鳥の配達員
長編予定だったものを無理やり短編にしました。抜けや突然すぎる展開があると思いますが、ご容赦ください
空が淡く白み始める頃、生い茂る木々の中で徐々に増えていく大小様々な鳥たちのまばらなさえずりでグオンは目を覚ました。
擦られるような冷気を自身の先端が薄く黒ずんだ嘴の先で感じ取りながら、グオンはもたれていた木からゆっくりと、腕と脚以外を統一された焦げ茶色の羽毛に覆われた身体を持ち上げた。春を迎え、新緑に満ちる季節であっても、この時期の朝はまだ冷えることが多かったが、グオンが纏う自身を覆っている羽毛のお陰で、人間には応えるはずの一夜も難なく過ごすことが出来る。
グオンは起き上がりの硬い身体を伸ばすと先程まで背を預けていた木に同じく立て掛けていた矢筒と長弓に手を伸ばし、矢筒を腰に据え、右手に長弓を握ると静かにその場を後にした。
眠気を払うために歩く早朝の森の中は、この地に生きづく営む音だけを拾い上げる程の静寂に包まれ、矢筒の矢が擦れる音は独りだって鳴いていた。その中を歩くグオンの足先に備わった鋭い鉤爪は、丈の低い草に付着していた昨晩の夜露と森を僅かに滲ませ始めた日の光に触れ、怪しい光を宿していた。
やがて、グオンは日が広く差し込む少し開けた場所へとたどり着いた。木陰から日向へと、日が少し昇って強さを増した日の光にグオンは目を細めながら、森の中に空いた穴から見える青空を覗き込んだ。
身体を包み込むような降り注ぐ柔らかな日差しはグオンの羽毛を無意識に膨らませた。そして、森に満ちる生気を分け与えてもらうかのようにグオンは鼻腔からゆっくりと空気を取り込み、目を閉じた。
グオンは自らの翼で空中を舞い、空と共に生きてきた種族、フォーゲルと呼ばれている鳥人族である。雲も浮かばず、澄んだ青空を頭上に控え、グオンはこの青空をただ静観しているように思えても、これから飛び立っていく頭上に広がる景観に、静かな高揚を心の片隅に隠しているのだった。
(……さて、そろそろ行くか)
グオンは呼吸を整えて目を開くと、自身の背中に備わった、同じく焦げ茶色の対の翼を広げ、背中を空に預けて頭を低くする。そして、自らの翼を力強く振り下ろすと同時に地面を蹴った。グオンの身体の影に隠れた足元の草が激しい風に揺られると、やがて、揺れが収まる頃には草を覆っていた影は小さな点となり、グオンの身体は地上から空中への境界を越えていった。
グオンは宙に舞う中、先走ろうと逸る気持ちを抑えながら軽やかに高度を上げていった。木の葉の輪郭が森の木々の色に溶け込む程度の高さまで上がると、グオンは上昇することを止め、浮揚する態勢を取ると、グオンは周囲を軽く見渡した。
森が茂り、川が流れ、平原が広がり、点々と幾つかの村が見えた。そして、あらゆるものが小さくなっていく高度でありながも打って変わって、グオンは西の方角へと目を向けると、決して近くはない距離であるはずの場所に、異様に存在感を放ちながら一本の巨大な大樹が雲と対等に聳え立ち、神聖視したくなるような空気を纏っていた。現にソルナ・トーレス(トーレスの柱)と名づけられた大樹は、その大樹の根付く真下に栄えるトーレスと呼ばれる街の象徴として鎮座している。
グオンはトーレスをねぐらにしながら、そこで配達員と呼ばれる仕事を生業としている。グオンだけに限らず全ての配達員にとって、ソルナ・トーレスは象徴であり、帰るべき場所への目印でもある。
依頼を終えて帰路に着く途中であったグオンは大樹に焦点を合わせると、飛行の体勢へと切り替えた。先程まで押さえてきた高揚を押し出すように、グオンの翼は大樹の元へと鋭く風を切り裂いていった。
グオンがトーレスに到着したのは日が昇りきる少し前のことだった。大樹の大きさがより一層に増していくにつれ、地上から街に行き来する様々な種族の者や街の上空から街の郊外へと直接行き来するフォーゲル達も見えた。グオンは他のフォーゲルと同じように街の入り口を越え、レンガ造りの素朴な街並の上空を通過すると、この街の配達員の拠点の前へと降下して地面に降り立った。
(やっぱり近くで見上げると、よけいでかく感じるな)
グオンは一度空を見上げると、バージスの中へと入っていった。
バージスとは配達員たちが請け負う依頼の受注を担う場所である。トーレス以外にもバージスは点在しているが、大樹ソルナ・トーレスの根幹の隙間に築かれたこの場所は、周辺地域の依頼のみを扱う他のバージスと異なり、全てのバージスの依頼を管理する言わば中核と呼ぶべき場所でもあった。
内部は根幹であるとは思えないほどに広く。グオンは初めて此処を訪れたときはかなり驚きもしたが、根幹の隙間と言っても、あれだけの大きさを誇る巨木なのだから、この規模の広さであっても違和感は無かった。
さらに、依頼を管理する受付の他、配達員たちが情報の交換をしたりするための酒場まで入っている為、すでにバージスの中は大勢の人々で賑わっていた。その人ごみをグオンは慣れた様子で避けながら受付へと脚を進めた。
「配達員のグオンだ。シア、依頼の報告をしたい、手続きを頼む」
グオンは手短に用件を告げた先には、大きい垂れ耳に長く伸びた鼻先、少し長めに伸びた茶褐色の毛並みの毛皮に包まれた女性が受付に座っていた。
グオンにシアと呼ばれた獣人種である彼女はかしこまりましたと軽く笑みを浮かべ、手元にある複数の受注済みの依頼書へと視線を伏せると、その束の中から迅速にグオンの受けた依頼を見つけ出した。
「お帰りなさいグオンさん。依頼主からの報告は既に受けていますよ」
シアは手元にある依頼書からグオンへと目を移した。
「……報酬の受け渡しはいかがなさいますか?」
シアは今回の依頼での達成報酬の希望する額をグオンに尋ねた。
この街のバージスはこの街だけが請け負う依頼を含め、組織全体の依頼も扱っている。一日だけでもかなりの額の金銭が動いている為、その手間を少なからず省略することを目的に、このバージスだけは報酬を記録で管理し、希望した額だけを受け取ることが可能なのだが、自分で多額の金を管理していく必要が無くなる分、配達員の大半はこの仕組みを活用している者が多い。
グオンも例に漏れずに今回も報酬の何割かを受け取ることにした。
「今回は報酬の四割で頼む」
グオンからの返答の後、少々お待ちくださいと席を立ったシアは会釈をしてからグオンに背を向けると、受付の奥へと姿を消した。やがて、時間を置かずして報酬の入っている小さめの布袋を両手で抱えながら戻って来た。
「お待たせしました。こちらがご要望の額になります」
シアは抱えた布袋をそのままグオンへと手渡した。
「どうぞお受け取りください。残りの報酬金は引き続き記録させていただきます」
シアから差し出された報酬を、グオンは片手で受け取るとそのまま腰の横に据え付けた革製の大きめの腰袋へ無造作に入れ込んだ。
「今回のウルバス様からのご依頼はどうでしたか?」
滞りないやり取りが終わり、一息を置いてシアは再びグオンへと話しかけた。
「金持ちの道楽に付き合うのは流石にうんざりだ。荷物を指定された順路を通過しろとの事だったが、案の定あの狸じじいの用意した刺客が待ち構えてやがった」
グオンは横を向くと、眉間に皺を寄せながら愚痴をこぼすように今回請け負った依頼について答えた。
「だから今回は受け取る金額がいつもより高かったんですね」
シアは何か納得した表情を浮かべていた。
「手練れは居なかったが、数が多かった分、余計に矢の消費も多かったし依頼金の額を踏まえても割りに合っているとは思わないな」
「分かりました。次回からのウルバス様からのご依頼に関して今後は拒否するよう伝えさせていただきます。」
「そうしてくれ。これ以上俺たちを暇つぶしに使われてはたまったもんじゃないからな。こういう依頼は事 前に突っぱねてくれると、こちらとしても有難いんだが……」
グオンは軽い気持ちでシアに要望をしてみるも、それが叶わないことであることとはグオン自身よく分かっていた。
「申し訳ありませんが、日々多数の依頼を受けていますので一件ごとに審査することが大変難しくなっているのが現状です。何卒ご容赦ください。」
グオンの言い慣れた要望に対して、シアの使い慣れた常套句で返されて、この日のやり取りは終わった。立ち去り際、シアからまたよろしくと小さく手が振られた時のグオンの胸の内では幾らか疲労感が増したたような気分になり、身体が若干重く感じた。
バージスに依頼の申し込みを行う際、バージスに対して依頼金、いわゆる手数料の支払いを行ってから別途に依頼達成の報酬金を払うことで正式に依頼が受理される。そして、依頼を引き受ける側は依頼主が事前に支払った依頼金と同額を支払うことで、その依頼を受注することが出来る。また、依頼金には上限はなく、より多くの依頼金を支払うことで、安易に配達員が能力以上の依頼を請け負うことを防ぐことができる仕組みとなっている。だが、逆に報酬金の下限もない。配達員達も依頼金対して報酬金が割りあわなければ請け負うことは殆ど無い為、依頼人と配達員、両者の間で静かな駆け引きが書類上で行われていた。
こうして、グオンたち配達員はこのバージスに届く様々な依頼をこなし、報酬を受け取ることで生活の糧にしている。
「次はもう少しまともな依頼で頼むよ」
グオンは最後にそういい残すとその場を後にした。
バージスでの報酬の受け取りを終えたグオンはそのまま徒歩でトーレスの雑多市へと脚を運んだ。街の入り口からバージスを直線で繋いだ大通りには、衣類や食料、武具など、配達に必要な物資を取り扱う店が軒を連ね、この通りにも各々の目的の品を求めて大勢の人や獣人たちが行き交っていた。
グオンは大通りから一本外れる道へ曲がると、歩いてすぐの目立たない場所に年季の入った小さな木製の看板がぶら下がっているだけの木造の建物があった。看板の文字が風化して潰れてしまっている為、一見すると何の店であるかは分からない。
(相変わらず何の店だか初見じゃ分からないな。よく潰れないもんだな、本当に……)
グオンはその店の前で脚を止めると、ためらう事もなく看板と同等の年季が入っている古びた扉を押して、店の中へと入っていった。
グオンが店に入ると、黒ずんだ床や壁は外観そのままの年季が残り、木材独特の柔らかい香りで満たされた空間は、さっきまで歩いて場所から切り離された孤立しているような感覚になる。
「クク爺、生きてるかぁ?」
グオンは扉を閉めてすぐに店の奥に向けて声をかける。すると、少し時間を置いて中から人間の老人が一人、杖をつきながらゆっくりと顔を出した。
「いちいち此処に来るたびにそんなことを確認するな……。それともあれか、お前さんには化けて相手した方がいいか?」
クク爺と呼ばれた老人は意地の悪そうな薄ら笑いと一緒に、グオンからの問いかけに対して問いで聞き返した。
「それだけは勘弁してくれ。それにあんたが死んじまったら誰が俺の弓を診てくれる?」
おどけた素振りをするグオンに対して、クク爺はやれやれと俯きながら首を軽く振った。
「年寄りの妄言を聞いてやる趣味は俺には無いからな」
「そこまで考えているなら、もっと言葉を選べないのか全く……。で、早くお前さんの弓を診せてみな」
グオンは腰に据えた長弓をクク爺へと手渡すと、クク爺の弓を見る表情が獲物を捕らえようとしている獣のような鋭さを帯びた。クク爺はまず弓の表面の状態を確認してから右手の中指と人差し指の二本指で弦を少し引くとすぐに戻し、グオンへと顔を向き直した。
「今回はまた随分と使い込んだな。握り皮もかなり擦れとるし、加えて弦もへたってる。……こりゃまた張り替える必要があるな」
この街でも指折りの弓師であるクク爺は、高齢を理由に弓職人として引退はしているものの、弓の手入れや修理はまだ続けていて、弓の目利きも未だ健在である。
そんな彼の打診に、グオンは迷うことなく愛用する弓の修理を依頼した。クク爺はそのままグオンの弓を作業場のある部屋へと持っていくと、代わりに修理を終えたばかりの以前に依頼した別の長弓を持ってきた。
「近頃、修理に出す間隔が短くなってきているが、この頻度が続くのであればもう一本新調したほうがよさそうだな。このままでは修理が追いつかん」
グオンに弓を手渡しながらクク爺は新しく弓を買うことを進めた。
成人で身長が六尺から七尺にもなる鳥人種のグオンの引き尺は長い、いくら長弓であろうと弦の消耗は激しい。それに加えて、配達員としての依頼の中、弓を使用する頻度が増えてきたおかげで修理にまわす周期も短くなってきていた。弓を買い足す必要があることは、グオンも近頃考えていたことだった。
「在庫ならまだ残ってる。なに、お前もお得意さんだ。安くしとくよ」
優しいのか、卑しいのか、どっち付かずな笑みを浮かべるクク爺の言葉に、グオンは受け取ったばかりの報酬金を入れた皮袋へと手を伸ばすのだった。
「そうだ、忘れるところだった。ちょっと待ってろ」
クク爺はグオンから弓の代金を受け取ると、そのまま思い出したようにまた作業場へと戻っていった。
「丁度終わったところだ、嬢ちゃんに渡しといてくれ」
すぐに作業場から戻ってきたクク爺は、グオンへ一本の弓を手渡した。グオンの使う弓よりも一回り小さい短弓だった。
「なんだ、もう帰ってきてたのか」
短弓を受け取りながら、グオンは少し驚いた表情を浮かべた。
「なんだ、まだ家に帰ってないのか。言うには、依頼主の計らいで帰路に馬を付けてもらったんだと、だから予定よりも早く戻ってこれたみたいだがな」
クク爺はそう言いながら、先ほど調整を終えたばかりの短弓に視線を移した。
「……それにしても、その弓も随分とへたっていたぞ。嬢ちゃんといいお前さんといい、使い方がだいぶ似て きたな。消耗している部分もそっくりだ。同じ奴が使ってるって言っても気づかれないだろうな」
クク爺は、直す人の気持ちを考えろと、口もとに緩い笑みを浮かべた。
「クク爺がいるから、こっちも思う存分使えるもんさ」
グオンも同じように笑っているが、その表情にはどこか嬉しげなものが垣間見えた。
「七年か、もうそんなに経つのか、月日ってのはあっという間だな」
「いや、今日で八年だ。それに、時間なんて数える思い出が少ない程に短く感じるものさ。大体の奴は大概な……さて、そろそろお暇させてもらうよ。買い揃えないといけないものはまだあるからな」
グオンはそういい残してから店の出口に向かうと、扉に手を掛けた。
「次はもう少し優しく扱ってくれよ。嬢ちゃんにもそう言っとけ」
「……努力はするよ」
背中越しにクク爺から念を押されたグオンは完全に振り向くことなく、横目だけで返事をすると、扉を開け、店の外へと出た。
外に出ると、少し離れた大通りから賑やかな声が微かに足元に流れていった。さっきまでの場所と比べると、だいぶ空気が軽く感じる。
(やっぱり騒がしいのは少し苦手だな……)
グオンは一息つくと、再び大通りへと戻り、今回の依頼で使用した矢や棒手裏剣などの消耗品の補充を済ませ、一通りの買い物を済ませる頃には高かった太陽も、すでに西日へと傾き、建物の窓からは明かりが漏れ始めていた。
グオンは必要な用を済ませると、人通りがまばらになり始めた雑多市から自宅の在る居住区へと足を進めた。
居住区はこの街の西側に位置し、グオンはその区画で部屋を借りて暮らしている。自宅へと着いた時には、日はもう落ちきっていて、真っ暗な道を生活の明かりが街を滲ませていた。それは、グオンの暮らす部屋も例に漏れず、二階建ての上階の窓から見える明かりがグオンのこれまで引き受けていた依頼の疲労感で凝り固まった心を解していった。
グオンは階段を上がり、扉を開けて中に入ると、部屋の中には一人の少女が椅子に座って短刀を丁寧に綿の布で磨いていた。肩に届くかどうかの長さまで伸びた明るい茶色の髪、普段から櫛で梳かすことをしていないのか癖がついている。少女とは言え、今年で十七になる彼女の体格は大人へと近づきつつあり、無駄の無いしなやかに引き締まった身体からは少女が刃を磨いていることに対して、なにも違和感は感じさせなかった。
グオンが扉を開く音に気づいた人間の少女は、グオンを見ると一度短刀を机に置き、再びグオンへと幼さを残した笑顔で出迎えた。
「おかえり、父さん」
「ただいま、コチ。すまない遅くなった」
グオンは自身を父と呼ぶコチという少女に出迎えられ、入ってきた扉の横に今日買った品が入った腰袋と腰に据えた長弓を置いた。
「これ、クク爺のところに寄ったときにお前の弓を引き取ってきた」
グオンはコチの元へと近寄ると、昼にクク爺から渡された短弓をコチへと渡した。
「もう終わったんだ。流石はクク爺だね、ありがとう」
コチはグオンから弓を受け取ると、その場で握りの感触と弦を軽く引いて引き味を確かめた。
「なあに、もののついでだ。あと、クク爺がもっと丁寧に使えってさ」
「それは父さんだけに言った小言でしょ?」
コチの悪気の無い冗談に、グオンは笑いながら娘の髪を掻き回した。髪を掻き回されている彼女もとても楽しそうに笑っていた。
グオンとコチ。種族の異なる二人の間にはもちろん血のつながりはない。そして、二人の出会いはとても奇妙なものだった。グオンが七年前に引き受けた依頼。その届け物こそが現在のグオンの娘であるコチだった。
コチと言う名は、グオンが彼女を引き取ることになったときに新しく付けた名前で、本来の名前はククルである。
大地主の貴族の一人娘であったククルは、彼女の両親の依頼で遠く離れた土地に位置する別荘へと連れて行くという依頼だった。
グオンは最初、簡単な依頼だとばかり思っていたが。実際に移動を始めてからはククルの言動にはかなり手を焼いた。
ククルは貴族育ちであるが故に、外の世界を知らずに育ってきた。俗世にかなり疎く、身の回りのことも何一つ出来ず、そのくせ勝気な性格も相まってか、世話を焼くグオンには文句ばかり言っていた。こんな調子が一体いつまで続くのか、そう思うだけでグオンの頭は重々と重みが増していった。しかし、そんな中で一つの転機が訪れた。
ククルの命を狙う刺客がグオンたちを襲ったのだ。刺客は中々の手練れではあったものの、グオンはククルを無事に守り通し、手練れを退けた。しかし、グオンも相応の傷を負った。今まで綺麗な物だけを見続けてきたククルにとって、初めて見た命のやり取り。ククルは、より一層の恐怖を幼い彼女の心を支配する以上に、自分自身の無力さを思い知っていたのだった。
刺客に襲われた翌日、グオンは受けた傷により熱を出し、近くの村の宿を見つけて医者を呼び、傷の手当を受けて横になっていた。雨の降る曇り空の濁った光だけが照らす一室の片隅で、ククルは何も出来なかったことをただ悔しがっていた。
普段あれだけの文句を言いながら、いざ刺客に襲われて傷を負って床に伏しているグオンを前に、傷一つ無く立っている自分が腹立たしかった。グオンがいなければ自分はきっと殺されていたに違いない。しかし、グオンがいたことで、現在のククルは無傷でいられるのだ。けれども、裏を返せばククルがいなかったら、グオンはこうして決して浅くない傷をこうして負うことは無かったのだ。
こうして初めてククルの心の中で、自分の置かれている立場がいかに不安定で脆いものだったのかを知ることになった。此処にはもう自分を守ってくれるものは何もなく、現にグオンが床に伏している今、自分を守るのは自分しかいない。けれども、そんな強さを持ち合わせていないククルは、手を懸けられてしまえば、後は相手に身を任せるしかないのだ。そして、目の前で苦しんでいる唯一の頼みであるグオンに対しても何一つしてあげることが出来ない。
グオンが彼女を送り届ける依頼を受けている以上、運ばれている荷であるククルが責任を感じる必要は一切ない。しかし、彼女の性格はそれを許さなかった。ましてや、自分は物ではない、人だ、人間であるのだ。
外に細く立てる雨音に載せて、心の隙間に無力であることの悔しさと弱い自分への苛立ちが染み渡っていくのをククルはわかっていなかった。ただ足を引っ張りたくない純粋な気持ちは、ククルにある決心をさせたのだった。
やがて、グオンの傷が癒え、村を出発する直前にククルはグオンに戦い方を教えてほしいと頼んだ。勝気な性格ゆえの彼女らしい提案だとグオンは思った。
グオンは戸惑ったものの先日の出来事もあり、この先はある程度は自分で身を守れるようにしておいたほうが良いと考えた結果、ククルに戦闘の基本を教えることを決めた。同時に、グオンはククルに戦闘の手ほどきを教える代わりに自分の面倒を自分で見ることを条件に挙げた。仮に自分が刺客の手に倒れた場合、自分の身を守る以外に、自身の管理も出来なければいけないとの事だったが、ククルは何も言わずに黙って頷くと、グオンからの条件を受け入れた。
こうして、この日を境に師弟としての生活が始まった。初めてづくしの事ばかりで戸惑うことばかりのククルであるが、それに加えてグオンからの戦いの指南も決して優しいものではなかった。
最初はすぐに投げ出すと思っていたグオンの予想とは裏腹に、ククルは弱音一つ吐かなかった。今思えば、それは勝気な性格ゆえの彼女の強がりだったのかもしれない。
それから一年が過ぎ、ククルはグオンからの教えを蓄えていった。歳が歳だけあって吸収していく速度も目まぐるしかった。そして、長い旅で起きた様々な出来事を経て、一回り成長し、二人は師弟として信頼を深めていった。
グオンは正直なところ、こんなに少女を逞しくしてよかったのだろうかと思った。依頼が完了してしまえばククルは元の優雅な生活に戻っていくだろう。その時、こうして教えてきたことが彼女の足を引っ張ってしまうのではないかと不安だった。そんな気持ちを抱きつつ、やがて二人は目的の場所へと到着したのだった。
しかし、旅の結末は二人の期待と予想を超えていた。二人が長い時間をかけてたどり着いた目的地にククルの両親の姿はなかったのだ。さらに、別荘だと言われていた場所には一軒の宿が営んでいるだけだったのだ。
宿の店主に事情を話すと、やがて店主から一通の手紙が渡された。手紙にはたった一文。「私たちのことは忘れて、自由に生きなさい」とだけ書かれていた。
ずっと再び会うことを待ち焦がれていた両親に成長した自分を見てもらえるのを楽しみにしていたククルにとって、この事実に対する落胆はとても大きかった。
そして同時に、ククルは両親と家柄、自分の帰るべき場所を失ったのだ。
ククルはグオンの胸元で鳴いた。ただ泣き続けた。グオンに対して一方的にぶつけた罵声はただただ自分だけを傷つけた。グオンも何も言わずに黙って彼女の抑えきれない感情を受け止め続けたのだった。
一晩が空け、グオンは落ち着きを取り戻したククルに、これからどうしたいかを尋ねた。
昨日の事もあり顔を赤らめ、俯きながら目を僅かにしか合わせないククルはグオンについて行きたいとだけ告げた。
そして、これからも自分に生きてい行く術を教えて欲しいと、まだ教わっていない戦い方を授けて欲しいと、グオンを新しい自分の居場所にさせて欲しいとククルはそう願ったのであった。
グオンは微笑みながら頷くと、ククルの頭を優しく撫でた。グオンからの返答にククルの目からは大粒の涙が溢れるのだった。その後、ククルの両親が亡くなった事を知るのは暫く先である。
こうして、また一年の長い二人旅が始まった。来た道を辿るだけの道のりだったが、グオンはククルに対してより深い知識と技術を教え込んでいった。二年と短い歳月ではあったが濃密な時間を過ごした二人は他人とは呼べない特別な絆が生まれていた。
やがて、出発の地へと帰ってきた。結局のところ受け取り人が不明となったククルであるが、物でないためバージスで管理することが困難である彼女をグオンは保護という形で一緒に暮らすことにした。彼女もそれを望んだようで手続きは滞りなく進んでいった。
さらに一年が過ぎ、バージスでの保管期限が切れたククルは、グオンの提案を喜んで受け入れ、養子として迎えられた。そして、グオンは改めて家族となったククルにコチと言う名前を与えた。
新しく家族として歩んでいこうと送られた名前に彼女は純粋な嬉しさでグオンに飛びついた。二人は本当の親子になった瞬間であった。
現在、コチは配達員となり、今もグオンと共に暮らしている。お互いに別々に依頼をこなしているので会えないことも増えたがグオンはさほど心配はしなかった。
なにせ七年間も教えてきた彼女は自慢の娘だ。その辺の同じ歳の男の同業者よりも実力も経験も違う。逆に慢心してしまうことの方が不安だったが、元の育ちが良かった所為かその不安は杞憂に終わった。強いて言うなら、その期間は配達員となる前に済ましているのかも知れないとグオンは思っている。
こうしてお互いが顔を合わせる数少ないこの時間が、二人にとって何より心がやすらぐのであった。
コチはグオンから受け取った弓をグオンの弓の隣に立て掛けると、一足先に椅子に座ると、机に並べてあるさっきまで手入れをしていた武具を片付け始めた。
「クク爺から聞いたよ、早く帰ってこれたんだろ?」
グオンはそう言いながら、コチと机をはさんで空いたもう一つの椅子に腰掛けた。
「うん。気前のいい人でね、お陰で一日自由に伸び伸びできたよ。」
コチは机の上にあった武具をしまうと改めてグオンへ顔を向き直した。
「それでね、一緒に行ったヴォルさんはやっぱり馬が暴れちゃってさ。予定通り歩いて帰宅することになったんだ」
コチは可笑しそうに笑った。
コチの言う、ヴォルとはグオン達の仕事仲間の愛称で、本当の名をヴォルイグという。見てくれは狼に似た獣人族の彼だが容姿ゆえに家畜から怖がられてしまう。今回もその例に漏れず、コチだけが一足早く帰れることになった。
最初はコチも馬を断ったのだが、たまには親子二人でゆっくりしてこい。と、ヴォルイグが気遣ってくれた為、彼女は彼の言葉に甘えることにしたのだった。
「でも、ヴォルさん。馬が使えないからって別途でお金もらってたなあ。私もそっちが良かった……」
コチが口をすぼませながら、天井を見ながら気だるく愚痴をこぼした。
「どうせ甘味処で使うだけだろ。それに、見ない間にまた太ったんじゃないか?」
グオンは机に組んだ腕を置いて身を乗り出すと、コチに卑しい笑みを送った。
「そっ、そんなことないもん!……今日は程ほどにしたし」
コチは口では否定してするも、彼女の視線は自分の身体を右往左往している。いかにも年頃の女の子らしい仕草だ。しかし、彼女の引き締まった身体にはたるんでいる部分などどこにも確認できない。
「冗談だ、本気にするなよ。お前は昔から甘いものばっかりだな」
グオンは大笑いしながら椅子の背にもたれ、冗談に付き合わされたコチの表情は徐々に呆れ顔になっていった。
「父さんったら、弄り方が段々おじさん臭くなってきてるよ」
コチの一言に、さっきまで笑っていたグオンが急に静かになった。目が点になったかのように笑顔のまま静止したかと思うと、急にうなだれて左腕で顔を覆った。
「そのうちお腹も出てきて、飛べなくなっても知らないからね」
コチからの口撃がより激しくなり、そろそろ口では勝てなくなってきたかもしれないとグオンは思った。
「悪かった」
コチはグオンが一言、上目で謝るのを見ると、閉じた手を口に当てながら静かに笑った。
「冗談よ、これでおあいこだからね」
「敵わないな」
コチの笑顔につられてグオンも笑う。
少し時間を置いてグオンは懐から小包を取り出すと、コチの目の間にその小包を置いた。コチは不思議そうに小包を見ると、私にくれるのと尋ねるように自分を指差した。
「ああ、本当は明日にでも渡すつもりだったけどな、今日はお前の誕生日だろ?」
コチには誕生日は二つある。一つはククルとして、もう一つはコチして。コチの本当の誕生日、ククルとしての誕生日はもう覚えていない。そして、もう一つの誕生日である今日はグオンがコチを養子として迎えた日。二人が家族になった日である。
「早いね、もう一年経ったんだ」
コチの目が遠くを見つめていた。グオンはコチの表情を見て微笑んだ。
「八年か……そりゃお前もでかくなるもんだな」
「止めてよ、本当におじさん臭いよ」
コチからの言葉に、こんな時ぐらい父親らしいことを言わせて欲しいとグオンは苦笑した。
「ねえ、それ開けても良い?」
「お前のために買ってきたんだ、好きにしな」
コチは逸る気持ちを抑えながらゆっくりと包み紙を広げた。包みを広げると、中から細かい彫刻が施された木箱が現れた。あきらかに高価そうな贈り物にコチは戸惑っていたが、グオンから早く開けてみろと促されて恐る恐る木箱の蓋を開けた。
「……綺麗」
中に入っていたのは先ほどの木箱の彫刻に負けないほどの見事な銀の装飾が施された羽の耳飾りだった。
「誕生日おめでとう」
グオンからの言葉に、コチは八年まえと同じように飛びつくのだった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。感想いただけると嬉しいです。