春雷
この世界には、何とたくさんの、美しい色が溢れているのだろう。
悠久なる時の流れの中、朽ちることのないこの身で、我は空を駆け巡る。
山野を駆け巡る。
人の身が、我の姿を見ることは叶わぬ。
何故なら、この身に纏いし雷が、人の目を眩ませるから――
我に名はない。
ただ、人界には、我を「ぬえ」と呼ぶ群れがある――
※
冬――氷界の女王は、命の眠りを誘うため、世界を冷たく白い吐息で覆いつくす。
木々も花も獣も、大地の懐で時を待つ。
そうして、やがて氷界の女王が去り、陽の女王がこの地を訪れた。
木々は、遠来に気配を察し、真っ先に目覚める。小さな命を、その腕に芽吹かせる。
女王の羽衣がなびく。
柔らかい熱をはらんだ陽の光が、「全ての命よ、目覚めよ」と呼びかけた時、世界に色が生まれた。
はかなくも優しい色で、その身を飾る桜の木々。彼女達は、陽の女王の呼びかけに、誇らしげに腕を広げている。
「さぁ、私をご覧になって」
「この世界を、私の色で染め上げましょう」
「この地に生きるものよ、さぁ、私の下へいらっしゃい」
その夜、月明かりに浮かぶ桜を、雲間から見下ろす一匹の妖怪がいた。
獅子の体に蛇の尾。
金色の長いたてがみが、風にたなびく。
その眼光は、雷と同じ光。
彼は、朽ちることのない命を持つもの。身を包む雷が、人目をくらませる――ぬえ。
桜の誘いに、ぬえはいつしか夜空を翔ける。
その足が空を蹴るたび、身にまとう雷が、夜の闇を引き裂く。
響き渡るあの轟きは、月の悲鳴であろうか。
春の雷鳴は、嵐を呼び覚ます。
力ずくで叩き起こされた風は、苛立ち、荒れ狂う。
桜の花びらは舞い踊り、やがて夜空を桜色に染め上げた。
「ごめんよ。ただ、君をそばで見たかったんだ」
獰猛なその顔から、ポトリと落ちた涙一粒。
「いいのですよ」「いいのです」「これでいいのです」
あちこちの桜の木々から、優雅な声が鈴のように重なり合う。
「花の命は短いもの」
「すでに散りゆく宿命にあったもの」
「最期に見せましょう」
「月夜の桜吹雪を」
「地に降り積もる、桜色のじゅうたんを」
春雷の過ぎた朝、桜の花びらのじゅうたんに、大きな獣の足跡を見つけたら……それは「ぬえ」の足跡かもしれない。
じゅうたんを、そっと踏みしめた名残かもしれない。
<了>