漆黒の少女 3
少年の目にまず入ったのは不安そうに自分たちを覗きこむ視界いっぱいの大男だった。
薄汚れたシャツを着ていて、男の顔も土で汚れていた。毛という毛が濃く、一つ一つのパーツが非常に大きい。
通常の顔の大きさよりも大きい顔にですら狭く感じてしまうほどぎっしりと目や鼻が詰め込まれた顔は見慣れていなければ悲鳴を上げてしまうほど濃い。
「親父……?」
「起きたか、ロード!」
状況が理解できずに、混乱しながら平べったい使い古された布団から体を起こすロードを大男――ロードの父は力いっぱいに抱きしめた。
ロードの140センチ程度しかない体はその巨体にすっぽりと収まってしまう。
一般的な成人男性の倍はあろうかという体躯で抱きしめられ、薄い胸におさまる肺が悲鳴を上げた。あっけなくその呼吸は乱れ、声も出せなくなってしまう。ロードはその命をつなげるために父の胸を力の限りに殴りつけた。
「離せ!苦しい!」
ロードは見た目が幼い少年とはいえ中身は18歳である。
体が小さいからこそどうすれば相手にダメージを与えられるのか、彼は感覚的にであるがよく知っているし何よりその知識を行使することをロードは躊躇しない。たとえその相手が父親だろうと、いや父親だからこそ躊躇わない。
たとえその強すぎる抱擁が愛ゆえのものであったとしても自分が苦しいならばそれは理不尽な暴力であり害なのである。しかしロードの父はその手を放さない。
「すまんなあロード。ほたる君にも怖い思いをさせてしまって……わしのせいだ。考えが甘かったせいでこんな目に合わせてしまった。いつかこうなることは教えられていたのに」
「離せッ……っはあ、……どういうことだよ。教えられてたって」
後悔を滲ませた父の言葉に引っかかりロードは食いついた。
「こんな目に合わせてしまった」「いつかこうなることは教えられていたのに」まるで何かが起こることを事前に知っているかのような言い草だ。
そういえば自分は何故自宅にいるのだろうか。確か寝る前は外出をしていて別の場所にいたはずだ。となりには何故かすやすやと心地よさそうに眠っているほたるまでいる。
いくら付き合いの長い友人同士だからって仲良く隣同士でおやすみなんてもうしない。そもそも、自分はいつどこで眠りについてしまったのだっけ――
途端、意識を落とす前の記憶が溢れだす。奇妙な爆発、自分の呼吸音、切り落とされる男の手足。まるで現実味のない非現実な現実の数々。フラッシュバックする恐怖という感情。
そして自分が自宅にいるという事実が指し示す答え。
「……助かった?」
ぐらぐらと視界が揺れた。かつてない危機が自分を襲っていたのだという確かな記憶と、ゆらぐその過去と今をつなぐ道。
何があったか理解はしても納得ができない。およそ信じることができない脳裏をよぎる光景にロードはそれが夢だったのだと答えを付けかけてしまう。
「そうだ。良く逃げてくれたなあ。あの子の言う通りだった……お前のことを思うなら、言うべきだった」
巨大な体が再びロードの小さな体を抱きしめた。ロードの顔を片手で握りつぶすことができそうなほど大きな手が震え、優しく背を撫でる。
ロードは、その手が酷く冷え汗ばんでいることに気が付いた。普段は暑苦しくて近くに寄ることすら拒絶したいほどなのに、今自分を抱きしめている父からはその熱気が感じられない。
父の発した言葉で彼が自分に危機が訪れることを知っていたこと、そしてその事実を何らかの事情で黙っていたのだとロードは理解した。そして、その選択が愚かだったということも。
この小心者の父はいつもそうだ――ロードは心の中でそう吐き捨てた。巨大な体を持っている割にその心はいつも握りつぶされてしまいそうなほど小さい。
その巨体で怒鳴りあげれば誰だって物を言い聞かせてしまえるのに、いつも恐怖と不安に押さえつけられてしまう。
とにかく気弱で、胸を張っていればいい場面で縮こまってしまう。その気弱さは言い換えれば優しいというらしいが、どうにもロードは好きになれなかった。恐らく今回もその気弱さのせいで言い出せなかったのだろう。
ただ気が弱いのならばいい。それは人の個性だ、仕方がない。しかし人によって重要なことを勝手に判断してその結果危機に陥れるのは親としてどうなんだ。胸に満ちかけていた困惑はふつふつと湧きあがる怒りに置き換わっていく。
それは経験から出た答えだった。
「……また、僕なの?」
ぼそりと、呟いた。
「ロード……」
「また僕なの?僕のせいでまた厄介ごとに巻き込まれたの?しかも今度はほたるまで巻き込んで?……わかってたならどうしてもっと早く言わなかった!」
ロードの胸は怒りに燃えていた。誰でもない、自分を焼く炎だった。
まただ、また自分のせいで誰かが怖い思いをした。
確かにこの事態は事情を放そうとしない父親のせいで引き起こされたものである。しかし――元をたどれば原因は自らの肉体なのだ。
この憎たらしい成長しない肉体は自分にコンプレックスを植え付けるどころか周りの人間に不幸をまき散らす。いつだって、いつだって。だから襲われたとき恐怖に混乱する心の裏で確信があった。この妙な爆発で襲ってきた男は間違いなく自分を狙ってきたのだと。
今までにも似たようなことはあった。
ありもしない可能性に縋り妙なものに手を出して借金取りや詐欺師の取り巻きに追いかけまわされた経験など飽きるほどある。
妙な人間たちが脅しにロードと関わりのある人に手を出すことなどしょっちゅうだ。ロード自身より必死に治療手段を探し回っていたロードの父も、最近はさすがに懲りたのか変なものに手を出すことをやめた。おかげで襲われることは減ったが、しかしそれでも作ってしまった因縁のすべてが清算されているわけでは無い。あの謎の男も、その手の連中の関係者である可能性はある。
「何とか言ってよ!何か知ってるんだろ!襲ってきたやつのこと!」
叫びが狭い部屋に響き渡った。叫びは伝わったかとロードはちらりと父に視線を向ける。大男は座りが悪そうに視線を逸らすばかりだった。
この期に及んでまだ黙るのか――ロードが父の首元をつかもうと膝を立てた時だった。
「大吾さん。まだ息子さんに話してらっしゃらなかったんですか?命に関わるってあれほど言ったじゃないですか。自分で告げるって言うから待ったんですよ」
飾りにもなっていないところどころ裂けている暖簾をご丁寧にも潜ってやってきたのは一人の少女だった。
真っ黒な髪に、黒の瞳。歳は中学生程度のように見える。身長は同世代の女子の中ではやや高いほうに入るだろう。
ワイシャツの上には燕尾服のように二つに分かれた長い裾が特徴的な黒いベスト。その胸には朱色の鮮やかなネクタイが結ばれていた。
下半身はパンツに包まれているが脚の付け根にそれぞれベルトを装着しており、よく見れば二の腕にもベルトが装着されていた。
一目見た感じでは何かのコスプレのような印象を受けるが、その衣装を着慣れしているのか変わった服装の割に着られているという印象は全く受けない。
「……あいつの腕切った奴」
ロードは少女の胸元のネクタイには見覚えがあった。そう、それは間違いなくロードとほたるの二人を襲ってきた男の腕と足を切り落とした影が身に着けていたものだ。
思い返せば確かに声も影が発していた声とよく似ている。
「あんたが恩人……なのか」
「恩人ではないかもしれない。こちらの不手際であなたたちを命の危機に晒してしまったわけだし。敵が馬鹿だったから間に合っただけだ」
少女は堂々とした動きでロードの前まで歩いてくると、視線を合わせるためかその前に腰を下ろした。足をたたみ歪んだ床板の上で正座をする。どうやら少女にとってはその姿勢が自然体らしく、緊張している様子は見られない。
少女はロードがしっかり自分の目を見ていることを確かめると口を開いた。
「そろそろあなたには真実を知ってもらわなければならない」
「真実?」
真実という言葉に脳裏をよぎるのは顔も知らない母親の顔だ。
ロードは物心ついたときには既にこの家に暮らしていた。そして、自分が父の実の息子でないことを言い聞かせられていた。それに対してはあまりに似ない風貌から「そうだろうな」という感想しか抱くことができなかったのだが、気になったのは母親のことである。
何一つ嘘をつくことができないロードの父、大吾がどう求めても唯一口を開かない話だったためだ。
謎の男に狙われたことも顔も知らぬ母に関係があるのだろうか。
それとも、成長しないというコンプレックスの他にトラブルを呼ぶ謎がまだこの体に隠されているというのか。
どちらにせよ、真実を知れと言われればロードは緊張せざるを得ない。ピンと張る空気にロードも思わず煎餅布団のうえで佇まいを直した。
真剣な面持ちで自分を見つめるロードを値踏みするように少女はじっと見つめた。逸らさず見つめ返してくるロードに満足が行ったのか少女は視線で大吾に話の許可を求めた。愛する息子を危機に晒した自責の念から萎んでしまっている大吾は力なく首肯した。
「じゃあ話そう。どうか疑わずに信じてほしい」
「わかった」
勿体ぶるように事前注意を言い聞かせる少女にロードは小さな苛立ちを心に重ねた。何を躊躇しているのか、少女はタイミングを図っているようであった。しかしやっと決心したのか、ロードの前に座りなおすと真剣な顔で言い放った。
「――ロード・ブラッド。あなたは母譲りの才能を持つ魔法使いなんだ」
「っっっざっけんじゃねえ!ふざけてんのかあああああ!」
「うわッ!」
「こらロード!」
少女の言葉の後、場は静まり返った。
少女はまっすぐにロードを見つめ、大吾は祈るように手を組みそこに額を付ける。
隙間風が抜けていってるのか屋内だというのにひゅう、と風が一つ抜けていくのをロードは感じた。そんな冬の夜明け前の海のような静けさをカチ割るように怒り狂ったロードは叫びを上げた。
突然の咆哮に驚き身を引く少女を庇うように大吾がロードに掴みかかる。その庇う動きにロードの怒りはさらに燃え上がる。
「親父!しばらく誰にも騙されてねえなと思ってたらまたなのかよテメエッ!カモにされるのもいい加減にしろよ!そんなガキ庇うな!」
「大吾さん、ロードくんいきなりどうしたんですか!私何かしました!?」
「いや、あの、いろいろ積み重なったものが……」
人が変わったように激昂するロードに戸惑う少女に大吾はしどろもどろになって弁解した。
話下手なのかぐちゃぐちゃになっている大吾の話から少女はなんとか「息子は悪い子じゃない」というメッセージを摘みあげると立ち上がった。視線の先は――完全に目の色が変わってしまっているロードである。
ロードは叫びともに近くに合った孫の手を手に取ると緩く曲がった方を相手に構え距離を取った。
人相手に攻撃することに慣れているのか、背を低くして気を窺うその姿は現代によみがえった戦士のようである。戦士を名乗るにはいささか身長や体重が足りないがそれを補って余るほどの敵意がロードにはあった。
「待って、信じられないのはわかるけどそこまでしないで。落ち着いて話を聞いてほしい。ひとまず落ち着いて。危ないから孫の手を置いて。いきなり本題に入って悪かった。あなたが信じられるように順序立てて話すべきだった。だから話を聴いてほしい」
「うるさい!詐欺師は黙って帰れ!怪我でもしたいのか!」
怒りに冷静さを失うロードに対し少女は冷静そのものだった。叫びを上げた瞬間こそ驚き怯んだものの、攻撃態勢を取るロードに対し興奮する獣を落ち着かせる時のように声をかけながらじわじわと距離を詰めていく。
ロードは近づいてくる少女に対し飛びかかろうと気を窺うものの、タイミングが掴めず、さながら逃げ場を失った小動物のようにその場で威嚇を続けていた。
(クソッ何であいつこんな手慣れてるんだ!隙が見つからない!)
右手を少し前に出しジワジワと距離を詰める少女にロードは隙を見つけられなかった。
その右手はロードを押さえるためなのか、過度な力を込めずに手のひらを上に見せた状態で構えられている。
困ったようにロードと大吾を交互に見ていた彼女だったが、何かを決めたのかそのままの姿勢で躊躇なくロードに向かって歩いてくる。
「ほら孫の手置いて。ごめん、配慮が足りなかった。似たようなこと言ってあなたたちを騙した奴らが今までにいたんだね。ごめんね」
「配慮なんていらねえよ!帰れ詐欺師!その歳で詐欺師とか救いようがねえぞクソガキ!」
「どっちがクソガキだチビ喚きやがって」
「ああ!?」
それまでの態度を一変し唐突に吐かれた暴言にロードの頭に血が上る。
元々、ロードは短気な性質である。
対人経験が少なく敵意に晒され続けてきた結果作られてしまった性格だったが、短気は損気とよく言われるように時にその性格は彼に失敗を与える。
ただでさえ追い込まれていたロードはコンプレックスを直接刺激する少女の買い言葉に思わず駆け出した。
さながら跳び箱を飛ぶように勢いを付けたまま少女に向かって飛びあがる。小柄な体は160センチはある少女の頭を軽く超え上から襲わんと孫の手を振りかざした。
そこが広い場所であれば避けることもできたであろう。しかし場所は狭い家の中である。そこら中に小物が散らばる薄汚い居間はうかつに動けば転んでしまいかねない。
地の利は自分にある。そう確信したロードは勝利の予感に心を踊らせながら少女の顔めがけ獲物を振るった。たとえ相手が少女であろうと悪党であるならばどうなろうと知ったことではない。自分たちを貪ろうと近寄ってくる人間はすべて敵だ。
「危ないでしょ」
「なっ」
少女が取ったのは前進という選択肢だった。
ロードの間合いから懐に飛び込むように数歩前に進んだ少女は落ちてくる体を受けとめる姿勢に入る。そうなればどうしようもないのはロードである。空中にいる以上、着地するまでの間は自由に動くことはできない。このままでは無様に抱き留められてしまう。自分より何歳も幼い少女に抱き留められるなどまっぴらごめんだとせめて得物の孫の手がぶつけられるよう全力で振るう。
しかし――
「はい、キャッチ」
「――ッ」
抵抗むなしく、ロードは少女に抱き留められた。
しかもどうやったのか直前までロードの手に握りしめられていた孫の手は彼女の左手に移動していた。少女は握っていた孫の手を傍で見ていた大吾に投げ渡すと改めてロードを抱きなおした。
横抱き、いわゆるお姫様抱っこという屈辱極まりない姿勢で抱き留められ怒りに震えるロードに対し、少女は右手を差し出した。
「まあとりあえず握手でもしようか。これからは仲間だからね」
ロードはその余裕綽々の笑顔に怒りの咆哮を上げた。