3-272. マジュヌーン(117)王の影 - われもこう(変化)
“門”をくぐった先は、穏やかで暖かな木漏れ日と自然の香りに満ちている。いるが、俺たちを取り囲む空気は、お世辞にも暖かいとは言えねぇ。歓迎されない訪問者は、この場所の空気を冷え冷えとした緊張へと誘っている。
「訪問前のお手紙もないなんて、随分不躾ね」
後ろから聞こえて来る声は艶めいた女のもの。さっきの雪山に、やたらと派手な紫のドレス姿でいた奴だ。
「なにぶん、宛先も分からないでいたものでして。ただ、この時期のあるタイミングでなら、ここへと割り込んで移動出来るとだけ分かっていたので、この度こちらのお嬢さんに便乗させて頂きました」
割り込む、便乗する、と言う言葉。今回俺たちは、実際その言葉通りの事をしたワケだ。
本来なら俺たちが入り込む事など出来ないハズの場所へと、この小柄な毛皮を着た奴へと便乗するかたちで。
その場所、時期、タイミングを知ること。それが“預言の柩”を使って調べる必要のあったことだ。
もう1人居た南方人の女が、毛皮を着た小柄な奴の腕を引いてアルアジルから引き剥がす。小柄ながら鍛えられた肉体を持つ南方人の女は、その存在も感じさせず近付いて、動きを察知されるより早くそれをしてのけた。俺やフォルトナにも劣らないレベルの気配の消し方に動きのスムーズさだ。
「ああ、そんなに慌てなくとも、あなた方に害を加えるような真似はしませんよ」
全く平静で落ち着いたままそう言うアルアジル。
だがそれをそのまま信じるような間抜けはここにゃ居ないようで、10人ばかりの女が、手に手に武器や杖を持ちながらぐるり周りを取り囲んでくる。
それに応じてフォルトナがトーガをはねのけ優雅な仕草で弓を構えるが、それを抑えて、
「おい、話が違うじゃねぇかよ」
と、俺が言う。
「殺しもナシ、争い事もナシ、あくまで平和に話し合ってブツを受け取る……そうじゃなかったのかよ、ええ?」
こいつらはそれぞれになかなかの手練れだ。だが魔術、魔力を使って戦うのなら俺の相手じゃない。そして単純な身体能力だけなら、人間の女がどれだけ鍛えたとしても、猫獣人戦士の俺には敵わない。やり合う事になりゃ、俺1人でもこの場の全員を斬り伏せるのはそう難しくはない。だが、今回はそれが目的じゃあねぇはずだ。
「ええ、その通りです。私達は“蜘蛛の女王の使徒”と敵対する事を望んではいません。ですので───」
ここでアルアジルは一呼吸置きながら、周りをぐるり見渡して、
「かつての過ちを改め、修復する事が来訪の目的です」
と、そう言った。
▽ ▲ ▽
ヘルヴォラと言う名のその女は、ベッドの上に横たわり、明らかに病み衰えているかのようだった。
そいつの胸の中に、“災厄の美妃”の破片が残されている……と、そう言う事だそうだ。
誰がやったのか? と言えばそりゃ“先代”の持ち手、ヒジュルだ。
「……それで」
ヘルヴォラと言うその女は、見た目のやつれ具合や、また慇懃なアルアジル、そして周り全ての憎々しげな様子からすると、驚くほどに軽い調子で俺たちに向き合ってた。
だがその声がやや強張り、緊張……いや、苦痛を滲ませながら、その服の前をはだける。
「先代の忘れ物は、どうするつもりかな?」
開いてめくられた上着の合わせ。露わになった乳房のその間、胸の真ん中に、赤黒く脈動する塊が浮き上がっている。
「……ひでぇモンだな、こりゃ」
思わず漏れ出たその声は俺のものだ。
禍々しいと言うか、痛々しいと言うか、とにかくハッキリと「見てられねぇ」と思わずにはいられない。
「さて、はじめにも言いましたが、我々には皆様と敵対する意図はありません。それは我らにとって何一つ益をもたらすものではありませんからね。
そしてかつての過ちによる遺恨も解消したい。ですので───」
促され、俺は事前に言われてた通り一歩前へと歩み出て、ヘルヴォラへと近付く。
周りには緊張が走る。
それらの反応は全て無視し、ただヘルヴォラと言う女の胸の中心、赤黒く脈打つそれへと意識を集中させると、その脈動へと呼応するように俺の心臓がどくりどくりと激しく動く。
今まで以上の悪寒と気持ちの悪さに、胸を突き破って現れる闇のごとき黒い物体……“災厄の美妃”。
声が漏れ出るのを堪えきれず呻く俺と、ベッドの上の女とを繋ぐように放たれる赤黒い光。その禍々しい魔力の束が次第に太く、大きく、激しくなると、女の胸の脈動する赤黒い塊もまた、大きく揺れ始める。
その力が最高潮に達したとき、まるで爆ぜるかのように女の胸から大量の血が噴き出し、部屋を染めていく。だがそう見えたのはあくまで一瞬、実際に起きたことはそうじゃない。赤黒い塊……“災厄の美妃”の破片が空中へと浮かび上がると、それが俺の手にある別の赤黒い塊へと吸い込まれるようにして消えた。
2人の荒い呼吸だけが部屋に響く。気分も最悪だし疲労困憊だ。病みやつれたあちらさんにも、かなりの負担だったろうが、俺だってそんなのを気にしてられる余裕もない。
ベッドに突っ伏すヘルヴォラの周りへと集まる女達。俺はと言えば、両膝に手を置いてなんとか身体を支えながら荒く吐き出される息を落ち着かせ、
「終わり、だな、これでよ?」
と、アルアジルへ。
「ええ、問題なく」
アルアジルの素っ気ない返し。続けて奴、
「忘れ物はこれで回収出来ました。お互い、利になる取引だったと言えるのではないでしょうか?」
と言う。
そこに、ヘルヴォラの横で立ち上がった南方人の女が、
「忘れるな。エンファーラの獄炎は、いつでも貴様等の喉元へと伸びる事を」
と返すと、それにはさらに、
「ええ、十分に理解しております」
と返しながら、アルアジルはゆっくりと大げさに頭を下げる。
俺はまだ、荒くなった息をなんとか整えようとしながら、倒れないようアルアジルに促され部屋を出ていく。
「いかがでしたか?」
期待のこもった目でそう聞いてくるのは、家の外で待っていたフォルトナだ。
外に居た紫のドレスの女は、俺らの立ち去るのをある程度見届けてから中へと入る。
「糞ッ……気分悪ぃぜ……」
フォルトナの期待に応えられるようなもんは今のところ無い。ただとにかく胸のムカつきが半端じゃねぇ。初めて“災厄の美妃”が現れたときと同じか、それ以上だ。
「新たな欠片が主どのの身体に馴染むのにはやや時間もかかるでしょうから、致し方ありません」
横を歩くアルアジルは、やはり感情の読めない声と態度のまま、そう言ってのけた。
▽ ▲ ▽
聖域へと戻ってからも、アルアジルの言うとおり暫くはまるで病気みてぇにうなされていた。闇の森でのときよりさらにひどい。
アルアジルの想定よりも長かったようだが、その原因は不明だ。
なんだか俺の身体の中で、別々の何かが争いあいお互いを攻撃しあってでもいるかのようだった。
熱と悪寒と、定期的に訪れる吐き気に……何よりも悪夢。
前世での事もあるし、ラアルオームでの時期の事もあれば、最近……ここ数年の、クトリア近郊でやってきたこともある。そして中には明らかに自分の経験とは無関係な、闇の森でのことや、ゴブリンやダークエルフとの事も出てくる。
そしていずれの悪夢でも、目覚めるときには血溜まりの中に浮かぶ白い女の姿が見える。
白猫……マハのように見えるときもあれば、ムーチャやルチア、猫獣人部族や犬獣人部族、その他全く知らない誰かのように見えるときもあり、またヘルヴォラとかいう女やそこで見掛けた誰かに似ていたり、ヴィオレト……あるいは前世での小森や宮尾、上芝や亀谷……そして、オフクロ……今更になって思い出すのが意外なほど忘れてた誰かに似ていたりもした。
その血塗られた女は、俺へと誘いの目を向けながら微笑む。
陰惨で恐ろしく、また魅力的で官能的に───。
▽ ▲ ▽
「リカトリジオスの新たな動きが見えてきましたぞ」
と、フォルトナから報告が入るのは、その不調がなんとか落ち着いて来た辺りだ。
カーングンス遊牧騎兵。東カロド河を渡った先の、赤壁渓谷とかって辺りに住んでる東方人たち。
「どうやらリカトリジオスは奴らと同盟を組み、クトリアを東西から挟撃しようと考えているようです」
「へぇ……となるとそりゃ……」
「無事締結してもらう方が良いでしょうな」
“三悪”筆頭とする魔人勢力、ヴァンノーニ家を失った不均衡を均すには、そうするのが一番なワケだ。




