3-13. マジュヌーン(精霊憑き)(13) -サヨナラ
『───だな、───とに、奴の───は興味もないが───つもりなのやら』
ズルリ……ズリル……ゴッ……ズルリ……。
『……っと、こりゃ───まうか? ふん、───ナップルの───行くか』
ズリル……ズリル……ズリル……。
『まあどっちにせよ───が来るのは暫く先か。───ふん、面倒な仕事だな』
ズルリ……ズリル……ズルリ………。
……。
…………。
…………………。
薄暗い、冷たい石畳の部屋の中だ。
灯りもなく、暖房もなく、ただ幾つもの檻が並べられた空虚で広いホール。
その檻の中には、それぞれに何人かの生き物が入れられている。
犬獣人、犀人、猿獣人、蛙人、猪人、鳥人……そして、猫獣人。
分かる範囲で言えばほぼ獣人だ。その中でも俺の檻……猫獣人の檻と犬獣人の檻は、中にいる個体数が多い。
俺を含め、殆どの者が無気力で惚けたような顔をし、弛緩したように横たわっている。
何人かは糞尿を垂れ流しにしても気付かぬほどに意識が朦朧としている。明らかに何らかの薬、魔術のせいだろう。
この風景は……何だ?
いや、問うまでもない。これは記憶だ。俺の……この世界で生まれ育った、猫獣人としての俺の記憶だ。
かつて見た光景。かつて居た場所。
ここは俺が生まれ育った場所そのものだ。
当時の俺は、何も考えたり疑問を持ったりすることもなく、ただこの環境この状況が世界の全てだった。
今の─── 真嶋櫂として生きてきた俺の前世の知識、経験、それらを踏まえた考察。
そこから導き出されるのは、ここは言わば「家畜小屋」だ、ということだ。
クトリアを支配する邪術士達。その中で奴隷として、または邪術の実験材料として獣人を必要とする者達のため、捕えた獣人達を囲い込み、薬で大人しくさせ、飼育し繁殖させる。そのために作られた家畜小屋。
俺はそこで生まれ、育った。
毎日、餌として投げ込まれる肉の塊を貪り、檻の端で糞尿をひり、殆どの時間を薬で弛緩した意識で微睡んでいる。
あまり薬漬けにすると不健康になりすぎて、実験材料としても奴隷としても役に立たなくなるから、定期的に数人を連れて中庭へ行き、運動をさせられる。
デカい角の犀人、小柄で毛むくじゃらの猿獣人 、ウェーブがかった金色の耳をした高貴な印象の犬獣人、常に興奮気味で、暴れないように魔術による制御下におかれている猪人……。
知ってる顔が居る。知らない顔も居る。
その後見なくなり、おそらくは奴隷か実験材料として連れ去られた者も居る。
俺の檻には、多分母親も父親も、兄や弟、姉や妹も居ただろうと思う。
だが誰が血縁で誰がそうでないのか、いつ居なくなりその後どうなったのかなど、まるで分からなかった。
その中で、俺はずっと“売れ残って”いた。
いや、そうじゃない───。
『───イダール様、今回もこの……』
『ええ、この猫獣人……この者の様子を見にきました』
『まだ、連れては行かれないので?』
『以前に言った通り、今はまだ連れて行く必要は無いのですよ……。けれども、この者はいずれ必要になります。それまで───きちんと健康な状態で育てておいてくださいね……』
『はい、分かりました……』
時おり、俺の様子を見にくる奇妙な仮面の邪術士。
それが何者で、目的が何なのか。その時も今もまるで分からない。
そいつやそいつの使いが定期的に来ては、何かしらの検査をしたり、また簡単な読み書きや言葉を教えて来た。
それが何を意味するのか。
今、思い出し考えてみたところで、やはり分からない。
ただ一つ、妙に印象に残っていることがある。
あるときここの飼育係の男が、何気ない風にその邪術士へとこんなことを聞いた。
『しかし、何故そんなにこの猫獣人に拘るのですか? 他にもっと強い、珍しい者も居るでしょうに』
特に何か意図があって聞いたことではないだろう。
ただ普段なら飼育係の無駄口になど反応することもないその邪術士が、何故かそのときはこう答えた。
『天球儀が正しければ───この者は遠くない未来に、己の過去と───その業を思い出すのですよ。
そしてそれこそが───』
それこそが……?
その先が───思い出せない。
………………。
…………。
……。
▼ △ ▼
ぼんやりとした視界の中に、石造りの天井。
薄暗く、そして何よりも薬臭いこの部屋には見覚えがある。
しかもつい最近……つまり、ナップルの隠れ家だ。
視線をぐるり巡らせて、匂いを嗅ぐと、近くにはやはり例のボロを着た小さな生き物。
「───ナップル……?」
意識せず漏れ出た言葉に、そいつはふんふんと反応し、
「うん? 目覚めたのね、猫頭。猫頭、また戻って来たのね。怪我してばかりで、本当に世話ばかりかけるのね、猫」
と、妙にふにゃふにゃとした高い声でそう言う。
それを聞いて、俺は奴の話す言葉が理解できるようになっていることに気づき、そしてさらには今目覚める前に見ていた夢───いや、過去の記憶も思い出された。
そう、何者かその素性も正体も分からないが、俺はこのクトリアの“家畜小屋”で生まれ育ち、そこでその邪術士により「買われて」いた。
邪術士は俺にある程度の教養を求めていたらしく、一通りの言葉を教えてもいた。
過去の記憶が蘇ることで言葉なども思い出してくる……というのは金田あたりも言っていたことで、今まさにその状態であることにちょっとしためまいを感じる。
「───どんだけ経った……?」
俺は仰向けに寝たままの姿勢でナップルにそう聞く。
ナップルは聞かれてからふんふんと少し考えて、
「……うん、猫はたくさん寝てたのね」
とだけ返す。
全く役に立たない。
仕方なく俺は上体を起こして頭を掻きつつ、身体の状態を確認する。
両手、両足、脇腹、腰、肩、首、胸───そして頭。
触った限りでは今は特に痛みや腫れもなく、空腹ではあるが健康そうだ。だが顔の前面に手をやったときに、ちょっとした違和感を感じる。
顔の真ん中、ちょうど鼻面から眉間にかけての結構な範囲に、毛がなく、ガサガサとした部位がある。
「そこの傷跡はナップルの薬でも治らなかったのね。ここに連れて来られたときにはもう固まりかけてたからね。そう言う傷跡は、薬を使っても残るのね」
デスクロードラゴンの爪先に抉られた顔と、背中。その二カ所が深い傷跡として残されている。
そこを逆算すれば、おそらく俺は、あの排水口から落ちて沼地へと叩き込まれ意識を失ったときから、少なくとも傷口が塞がりかける程度には時間が経ってから、ここへと来たことになる。
いや、来たんじゃない。ナップルが言ったその通りに、「連れて」こられた。
「誰が───俺を連れてきた?」
静修さん───こいつの言い方をするなら犬頭───。そう答えが返ってくることを期待していたが、実際には違った。
「火傷顔なのね。猫たちが居なくなってから一……二……三回くらい寝て起きてして、そしたら火傷顔が猫を引きずって来たのね。
暫く置いておくから面倒見てくれというから、薬塗って、甘汁のませてやっていたのね。
甘汁はね、とても貴重なの。でも火傷顔はネズミとサボテンフルーツ持ってきたから、飲ませてあげたのね」
運び込まれるまでに3日程。そして薬を塗られ、恐らくは砂糖水か何かを飲まされて看病され……数日か?
何にせよ……かなり経っている。
静修さんは……樫屋や田上、金田に大野……小森……。クラスの、元学園の連中はどうしたのか?
俺を探しているのか? いや、それとも───。
───考えるだけ無駄だ。
静修さんはあのとき、ハッキリとこう言ったんだ。
俺は───俺の存在は静修さんにとって唯一残された。忌まわしい過去、宍堂家のしがらみそのものだ───と。
そしてその宍堂家のしがらみから解放されたいと願い、その願いの叶った静修さんにとって、唯一残った俺の存在が邪魔だった。
だから、薬の副作用で動けないほどの疲労をしていた俺を突き落とし───その生死を運命に任せて立ち去った。その筈だ。
なら、戻った静修さんはこう言っただろう。櫂はあのドラゴンに殺られた。皆を守るため、立派な最後だった。
そう静修さんに言われて、疑う奴は誰もいない。
そして皆は、静修さんに導かれてそのまま何処かへ立ち去っただろう。
新たな居場所を求めて。
俺は生き延びた。けれども俺にはもう、戻るべき場所はない。
▼ △ ▼
目は覚めたものの、体力はかなり落ちていた。空腹もそうと意識し始めるとより強く感じだし、ナップルが例のくそ不味いスープを出して来たのでそれを啜るが、何故だか何の味も感じられなかった。
飯を食い、便所を借り、やることもなく疲れたらまた寝た。
例の鐘の音が時間の経過を教えてはくれたが、実際にどれくらいの時が過ぎたのかを意識はしていなかった。
何かをする気力もなく、何かをしようと言う意志もなく、ただ無為に時が過ぎていた。
暫くして、どうやらこの隠れ家には俺とナップル以外もう誰も居ない事に気がついた。ずいぶん今更なことだとは思ったが、とは言え全く興味もわかなかった。
だが、改めて考え直すと、そう言えばここに残った連中の中には、おそらく例の飛行機の墜落事故に巻き込まれた奴らが居たはずだと言うことも思い出した。
学園の生徒でも関係者でもないが、同じ乗客で、あの赤黒く空の渦巻く荒野で、骨と皮だけの爺に「生まれ変わらせてやろう」と言われた誰か。
もしかしたら、とまた儚い希望を手繰り寄せる。
もしかしたらその連中の中に、静修さん達が何処へ行ったのかを知ってる奴が居るんじゃないか?
そんな事を思い、ナップルに「ここに残った他の連中はどうした?」と聞いてみた。
するとその答えはなんとも期待はずれで、
「うーん……ナップルにはよく分からないのね。ナップルとっておいた薬や、集めていた材料や色んな金ピカの道具とかを持って、みんな何処かへ行ってしまったのね。だからもうこの隠れ家には、オオネズミのスープくらいしか残ってないのね」
というもの。
猪口が「あいつの持ってるものを全部ぶんどっちまおう」なんてことを言ってたが、それを言葉通りに実践して居なくなったと言うことか。
まあだが考えてみりゃ当たり前だ。
確かコイツは最初、自分は凄い邪術士の相棒だ、とかなんとか言っていたが、今になってもそいつが姿を現さないということは、多分とっくに逃げ出したか王国軍とやらと戦って殺されたかしたんだろう。
残るこいつは、正直どう見ても恐ろしくもなきゃ強そうでもない。いや、ハッキリ言えば頭も悪いしてんで弱そうだ。
そうなりゃ、戴けるものを戴いてさっさと余所へ行こうと考える奴らが出てくるのは時間の問題。
単に俺たちは、そう考えるより早くに出て行ったに過ぎない。
「じゃあ、もう薬を作ることも出来ねーのか」
そう聞くと今度はふるふると首を振り、
「この隠れ家ではもう出来ないけど、他の隠れ家に行けばまだまだ材料があるの。そうなのね、そろそろ移動した方が良いけど、他の隠れ家はもっと街の中心の方にあるから……ううん、王国軍とかがケンケンしてて、まだ近づきたくはないのね」
こんな弱そうなチビをわさわざ捕まえたりするもんかね、とも思うが、一応こいつは自称、邪術士の相棒だ。もしかしたらもしかすると、その関係でどーにかされる……てのも、無くはないのか。
俺はそれを聞いてなんとはなしに、全くただの思いつきでこう言った。
「……そうだな、ちょっと様子を見てきてやるか」




