中弛み
数日、何も変わらない日が続いた。
ロードは椿鬼と光琉に付き添ってもらいながら時計の針を動かそうと時計に向かって力を込め続けた。力を時計にたたき込むようなイメージは日ごとにしっかりと形作られていくものの、初めての時以上の変化はなかなか訪れない。
進歩のなさに集中力が落ちてきたのかロードの周囲から火が上がることが増えた。以前よりも大きく、勢い良く飛び散るようになった火花は傍に控えている椿鬼か光琉によって即座に消火された。
日々強くなっていく炎に見守るほたるの期待は高まっていくが、それと反してロードは何か決定打が足りないような気持ち悪さと歯がゆさに手詰まりを感じていた。
「まあ世の中そううまく事は運ばないさ。じゃなきゃ世間に達人で溢れかえってしまう。炎が強くなってんだし、進歩はあるんだから元気だしなよ」
まるで今この瞬間に冷凍庫から取り出したように冷えきっているアイスを椿鬼はロードに差し出した。
夏だというのにアイス避けだろうか、手袋を身に着けた手からロードはそれを力なく受け取るとぱりりと音を立てて袋を開けた。アイスを持つ顔に覇気がないのは見間違いではない。ロードは憔悴しきっているのだ。
ロードはこの数日、追い込み作業だと言わんばかりに閉じ籠り訓練をこなしていた。椿鬼も光琉も、命じてなどいない。ロードの自主性によって行われている訓練だ。
初日に感じた手ごたえを今一度、とロードが焦っているのは誰が見ても明白だったが止めたところで止まるようならばここまで憔悴する事態には陥っていない。
一日に数度は椿鬼とほたるが外に連れ出して買い食いや町案内をして息抜きをさせていたのだが――それも拒むようになり更に数日、ロードの憔悴ぶりに椿鬼がドクターストップならぬマジシャンエスパーストップをかけたのだ。
「やりたいだけやればいいとは言ったよ?でもこれでわかったでしょう、焦っても進まないよ」
「……」
ロードは無言だ。無言でぽりぽりアイスにコーティングされたチョコレートを齧っている。無残にチョコレートを齧りとられたアイスは冷凍庫よりは暑い室内の空気に晒されとろりと白濁の液を垂らす。
「ほたるだって心配してる。大切な親友をこんなに不安にさせちゃダメだろ――あ」
ロードが中途半端にチョコだけ食べていたせいか、バランスが崩れたアイスが薄い木製の柱から離れた。ズ、ズと重力に引かれ地に落ちようとするそれに椿鬼は無言で懐から受け皿を取り出す。溶けて食べごろをやや過ぎたバニラアイスはマットの敷かれた床に着地する前に姿を消し、ロードの後ろでベッドに座っている椿鬼の手の中の受け皿に現れた。
べちゃりと崩れたアイスを椿鬼はロードに差し出すが――ロードは首を横に振る。
しかたなく椿鬼は皿の中のそれを目に見えない何かでぐしゃぐしゃと潰し始めた。
「せっかくのアイスなのにもったいなーい」
「……だったら潰さないで食えよ」
地の底から吐き出されたような声には普段は滲んでいる愛らしさがみじんもない。まるで七連勤を終えたサラリーマンのような声だ。
「仕方がないでしょう。あなたが食べないなら私が食べるしかないし。しかし私は冷たい塊であるアイスが食べられないわけだ。ならば溶かすしかない」
自分の力で潰すのもまどろっしく感じたのか椿鬼はどこからかスプーンを取り出すとざっしゅざっしゅと勢い良くアイスを潰し始めた。
スプーンで刻まれたアイスはさらにスプーンの膨らんだ背で念入りに潰される。やがてそうして凌辱されてしまったアイスクリームはただの生クリームと卵と砂糖とバニラエッセンスの溶けた冷製スープとなってしまった。
冷たいスープをスプーンですくってふうふうと何故か冷ますように息を吹きかけて椿鬼は元アイスを飲んだ。
「十分冷たいだろ何で冷ます」
「冷ましているんじゃない。常温に戻しているんだ。人肌の息を吹きかけて」
「気持ち悪いな……」
思わず漏れたロードの心からの言葉に、再び室内に仕方ないだろーと言葉が響く。
それからしばらくは頬をついて壁を睨むロードの溜息とするすると甘い汁を掬っては啜る椿鬼の音しかなかった。
互いに言葉は発さない。そんな静かな空間になると目立ってくるのが――秒針の音だ。カチカチカチカチ普段は存在すら忘れ、音を数十束ねても「ああ、短い」としか感じないそれが静寂となると一気に自己主張を開始する。
ロードが思うにこの時計というものは一般に几帳面で遠慮がちな性格だと描かれることが多いが実際には自分が確実に目立てる場面でしか自己主張できない小心者かつセコい野郎なのではないだろうか。大体肝心な時に電池が切れてただの飾りになり果てる。それは時計の手入れをを怠った自分の責任ではあるのだが、しかし几帳面だというのならば自分で電池位交換しておいてくれないだろうか。目覚まし時計はかまってちゃんで朝金切り声でテレビの左上に現れる時計は画面が隠れて邪魔だ。ああ、どうしてこんなにも時計は人という存在にとって害でしかないのだろうか――
「もしもし?なんか変な方向にイライラしてない?もう思考止めよう。な?」
「……時計なんて嫌いだ」
ぐったりとした視線の先にあるのは自らの使命を忘れた、あるいは未だ知らない時計だ。秒すら刻まないそれは文鎮と言って差し支えない。無駄に横幅を取る分文鎮としても邪魔で無能な部類に入るだろう。
ここ数日見つめ続けていたせいでもはや視界に入るだけでそれはロードの心に苛立ちを掻き立てた。
「それはあなたの象徴だ。そんなこと言っちゃ自分のことまで嫌いになる」
椿鬼の言葉は優しい。言い聞かせるようにかけられる言葉が、自分の幼さを示しているようでロードは情けなさに爆発しそうになった。
「もう嫌いだよ……」
思わず呟いてしまった本音に、とうとう椿鬼も困り顔になる。
焦りと不安が滲み出すようにべっとりとした汗がロードの顎を辿って落ちていく。拭っても拭っても溢れ出す気持ち悪さにロードの心がざわめいた。
椿鬼もロードにつられてか顎を触るがそこには一滴の汗もない。さらりとした肌を、少し固い指がスルスル撫でる。その違いが、自分と椿鬼の違いを示しているようでロードの心はさらに荒れていく。
ほたるとロードがこの家にやってきて一週間。彼らの旅行は名目上、夏休みのホームステイとなっている。何の進展もないまま、長い休みの五分の一が過ぎようとしている事実がロードの胃をキリキリと痛めつけた。
「やってますかー?」
唐突に静寂は破られた。突然の来訪者に机に突っ伏していたロードは後ろを振り返ろうとして勢い余って椅子から転げ落ちる。よく回る椅子のせいで無駄に遠心力が加わり体がねじれるようにして落ちた。
椿鬼は最初からその来訪を知っていたのか静かに視線だけをその男に向ける。
「やり過ぎだから休憩入れようとしてたところ」
「ああ、そうなんですか。やり過ぎは良くないですよねえ」
男の――例えるならば過ごしやすい午後二時のような声は聞いていてとても心地よい。椿鬼のまっすぐに心に向かって突き進んでくる、どちらかといえば重たい印象の声と違って男の声はとても軽くやわらかい。
無駄な力がどこにも入っていない立ち姿と同様、フラットな発声だ。
「あんた確か……僕の家に来てた」
真っ直ぐに流れる、女性も羨むような艶やかな黒い髪が印象的なその男をロードは知っていた。椿鬼が初めてロードの家に来た後、何度か護衛としてロードの近辺で過ごしていた男だった。
激しく人見知りをするロードに対して馴れ馴れしく話しかけてはふらりと姿を消すような男だったとロードは記憶している。
妙に親しみやすい容姿に、聴き心地のいい声は容易に人の心を開くが――開くだけ開かせておいてそれ以上は踏み込んでこない。風のように無色透明で何の重みもない。悪い人間ではないが軽薄、それが男から大多数の人間が受ける印象だろう。
「ヤマトです」
流れるように自己紹介をヤマトはした。しかし名前以上に語ることはないのか、たった5文字で自己紹介は終わった。護衛についていたこともあってロードのことは一方的に知っているらしく、ヤマトはロードに対しても何も聞かない。
ヤマトはロードにニコニコと中身のない愛想は振りまくものの、用はないのかふいっと首を背けて椿鬼に向いた。
「そんなことよりお嬢様、見てくださいよこれ!すごいレアな本見つけたんですよー」
そう言ってヤマトは辞書二冊分は厚さがありそうな本を軽い小包でも渡すかのような気軽さで椿鬼にパスをした。
人を確実に殴り殺せる質量を持つそれは怪力の椿鬼にとっても危険物なのか眉間に眉を寄せ落とさないよう慎重にそれをキャッチする。焦りはしても危なげなく受け取るところは流石といったところだろうか。
椿鬼は受け取った数キロはありそうな本を片手に持つとペラペラと捲る。
「自費出版の本……うわあなんだこれ、ヤマトお前はまたこんなゲテモノを……」
簡単に数ページ読んだだけで全体の出来を察することができる程度には内容がよろしくなかったらしい本を椿鬼はどこかに置いた。瞬時に姿を消したその本の行方をロードはもう聞くことすらしない。彼女の周囲で物が瞬時に姿を消すなど日常の風景でしかない。
「情熱があるじゃないですか。こんな酷いものを高いお金払ってまで世に出すなんて。努力に涙がこぼれそうですよ」
他人の創作物を一点の曇りもない笑顔でそう吐き棄てるヤマトは一般的にクズと称していい部類である。
もうその程度の発言は当たり前なのか普段は注意したがりの椿鬼も口を挟まない。
ヤマトはその本を渡すためだけにこの部屋に来たのか言うだけ言うとさっさと部屋から出て行った。まるで猫のようにしがらみを感じさせないヤマトのその自由さはロードにとって、尊敬はできないが羨ましいものだった。
「ヤマトは私の教育係というか……しつけ係というか。まあ兄妹みたいなもんなんだけど」
聞いてもいないのにヤマトとの関係を語りだす椿鬼もいい加減語りたがりだとロードは思う。
「教育係には向いてなさそうだけどな、あいつ」
「それはその通りだね……」
ヤマトに毒気を抜かれたのか、引きずられたのか。ロードの言葉にもう無駄な力は入っていなかった。
「へーヤマトさんって言うんですか~おれ帆樽健太郎って言います!よくほたるってよばれます!」
「そうなんですかーお嬢様がお世話になってますー」
ロードと椿鬼が居間に向かうとそこではロードの人生史上一気の抜ける会話が交わされていた。
設置されたテレビを二人で見るようにほたるとヤマトは座っていた。ほたるの芯が柔らかい話し方とヤマトの人の話を聞いてるようでどうでも良さげな話し方がいい感じに組み合わさり聞いている者の力を抜いてくる。
二人の会話の内容は無いに等しいが、それでいいのかどちらもダラダラと話を続けている。テンポよくとはとても言えないがたんたんゆるりと会話を続ける二人の後ろ姿はまるで兄弟のようだ。
妙な気の合い方をする人間もいるものだと力を抜けさせられながらロードは感心した。
なんだかんだで人付き合いが極端に狭かったせいでロードもほたるもそれほど人のバリエーションは知らない。気の合う人間といえば身内だけ――そんな世界が広がり始めているのだと改めて認識する。
「椿鬼、ヤマトが持ってきた報告書読んだか。なんか妙な奴がこの辺うろついてるみたいだ」
椿鬼とロードに遅れて居間に入ってきたのは一枚の写真を手に持った光流だった。外出していたのか髪はしっかり整っている。
光流の手元から写真が消え、瞬時に椿鬼の手元へと現れる。椿鬼はそばにいるロードが写真を見えるように少しかがんだ。その配慮にやや苛立ちを感じながらもロードも写真を覗き込む。
写真に写っていたのは影だった。黒い衣装を身につけたその上で素早く動いているのかのように像がブレている。そこから得られる情報は非常に少ないが、椿鬼には思い当たるところがあったらしい。
「あの時の男か」
その言葉に光流は視線をヤマトへ流す。ヤマトはその視線を受けて小さく頷いた。
「はい。以前ロード様を襲った者のようです」
その言葉にロードはハッとした。蘇るのはろくでもない影と泥と血の記憶だ。狩りのようにほたるとロードの二人を人気のない山へと追い込み襲ってきた輩だ。ロードの怒りに炎がぽっと点く。――敵だ。
「せっかく四肢無事に放されたのにどうしてわざわざ帰ってきたのかなこの馬鹿は」
眠たげな金髪を揺らし半開きの目でぼそりと光流は呟いた。
「放されたから、こそだろう。わーい無事だった帰るぞー!なんて出来ないだろうしなあ。仲間がいるなら切られるのがオチだ。そりゃ意地になってでも追いついてくるさ」
「じゃあ敵は一人か」
「わからない。案外仲良しこよしのグループの可能性もある。能力者は周囲に影響を撒き散らして能力者候補を生む以上、奴にも能力という情で繋がってる仲間の一人や二人はいるかもしれないし……さて、どうしますかね」
椿鬼の視線はロードとほたるの二人に向いている。
椿鬼が何かを言おうとした瞬間、ロードは咄嗟に叫んだ。
「迎え撃つ!」
「誰が」
「僕が!」
ロードの言葉に椿鬼は困ったように頬を掻いた。迎え撃つという手段はあまりとりたくないようだった。
「なんだその顔」
「迎え撃つったってあなたね……人殺しになるつもりか?技術も未熟だから手加減もできないだろうし、あなたが今出せるのは炎だけだよ?焼き殺しでもしたらどうするの」
「僕を殺しに来た男だぞ!死んだって構うもんか!」
口論に映ろうとする二人の間に割って入ったのはほたるだった。その顔は焦りに濡れている。
「待って待ってなんの話?襲われたって何?」
「覚えてないの?」
今度は椿鬼の顔が困惑に染まる。ロードはほたるについて椿鬼の耳元で軽く説明した。あの時のことを覚えていないと。それを聞いた椿鬼は尚更に困ったような顔になる。
「ならなおさらだ。ロード、あなたはほたるを人殺しの友人にするつもり?それにもしかしたらほたるだって襲われるかもしれないんだよ」
ロードはそれを聞いて黙りこむ。ほたるはそれを見てほっと息を吐いた。
「しかしそれにしたってどうするんだよ、いるんだろ、そいつ」
椿鬼は顎に手を当ててううんと唸る。一つ思いついたのか顔を上げた。
「空から探す!」
「お嬢様、この中でそれを出来るのは光琉だけかと。男は身を隠すことに特化した能力者です」
「そういえばそうだった……」
しゅん、と上がった拳が下がる。同じように頭も下を向く。
「じゃあひとまず今日はこうしよう。光琉、とりあえずここら一帯回って来てくれないか」
それをあい分かったと了承しかけた光琉だったが、ワンテンポ遅れて表情が一転する。
「えー!ちょっと待てよ!オレだって潜まれると辛いんだぞ!隠れている相手を探すのは凄い集中力使うし、なによりオレそいつのこと知らないし!流石にステルスが相手だと相手が何かアクションを起こさないと厳しい」
「なにもしないで手招いているよりマシだ。私はここで二人を守ってるから光琉は空から、ヤマトは地面からその辺を調べてきてほしい」
私は守ることも調べることも下手だからな、と胸を張る。適材適所といえば聞こえはいいが実際には自分にできないことを相棒に押し付けているだけだ。
光琉はぶつくさと文句を言いながらも一応請け負うらしく渋々と言った風に頷いた。こうして二人は互いに無茶ぶりをしあっているのだとヤマトが笑顔で言う。誰も聞いていない。
「待って。まさか見つかるまで僕たちこの家に閉じ込められるとかそんなことはないよね」
「そんな!」
悲劇的な顔でほたるが手を組んだ。祈りを捧げるように椿鬼を見つめるが、その双眼は冷たい。
「そんなことは言わないよ。でも今日はひとまず自宅待機だ。……ヤマト、明日理事長が出張から帰ってくるだろ」
「ええ。今夜飛行機で帰ってきます」
「じゃあやっぱり明日だな。それまで頼むよ二人とも」
遊びならいくらでも付き合ってあげるから、と取り出したトランプにロードとほたるは
顔を見合わせた。
光琉は早くも隈ができたような目で支度を始め、その後ろではヤマトがよくわからないホラービデオを見だしていた。
「……」
仕方なく、三人はババ抜きを始めた。
ハートの八が足りないことに気が付けず、結局二時間ほど無駄な戦いを続けた。八の足りないババ抜きで戦いの無意味さを悟った三人は自分の部屋に帰って行ったのだった。