弐
夕方から振り始めた雨は夜半には本降りになっていた。遠く雷鳴が響く。
「やはり泊まって正解だろう?お前の事だ、また今夜も化野に行くつもりだったのではないのか?」
雨に濡れる庭を眺めながら陰陽の友人は手酌で酒を口にした。
「……雨の庭も良いな」
僧侶は友人の問いに答えず、庭の草木が雨風に揺れる姿を眺めて言った。
なるほど自分は友人に誘われなければ、あの草原に今夜も足を向けていたかもしれない。
それは修行の為なのか、それともあの妖しい童を見付けたかったからなのか、と僧侶は自問していた。
「……囚われているな?よくないぞ?」
「訳のわからないものというのは気にかかるものだ、そうではないか?」
「まぁ、余人はそうだ。そう考える…しかし知らぬ方が良いものもある」
「魍魎というものも…知らぬ方が良いものか?」
陰陽の友はまた手酌を重ねると僧侶の問いに答えた。
「あれは知らぬ方が良い、というより訳が解らぬから放っておくのが良いものだ」
「陰陽寮でそれが通るのか?職務怠慢だろうに」
「もちろんてきとうな答えは用意してるさ、あれは地の陰気が凝ったものです、害意はありません……とかなんとか」
僧侶は思わず苦笑した。
「てきとうでも聞いてそれらしく感じれば皆気分がおさまるものだ」
そういうものかもしれない。
「お前も刀を棄てたのだから、なんでも割り切ろうとしない事だ。世の中割れないものの方が多い。仏の道も頭で解らんだろう?」
「お主が陰陽師らしい事を言うとはな」
「当たり前だ、これで飯を食ってる」
それから二人の会話は適当な世間話に終始した。
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友人宅を朝日が昇るとともに辞して、僧侶は自分が起居する寺へと戻った。
僧侶といっても実のところ彼は未だ得度を許されておらず、寺の預かりである。多分に彼の家が引き留めているせいでもある。
小さな、寺というより庵だ。老いた僧が一人いるきりである。
門前を掃き浄めていた老僧が彼を認め、声をかけた。
「昨夜も化野へ?」
「申し訳ありません、友人宅に厄介になっておりました」
彼は老僧から菷を受け取ると小さな庭を掃き始めた。
掃除が済めばやはり小さな畑の世話をする。そして読経、写経などをして暮らす。
それが刀を棄てた今の彼の暮らしであった。
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写経を済ませた彼は老僧に断りをいれ、また羅生門を潜った。
老僧には魍魎の話をしていない。言えば引き留められるだろうと思えたからだ。
雨上がりの荷車路はぬかるんでいて、轍に水溜まりをこさえている。
僧侶にとって化野は世の無常を感じさせる場所であった。転がるされこうべが砕けている。こうして人は土へと還っていく。
堂のそばにあった娘の亡骸はまだそこにあった。
だいぶかさが減っている。魍魎が食べたのかそれとも野犬の類いによる仕業なのか。
(……九相図よりよほど)
早く骨になるものだ。と僧侶は思った。
九相図とは人の亡骸が土へ還るまでを九つの姿で表した仏画だ。十二単を着た娘の死体が、服を剥ぎ取られ、肌が変色し、腹に屍気が溜まって膨れ…
…最後には骨が砕け土と混ざり合ってばらばらになるまでが記されている。
美しき者もこの様に時と共に移り変わる。無常を説いたものである。
彼は九相図を知り、化野詣でを思い立ったのである。
(……おや?)
遠くから荷車のがたがたと進む音が聴こえてきた。
咄嗟に彼は堂の扉から中へ入り、息を潜めた。
別にそのまま立っていたとしても問題は無い、僧侶の姿をしているのだから。しかし彼はつい隠れてしまった。
自分が得度されていないという負い目がそうさせたのかもしれない。それで身を隠すとはなんとも不甲斐ないと自分でも思う。
「よぉし、ここらで良かろ」
「せぃの!よっ!」
人足が荷車の荷を下ろす。
荷は当然屍である。
「どれ、さっさと帰るぞ」
軽くなった荷車を、がらがらと押して人足どもは帰っていく。
僧侶は堂の扉、その隙間から覗いて見た。
またも若い娘であった。十二単姿、まるで眠るかの様である。
すると程無く草を掻き分け貧しい身なりの男女が現れた。
「きれいだねぇ、あたしもこんなべべ着てみたいもんだよ」
「あほぅ、面ぁ見て言え。さ、剥ぐぞ。早いとこ羅生門を潜らにゃ」
何も明日まで家に置けば良いものを、夫婦者らしき二人は剥いだ衣服を今日中に売りたいらしい。
家に置くと女房が手離さなくなるかもしれない、そう旦那は思ったのだろう。
夫婦者がその場から消えた後、僧侶は堂から顔を出した。
まるで一昨日と一緒だ。彼はそう思いながら娘の手足をまた揃えてやった。
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夕闇の迫る化野の草原、古びた堂の軒に僧侶はまた座禅を組んでいた。
すぐ目の前には儚くなった全裸の娘が濡れた地面に横たわっている。思えば妙な構図である。
僧侶からは娘の顔がよく見えた。口許に黒子が一つ、一昨日の娘との間違い探しの様に思える。
(しかし…奇妙だ)
先程まで娘には十二単が着せられていた。
ならば何処ぞの貴族に縁のある姫ではなかろうか?
普通、貴族の姫であるなら僧の一人も同行して枕経くらいあげそうなものである。
ところが僧はおらず、人足は亡骸を放ると足早に去っていった。これもおかしい。
そこらから集めた人足ではなく、貴族の用人が運びそうなものである。流行り病があれば別だが、その噂も無い。
(訳ありなのかもしれん)
そう思えば哀れだ。
僧侶は座禅を解くと娘の亡骸に近寄った。
目の辺りがくぼみ、頬が少し痩けている様に思える。
『…駆け落ちだ…鬼の仕業…』
ふと、陰陽師の言葉が思い出された。
(或いは駆け落ちしたのかもしれぬ。鬼の仕業に偽装して、好いた男と一緒になったのはいいが……)
実際の生活に堪え切れなくなった。それで自害したのかも…そう彼は感じた。
もちろんそれは彼の単なる憶測に過ぎない。
しかし何故かそうであるに違いないと感じたのである。
(家に帰ればよいものを……いや、帰るに帰れなかったか)
そう思えば一層哀れである。
僧侶は数珠を出し、読経を始めた。
せめて後生が良い様に。
そうして、しばらく読経を行い、終われば辺りは暗い。
「……あはー」
総毛が立った。
彼のすぐ横、足許にしゃがみ込んでいるのは赤黒い肌の妖児、陰陽師の謂う魍魎である。
しゃがみ込んだまま、彼の顔を見上げる妖児。
小首を傾げたその顔は。
『もういいの?食べてもいい?』
……と彼に問い掛けている様だった。
魍魎は彼の念仏が終わるのを待っていたのであろう。
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