壱
平安の都、羅生門を抜けて嵯峨へ足を向ければ雑草の繁る野へ路は続く。
化野と呼ばれる地である。
鳥部野、蓮台野と共に都で儚くなった者を棄てる為の風葬の場。忌み地故に耕作もされず、手付かずの原野である。
平安の都は仏の都である。その昔は土葬を行っていたのだが、廃れて久しい。仏教の起源である天竺で水葬をしていた為か、墓を造る習慣が絶えてしまっていた。
仏にとって亡骸は蝉の脱け殻とさしてかわりが無い。
今は死者が出ると荷車に載せてこの野へ運び、ゴロリ。
一応は見目良く寝かせるのだが、吹きさらしの地面に置くだけである。それなりに金子を渡せば坊主が弔いの枕経など唱えてくれるが。
一人の僧侶が化野の荷車路を歩いていた。
夕暮れ間際、屍臭が風に乗り鼻を突く。
貧しい身なりの男が僧侶とすれ違った。両手に不似合いな女物の大袖などを抱えている。顔には気まずげな表情を浮かべ、足早に都へ向かって行った。
(……新しい屍があったのか)
僧侶は男を無言で見送りながら、死者が出た事を察した。
化野の近在に住まう農夫などにとって、死者に着せられた服や装飾品は良い不定期収入だ。屍臭が付かないうちに死体から剥ぎ取り、都の古着屋へ売りにいく。
人は見栄を張るものだ。死者に対しても生前一番の召物を着せ、飾り付けて化野に運ぶ。
もっとも、死者が着飾っていられる時は半日と無い。すぐに身ぐるみ剥がされるのを皆知っているが、死者を飾る事を止めない。
僧侶は息を一つつくと、男が来た方向に足を向けた。
(見付けたら枕経を唱えてやろう)
経を唱えたところで死者の魂が安らぐという訳では無い。仏の教えでは、魂は死んだ次の瞬間どこかで産まれ変わっている。枕経を唱えようというのは、まだ仏門に入りたての僧侶の気分的なものだ。
荷車路を外れて草を分けて進む。
足許には時おり雑草に紛れて骨が顔を出す。
僧侶は踏まぬ様に気を付けて足を運んだ。
亡骸は、『魂』の『無き』『空』であると頭では解っていても、だからといって踏みしだくのは躊躇われたのである。
夕闇が迫る頃、僧侶は古い堂に着いた。
灰色に変色した堂のすぐ脇に、全裸になった女の屍が転がっていた。
恐らく先程の男が衣服を剥ぎ取った相手だろう。まだ若い。脱がされた裸体は手足が放り出され、なにやら人形めいて見えた。
僧侶は娘の足を揃え、両手を胸で組む形に直してやった。
(……首が)
良く見れば首に縄目の跡が見えた。
何を儚んだのだろうか?
先程の男が持っていった大袖や娘の化粧を考えれば、それなりの家の者と知れる。
僧侶は溜め息を一つ突くと数珠を懐から取り出した。
────────
経を唱え終えて辺りを見れば、陽が落ちて暗くなっていた。
元々化野で夜を明かすつもりであったらしい。僧侶は古い堂の軒に座り、懐にあった蝋燭を取り出すと灯を点けた。
そのまま座禅を組む。
この頃は宗派というものもはっきりと分かれている訳では無く、空海が密教と一緒に禅を唐より持ち帰ってきていた事もあり、座禅は瞑想法として用いられていた。
息を調え、心を整える。
季節は夏へ向かう途中にあり、雑草とはいえ若葉の香りは屍臭を紛らわす。
グッグッグッ
グッグッグッ
何処からか、蛙の唄う声が流れてくる。
未だ蛍の季節にはほど遠い。
しかし半眼に開いた僧侶の目には野の草原に蒼い火がぽつりぽつりと光るのが見えた。
(……鬼火というものだろうか?)
一瞬、背筋がぞわりとするが、すぐに気を取り直した。座禅の最中に雑念が浮かんだ事に苦笑する。未だ修行の足りていない己を僧侶は笑った。
致し方の無い事ではある。頭を丸めて一年にも満たないのだ。妖しの火を見て心が粟立たない方がおかしい。
蒼い火は草に燃え移る事も無く、たまにゆらりと揺れる。
風に揺れている訳では無さそうである。その様子は猫が小首を傾げるのにも似ていて、僧侶はおかしみを感じた。
ゴソッ
僧侶の座る軒、そのすぐ下から物音がした。
(はて……軒下に狸の類いでも棲んでいたのか?)
ゴソッ、ゴトッと音を立てて軒下から頭を出したのは童のようであった。
切禿の髪は艶やかで、伸ばせば大層美しく映えるだろう。
しかしそこまで。
次いで軒下から腕を伸ばして身体が現れた。夜目にも判る異相である。赤黒い肌をした裸の幼子などどう見ても人では無い。
幼子の姿をした異形は四つん這いで軒下から出ると立ち上がり、僧侶の方を向いた。
ぽてりとした腹や福々しい短い手指、あどけない顔立ちなど、それだけを見れば三つ四つの童にしか見えない。
しかしあの長い耳はどうだ。兎かなにかの様だ。
瞳には白目が無く、蝋燭の灯を受けて真っ赤に輝いている。
妖しの子供はしばらくの間、座禅する僧侶の姿を眺めていた。
なぜこんなところに人が座っているのだろう?とでも訝しんでいる様にも見える。
やがて。
「あはー…」
と、言葉なのか鳴き声なのか解らぬ声を出すと、異形の児は娘の屍体へ近寄っていく。
「あはー!」
今度は喜びの声としか聞き間違いようが無い声を発して、赤黒い子供は娘の腹に勢いよくかぶりついた。
「…うっ!?」
僧侶は思わず声をあげていた。
妖物は屍の腹を喰い破るとその破れ目に頭を潜り込ませる様にして、はらわたを貪り始めたのである。
首をもたげた時、妖しの児は肝を口にくわえていた。
────────
「それは魍魎というものだろう」
僧侶は陰陽寮の友の家でその名を知った。
あの後、気を失っていたらしい。目が覚めると朝日が差していた。
娘の屍は無惨な姿を晒していた。
腹は破れ、あちこちから肋骨が見えている。
整った顔は潰され、割れた頭蓋の中は空っぽになっていた。
思わず吐いた。
僧侶は出家する以前、元は武家の次男であった。刀を振り、弓の稽古に明け暮れていたものである。それなりに胆は据わっていると自分では思っていた。
(あれは人の仕業などでは無い)
思案した後、友人の許を訪れたのである。
「その、魍魎というものは…」
「なにやらよく解らん。水怪とも謂われているが、水辺に出る訳でもないからな」
友人の話では、魍魎は人の肝を喰らい、脳髄を啜るのだという。
「とはいえ、屍の肝と脳だからな、生きた者を襲うという事では無いらしい。鬼とは違うな。お前運が良い、これが鬼や狼ならお前も喰われていたぞ?」
「……運が良い、か。確かに」
これが宴の松原などであれば鬼に一口で喰われていてもおかしくは無い。近頃都では鬼喰い事件が相次いでいる。
「鬼一口と謂いながら何故か足一本とか手首一つとか落ちてるがな。鬼も食べ残しをしないと夜盗のせいにされるとみて自己主張に必死だ」
陰陽の友はからからと笑った。
「そういうものなのか?」
「あぁ、いや、あれは鬼の仕業などでは無いよ。駆け落ちだ駆け落ち。残された足などに血の跡が無い、それこそ化野の屍を拾って放り投げておくのさ、そうすれば鬼の仕業になってもう探されなくて済む」
そう笑いながら言った後、ふと真顔になって僧侶を見た。
「だがな、お前の見たものは本物だ。だから気を付けろ」
「魍魎は人を襲わないと言ったのにか?」
「あぁ襲わない。だがな、あれらは人と違う理の住人だ。何を仕出かすかこちらの思惑で計れない」
「別に何をさせようなどとは思っていないのだが」
「何もせんでも下手すればなつかれる、そういうものだ。お前、もう化野には行かぬ方が良い」
陰陽寮の友人は扇を開いてはたはたとあおぎながら空を仰いだ。
「じきに雨の季節だな…夕方辺りから振りそうだ。久し振りに来たんだ、お前今夜は泊まっていけ」
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