していると、ショーコ先生のぽややんとした声が降ってくる。
どうやって精液を採取されたのかって? 察してくれ、思い出したくないんだ……医療ポッドに入るのがトラウマになりそうだよ。
「人によっては病みつきになるみたいなんだけどなぁ」
「にどとごめんこうむりたい」
医療ポッドから這い出て服を身に着ける。ああ、なんかケツに違和感が……もう二度と遺伝子データの提供なんてしないぞ。絶対にだ。ショーコ先生とのエロ展開を期待してたのに……そんな甘い話があるわけもないよな。常識的に考えて。ハハッ。
「とにかく、これで遺伝子データの提供は完了だよ。いやぁ、楽しみだねぇ……くふふ」
テンションが地の底まで落ちている俺とは対象的にショーコ先生のテンションは非常に高い。白い頬を桜色に染めながら実に楽しそうにニコニコしていらっしゃる。こんなに嬉しそうな様子を見せられると怒る気にもならないな。
「お、いたいた。ただいまー……ってどうしたのよあんた、目が赤いんだけど」
「ヒロ様?」
「なぐさめてくれ」
そう言ってエルマに抱きつこうとしたら顔を押さえられて拒否されたので、膝をついてミミの大きなお胸に顔を埋めた。ふわー、やぁらかいんじゃあぁぁぁ……あ、ミミが頭を撫でてくれている。好き。
「ちょっと、どういうこと?」
「遺伝子データの提供にご同意いただけたから、早速遺伝子データを提供してもらったんだけどね。どうも処置がお気に召さなかったみたいで」
「処置?」
「精液を採取するためにね、こう、ずぶりと」
「あぁ……」
俺に降り掛かった災難が赤裸々に暴露されていく。酷いよ、傷口に塩を揉み込むような所業だよ。これはミミに沢山慰めてもらわないと。ふへへ。
「ヒロ様、相当嫌だったんですね……かわいそう」
「その程度で堪えるタマじゃないでしょ。それをダシにして甘えてるだけよ」
「酷いですよ、エルマさん。ヒロ様の目、赤くなってたじゃないですか。本当に嫌で泣いたんだと思います」
「それはそれで情けなくない……?」
ミミがちょっと怒ったような声でそう言って俺の頭をギュッと抱きしめてくれる。ちょうしあわせ。薄情なエルマは微妙そうな声音だけど。
「うん、それについてはすまなかった。そこまで嫌がるとは思わなかったし、正直に言うと色々と楽しみすぎて説明を端折ってしまった。ちゃんと説明してどこかの個室で自分で採取してもらうか、私が直接手伝うべきだったね」
ショーコ先生が手伝うなんて選択肢もあったんですか? マジで? どうして俺はその未来を掴み取れなかったんだ……自分の迂闊さが憎い。
「自分でやるくらいなら私達を呼びなさいよ……先生はこいつにそこまでする義理はないでしょ」
「おや? そんなことはないさ。ヒロ君に助けられていなかったら、今頃私は宇宙の藻屑だ。それを考えればそれくらいなんでもないさ」
「ふぅん……?」
ショーコ先生のクスクスと笑う声とエルマのちょっと不機嫌そうな声が聞こえてくる。なんだか微妙な空気になりつつあるような……? ミミは相変わらず俺の頭を胸に抱いたまま、あやすように俺の頭を撫で続けてくれている。脳味噌が蕩けそう。
「よし、復活した」
「ヒロ様、もういいんですか?」
「大丈夫、復活した」
ミミの胸に顔を埋め続けるという強力な誘惑を振り切り、立ち上がる。視線を移すと、エルマは呆れたような表情を俺に向けていた。
「大の男がちょっとつつかれたくらいで泣くんじゃないわよ」
「ちょっとじゃないぞ。ずぶりだぞ。お前、そこまで言うならいつかお前にも似たような体験をさせてやるからな。覚えてろよ」
「えっ!? い、いや、それはちょっと」
エルマがちょっと顔を青くしてあたふたし始める。だが私は許さない。覚えてやがれ。
「それで、あとは予防接種だったか」
「そうだね。生理機能に関しては普通の人間と変わらないようだから、問題なく適用できると思う。基本的に副作用は無いけれど、大事を取って三日くらいは安静にしておいたほうが良いよ」
「なるほど、了解だ。それじゃあ案内してくれ」
「わかったよ。君達はロビーで待っててくれるかな?」
「わかったわ」
「わかりました」
頷くエルマとミミの二人と別れ、別室で予防接種を受けた。特に痛みもなく、プシュプシュっと何回か腕やら首筋やら胸やらにガンタイプの注射器のようなものを押し付けられただけで終了した。正直拍子抜けである。
「簡単なんだな。痛くもないし」
「痛い? そんなことあるのかい?」
「あー、いや、こっちの話で」
「君の出身はソル星系の第三惑星だったね。つまり、君の出身地ではこういった処置は痛いものって認識があるわけだ」
「スルーしてください」
「こういう処置で痛みが発生するとなると……ふむ、医療関係の技術は随分遅れているようだね?」
「ショーコ先生って人の話を聞かないって言われません?」
「あはは、よく言われるよ」
ショーコ先生があっけらかんと笑う。このぽやーんとしたというか、柔らかい笑顔のせいで怒る気が失せるんだよな。合わない人とは徹底的に合わなさそうだけど。
「とにかく、これ以上俺の事情をすっぱ抜こうとするのはやめてください。ちょっとデリケートなんですよ、その辺は」
「仕方ないなぁ。まぁ、惑星住みとなるとそういうものかな」
この世界においては殆の人が宇宙空間のコロニーで生活をしていて、惑星上の居住地に済んでいる人というのは選ばれたごく一部の人間であるらしい。つまり、上流階級のお貴族様とかそういう類の。
俺の場合は異世界から来ましたなんて事情があるわけで、そんなことをショーコ先生とイナガワテクノロジーに知られたらマジで監禁されてモルモット扱いされるかも知れない。遺伝子データの提供で満足してほしいものだ。
「そういうことでお願いしますよ」
「わかったよ。他にも色々と調べたいことはあるんだけどね?」
「まずは遺伝子データを洗い尽くしてからにしてください」
上目遣いでおねだりするような様子を見せてくるショーコ先生をにべもなく袖にする。正直今の上目遣いはちょっと良かったけど、その程度ではこのキャプテン・ヒロは籠絡できんよ。
「あはは、やっぱ私程度じゃダメだね。エルマさんもミミちゃんも美人だものね」
「ええ、あの二人も美人ですから」
「うん?」
俺の言い方にショーコ先生が首を傾げるが、俺はそれに構わず上着を着込んだ。
「これで一通りは終わりですかね?」
「ああ、そうだね。最後に総合的な診断の結果を伝えるから、二人と合流しようか」
連れ立って処置室から退出し、ロビーへと向かう。そこではエルマとミミが何かを相談しながら待っていた。エルマがすぐに俺達に気づき、こちらに視線を向ける。ミミもそれに続いてこちらに視線を向けてきた。
「よく気づいたな」
「あんたの足音くらいわかるわよ」
「エルマさんのようなエルフの方々は耳が良いからね。森に住む古式ゆかしい暮らしをしている方々だと、2km以上先の獣の足音を聞き分けられると聞くよ」
「そうなんですか?」
「私はそこまでは無理ね」
エルマが肩を竦める。あの長い耳は別に飾りというわけではないらしい。
「でも、この耳だって良いことばかりじゃないわよ? 聞きたくないものも聞こえたりもするし、人間用のヘルメットとかヘッドギアの類はだいたいつけられないしね」
「聞きたくないもの?」
「ええ。例えばあんたのお腹の音とかね。ぐるるーって鳴いたわよ、今」
「マジで」
思わずお腹を押さえるが、よくわからない。でも、そう言われると確かに少し腹が減ったような気がしないでもないな。
「そう言えばもう良い時間だね。先に食事にするかい?」
「食事というと、どんなのですか?」
「オススメはできたてのフードカートリッジの中身をそのまま吸う――」
「「いいです」」
ミミの目が虚無になる。俺の目も虚無になってると思う。エルマは苦笑いを浮かべていたが、ショーコ先生は不思議そうに首を傾げていた。味音痴なのか、ショーコ先生……あんなものを日常的に摂取しているから味蕾が退化してしまったんだな。可哀想に。
「そうかい? じゃあ、診断結果のデータも上がってきているし、あっちの個室で話そうか」
そう言ってショーコ先生が歩き出した。俺達もその後についていく。
さて、特に問題がなければ良いんだが。
ズブリ♂_(:3」∠)_




