肆
「おぅ、戻ってきたな」
羅生門の大門は閉じていたが、脇の通用門が開いており、陰陽の友が衛士と待っていた。
「世話をかけた」
「なに、俺もこれから仕事だ。もののついでというやつだ」
「仕事?」
「宴の松原だ。お前もつきあえ」
宴の松原は都の北、大内裏にあり、南にある羅生門からだいぶある。ほぼ都を縦断するかたちだ。かなりの距離である。
「どうせ暇だろう?鬼が見れるかもしれんぞ」
事も無げに陰陽師はそう言うと友人を急かせて朱雀大路を進んでいった。
朱雀大路に面した屋敷は塀を連ねており、通りからは灯が見えない。陽が落ちれば人も歩かず辺りは闇にとざされている。
幅の広い大路に二人、手燭の灯のみが光源となっている。
(この暗さでは化野と変わらないな)
なにしろ夜に出歩けば、夜盗の類いに出くわす事もある。
夜盗では無いものに出くわす事も。
「宴の松原に行ってどうする?」
「最近“鬼喰い”が多くてな、鎮めなけりゃならんのさ」
「お主、鬼は方便だと…」
「まぁ、大概は方便だ、大概はな」
陰陽の友は笑いながら先を進んだ。
大内裏まではだいぶ遠い。
僧侶は道端の草むらや塀の角の暗がりに目をやった。
……なにやら蠢いている様に感じる。
それは蛙か蟲か…
…それ以外なのか。
僧侶はつい、腰に手が伸びるのを戒めた。自分は刀を棄てた身である。
しかしながら、刀を履かぬ腰の軽さが心許ない。
「護衛も無しで大丈夫なのか?」
「まぁ、大丈夫だろう。夜盗ども、僧侶だの陰陽師だのに手を出すと祟られると思っているらしいからな」
「……夜盗以外は?」
陰陽師は彼を呆れた様に見た。
「お前、それこそ護衛など役に立たん。刀で斬れるか」
────────
大内裏の門を抜け、西に広がる宴の松原へ向かう。
なだらかな起伏のある松原は、化野とは違い下草など短く刈り込まれ整理されていて、そこかしこに植えられた松が月明かりを受けて影を落としていた。
一見して穏やかな夜の風情である。
月明かりの他、光源となるのは二人の手燭の弱い灯火のみ。
その弱い灯火の許、陰陽師は迷いの無い歩調で進んでいく。
「おぅ、ここだ」
松の一本、その根元を手燭で照らす。
そこだけ土の色が変わっている様に見えた。
「……ここは?」
「昨夜“鬼喰い”があった場所だ。死体の一部が残っていた」
「駆け落ちの…」
「いや違う。地面を洗い流してもらったが、まだ血の色が残っているだろう?」
陰陽師は僧侶に顔を向けるとにやりと笑った。
「確かに死体の一部を放って鬼の仕業に見せ掛ける輩は多いがな。この様に本物の場合もある……そう数はないが」
風がふ、と灯火を揺らす。
辺りは闇となった。気付けば月も雲に隠れて友の姿は影法師の様になり、どちらの方を向いているのかも判らない。
真っ黒な男は友の声で続ける。
「ところで……唐の妖物どもの間では高僧の肝を喰らうと力が増す、通力を得るなどと云うな」
「……は?」
「本邦で高僧などに手を出すと国が動く。高い銭を使って留学などさせているのだから当たり前だが、女子ばかり喰うても通力など得られる訳でもない」
なにを…
「高僧を喰らうのは不味い。ならば位の低い僧を狙う、というのはどうだ?」
なにを言って…
「位が低くても数をこなせばそれなりに通力が得られるだろう。そうは思わんか?」
この男はなにを言って…
「例えば……そう、お前の様な」
黒い男の肢体がぐうっ、と盛り上がっていく。
服の布地が破れる。
めきめきと聴こえる音は骨が変形しているのだろうか。
腕も脚も丸太の様に太くなり見上げるほどに背が高く伸びていく。
その時、雲間から月があらわれた。
月明かりに光るのは大きく裂けた口から覗く乱食い歯だ。
盛り上がった胸板が、はち切れた衣から露になる。
北方の異国に棲まうという羆もかくやと謂わんばかりの角を生やした巨躯が僧侶を見下ろしていた。
くかかかかかかっ!
かすれた笑い声をあげながら男が言う。
「いや有り難い。こうも簡単に引っ掛かるとは」
「ひっ……」
金縛りにあったかの様に僧侶は身動き一つ出来なかった。
涎まみれの生臭い口が嗤う。
「くかかっ!この調子なら坊主どもの肝をいくらでも喰えそうじゃ」
鬼がにやにやと嗤いながら僧侶に鉤爪を伸ばしたその時。
「…………あはー」
足許の土が盛り上がり。
赤黒い妖児が這い出してきた。
「……なっ!?」
慌てた声をあげたのは、僧侶ではなく鬼の方だった。
魍魎はあどけない顔で鬼を見上げる。
僧侶を掴もうとした腕が、伸ばされたまま小刻みに震え始めた。見れば厭らしく嗤っていた鬼が……脂汗を垂らしている。
「な…なな…!?」
鬼は『何故』と訊こうとしたのかもしれない。
だが言葉が続かなかった。
かぱり
赤黒い妖児が口を開いてみせた。
人とはまるで違う鋭い牙が幾重にも重なって見える。
「い、ひぃ!」
脱兎の如く巨躯が駆けた。
羆の様な大鬼が、齢三、四ほどにしか見えぬ魍魎に恐れをなして逃げたのである。
「あはー」
間の抜けた声に気が抜けて、僧侶は尻餅をついた。
膝が笑っている。今更ながらに恐怖が込み上げてきた。身体中から汗が噴き出す。
「……お~い!」
声の方を見れば、手燭を持った陰陽の友がやって来るのが見える。
「お前、何でこんなところまで来たのだ?独りで来る場所じゃないぞ」
「お…お主……本物か?」
「本物とはなんだ!?……む?その穴は?」
陰陽師が訝しげにポッカリと空いた足許の穴を覗いた。
魍魎は何処にもいなかった……
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